その日の夕食、わたしが一階に降りて行くと、ソウイチさんとやらはまだ居た。……帰ったと思ったのに。どうしてまだいるんだろう。
わたしは不快な気分で、食卓についた。お客さんがいるからか、食事の内容が普段より凝っているし、食器も上等なものだ。……きっと、お父さんがそうしろって言ったんだろうな。そうまでしてわたしをこの人と結婚させたいのか。
お父さんとソウイチさんは、世の中に関する話をしている。……半分ぐらい、愚痴に聞こえるのは気のせいだろうか。わたしは話を聞き流しながら、食事をした。例によって、あまり味がしない。
時々わたしも話しかけられたけど、興味がないので、どうしてもつまらなそうな返事になってしまう。お父さんが、もっと愛想よくしろと言いたげにわたしを睨んだ。そう言われても、こんな人相手に愛想を振りまく気にはなれない。大体、わたしはこの人に気に入られたくないんだし。
食事が終わると、わたしは「勉強する」と言って、部屋に引き上げることにした。その場に居たくなかった、というのが一番の理由だけど。お父さんはソウイチさんに、部屋を変えて少し飲みませんかと誘っている。……そんなに飲めないくせに。
自分の部屋に戻ったわたしは、勉強机の前の椅子に座った。でも、気分がささくれ立っているせいか、勉強する意欲がわいてこない。
わたしは首のチェーンを引っ張って、レン君からもらった指輪を服の中から取り出した。少し考えてチェーンを首から外し、指輪を抜いて、右の薬指にはめてみる。手を傾けて、違う角度から指輪を眺めた。濃い青紫の石が、ずっと薄い色に見える。
しばらくそうやって指輪を眺めていると落ち着いたので、わたしはノートを広げて思ったことを書き留めることにした。このままでは使えないけれど、時間をおいてから読み返すと、詩を作るのに役に立つのだ。むき出しの言葉は、強すぎるから。
そうやって文章をまとめる作業に没頭していたので、わたしは時間が過ぎるのに気がつかなかった。時計を見ると、大分遅くなっている。いけない、お風呂に入らなくちゃ。
わたしは指輪を外すと、チェーンと一緒に机の上の小物入れにしまった。お風呂にはさすがに持っていけない。寝巻きとガウンを取り出そうとクローゼットの扉を開ける。その時。
部屋のドアがいきなり開く音がした。ノックもしないで部屋に入るなんて誰? むっとして振り向いたわたしの視界に入ったのは、ソウイチさんの姿だった。……まだ帰ってなかったんだ。
「……何の用ですか?」
後ろ手にクローゼットの扉を閉め、わたしは尋ねた。幾らなんでもマナー違反のはずだ。こんな遅い時間に、わたしの部屋に突然来るなんて。
「君は、僕のどこが気に入らないんだ」
押し殺した口調でそう言われ、わたしは返事に詰まった。どこが気に入らないって……一言で言えば、全部だ。何もかもが嫌。態度も、口調も、話す内容も。
でも、それを正直に言ってしまっていいものだろうか。気に入られたいなんて思ってないけど、この人、何だか目が血走っている。あまり刺激しない方がいいかもしれない。
「わたしは、結婚にはまだ若すぎるんです。わかったら、部屋から出て行ってもらえませんか」
言ったけど、出て行く気配がない。そのままそこに立ちつくしている。だったら、わたしの方から出て行ってしまおう。お風呂……は、この人の前で行くのはあれだから、お母さんのところにでも。まだ起きているといいんだけど。
わたしはドアに向かって踏み出し、ソウイチさんの隣をすり抜けようとした。その時、ソウイチさんがわたしの前に立ちはだかった。
「え……?」
思わず足を止め、向こうの顔を見上げてしまう。やっぱり、目が血走っていて、お酒の匂いもする……思った瞬間、頬に鈍い衝撃が入って、わたしは大きくよろめき、床に座り込んでしまった。
殴られたんだ。痛む頬に手を当てる。何が起きたのかを理解した瞬間、恐怖が襲ってきた。逃げなきゃ。そう思うけど、身体が動かない。わたしはただ、うずくまって震えていた。
「一体何が不満なんだ!?」
ソウイチさんがわたしの襟首をつかみ、引きずり起こす。そのまま両肩をつかまれて、激しく揺さぶられた。
「は、離して……」
「お高くとまりやがって!」
向こうの手が、わたしのブラウスにかかった。え? と思う間もなく、派手な音を立てて、ボタンが飛ぶ。続けて、ソウイチさんはわたしのブラウスと、下に着ていたキャミソールを引きちぎった。
「い……いやあっ!」
思わず悲鳴を上げてしまう。ソウイチさんが、忌々しそうな表情でわたしを見た。
「こんなこと、どうせ慣れているんだろ! 大人しくしろよ!」
慣れてなんかいない。レン君に抱いてもらったのは一度きりだし……それに、何度だろうとそんなのは関係ない。わたしに触っていいのはレン君だけだ。
わたしは身をよじって逃れようとした。必死で手を振り回す。振り回した手がソウイチさんの顔をかすめ、頬に浅い掻き傷を作った。
「この……生意気女め!」
また殴られた。続けざまに何度も。床に倒れたわたしは、口の中に血の味を感じた。殴られた時に、どこか切ってしまったらしい。
ショックと痛みで、頭が朦朧としてきた。腕をつかまれて、引きずって行かれる。何とか振り切ろうとしたけど、身体に力が入らない。むしろ余計強く引っ張られるだけだった。
「やめて……やめてよ……」
なんで、こんなことになっているの? どうして、こんなことをされなくちゃならないの? 涙が瞳から溢れた。
引きずられたわたしは、物か何かみたいに、どさっとベッドの上に投げ出された。ソウイチさんがのしかかってきて、わたしに無理矢理キスをする。……気持ち悪い。不快さに耐えられなかったわたしは、相手の唇を力いっぱい噛んだ。向こうが、一瞬身体を離す。
「……このっ!」
また何度も殴られた。……このまま、わたしはこの人の好きにされてしまうんだろうか。もう死んでしまいたい。ううん、死んでしまおう。そういうことになったら。
不意に、鈍い音が響いた。何度も。ソウイチさんがわたしの身体から離れ……それから、悲鳴が聞こえた。
「リン! 立って!」
わたしの手を掴んだのは、ハク姉さんだった。……どうしてハク姉さんが、わたしの部屋に?
「……ハク姉さん?」
「立って! 逃げるのよ!」
ハク姉さんに引きずり起こされる。肩に強い痛みがあったけど、構っていられなかった。見ると、ソウイチさんがうずくまって目を押さえていて、すぐ近くにはひしゃげた電気スタンドが転がっている。
「リン、ほらっ!」
わたしはハク姉さんに引きずられるようにして、部屋を出た。そのまま隣にあるハク姉さんの部屋に連れて行かれる。二人して部屋に入ると、ハク姉さんは部屋の鍵をかけた。
「さっき警察呼んだから。来るまでここに隠れてましょ」
言いながら、ハク姉さんは痛ましげな表情になった。わたしはまだ頭がはっきりしなくて、ただぼんやりとハク姉さんを眺めていた。
「リン、ほら座って」
ハク姉さんは、部屋にある椅子の一つにわたしを座らせた。……未だに、何がなんだかよくわからない。
「……どうして?」
「あんたの部屋はあたしの部屋の隣よ。あれだけ騒げば聞こえるわ」
あ……そうなんだ……。
「とりあえず電気スタンドで殴って、それからこれ浴びせたから、しばらく動けないと思う」
ハク姉さんは、手に持っているスプレー容器を見せてくれた。派手な色をしている。
「……それ、なに?」
「防犯用の催涙スプレー。メイコ先輩がくれたの。夜道は危険だから備えはしっかりしておけって」
ハク姉さんはスプレーの缶を、机の上に置いた。そして引き出しからハンカチを取り出すと、わたしに手渡す。
「ほら、顔拭きなさい」
「う、うん……」
わたしは、言われるままにハンカチで顔をぬぐった。ハンカチに血の染みができる。その時、廊下を走る足音が聞こえた。
「リン、何があったの!? どこにいるの?」
足音に続いて聞こえてきたのは、お母さんの声だった。思わず腰を浮かす。そんなわたしの手を、ハク姉さんが押さえた。
「……ハク姉さん?」
「返事しちゃ駄目。外にはまだ、あいつがいるのよ」
それはそうだけど……外からは、お母さんがわたしを呼ぶ、心配そうな声が聞こえてくる。きっとさっきの悲鳴、お母さんにも聞こえたんだ。
「リン、どこなの!? 返事して!?」
やっぱり……黙ってられない。
「お母さん!」
わたしが呼ぶと、お母さんが、ハク姉さんの部屋の前で立ち止まる気配がした。
「リン!? 無事なのね!?」
「うん。ハク姉さんの部屋にいるの……」
「言っとくけど、安全が確保されるまでリンは外に出さないわよ! あいつ、リンを襲ったんだから!」
お母さんが、息を呑む音が聞こえた。ハク姉さんが、言葉を続ける。
「だから、警察が来るまで外には出ない!」
「……警察は呼んだの?」
「ええ、じきに来ると思うわ」
「そう……わかったわ」
お母さんの声は、それきり止んだ。……でも、それからしばらくして。
「……ハク」
お母さんが、ハク姉さんを呼ぶ声が聞こえた。
「なによ!?」
「リンを助けてくれて、ありがとう」
ハク姉さんは、虚を突かれたみたいな表情で、固まってしまった。
「……あたしたち、姉妹だもの」
大分してから、消え入りそうな声で、ハク姉さんはそう呟いた。小さな声だったから、ドアの向こうのお母さんには、聞こえなかったかもしれないけど。
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