注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 ガクト視点で、外伝その四十四【きつね色の時間】から続いています。
 よって、それまでの話を読んでから、お読みください。


 【おうちへ帰ろう】


 ルカと離れて住むようになって、年単位で時間が経過した。その間にミカも成長し、幼稚園に入る日がやってきた。ルカは来れないので、入園式に付き添ったのは俺だけだった。いつか見せられる日が来ることを願いながら、写真を撮る。
 これくらいの年齢になると、ミカは時々、母親のことを聞きたがるようになった。幼稚園に通う他の子には、おそらくちゃんと母親がいるのだろう。その度に俺は「ミカのお母さんは病気だから一緒に住めない」と説明した。「おみまいにいきたい」と言われるかと心配になったが、まだミカの頭の中に「おみまい」という言葉はないらしく、それ以上訊いてくることはなかった。
 ミカが幼稚園に通い始めてしばらく経った頃、義実家で問題が起きた。義父が突然目を患い、ほとんど失明してしまったのである。視力を失った義父は、今までのように仕事ができなくなり、結果として、俺が義父の後を引き継ぐことになった。
 義父の後を引き継ぐことはもとから予定されていたことだったが、実現するのがこんなに早くなるとは思っていなかった。不安な気持ちはあったが、やるしかない。聞けば、義父も父親を早くに亡くした為、今の俺と同じぐらいの年齢で社長を継いだという。だったら、俺にだってできるはずだ。そう思って、自分に発破をかける。
 義父は元々気難しい人だったが、失明してからそれが更にひどくなり、扱いにくい人間になっていった。聞いた話では、サトミさんとは喧嘩が絶えないらしい。喧嘩の原因は知らないが、かなり派手な喧嘩だったのは確かなようだ。古株のお手伝いさんからこっそり「家の中は、もう滅茶苦茶です」とこぼされたが、俺にもどうにもできない。自分の家庭の問題で手一杯なのだし。俺は、義父に何か言われたら、どうしても譲れない一線以外はうなずいてごまかし、また、用のない時は顔をあわせないようにすることにした。そうでないと、やっていけない。


 それからまたしばらくしてのことだった。突然、ルカが突然電話をかけてきた。義母のところにルカを預けて以来、ルカとは全く言葉をかわせずにいる。義母の家に行ったことは何度もあるのだが、部屋から出てきてくれなかったのだ。仕方がないので義母に伝言を頼み、俺は帰宅する。そんな時間が、ずっと続いていた。
 だから俺は、携帯にルカからの着信が来ているのを見て、ものすごく驚いた。ルカが自分からかけてくるなんて、いったい何があったのだろうか。とりあえず、電話に出る。
「もしもし」
「あ……あなた!」
 数年振りに聞くルカの声は、ひどく上ずっていた。思わず携帯を握る手に力が入る。どうやら、あまりいい状態ではないようだ。
「ルカ、どうかしたのか?」
 久しぶり、などの前振りをする気になれず、俺はすぐにそう訊いた。
「あ……それが……お母さんが……」
 上ずった声のまま、ルカがそう言う。義母に何かあったのか?
「お義母さんが、どうしたんだ?」
 電話の向こうから、深呼吸する音が聞こえてくる。しばらくして聞こえてきた声は、さっきよりも落ち着いていた。
「お母さん、最近、なんだか顔色が悪いし、具合も悪そうで……それで、説得して病院に行ってきたの……お母さんは『大丈夫よ』って言っていたのだけど……」
 そこで、ルカの言葉は一度途切れた。俺は口を挟まず、ルカの次の言葉を待つ。
「検査してわかったんだけど……お母さん、癌だって……」
 さすがに俺も、頭の中が一瞬真っ白になった。義母が癌だと!?
「ね、ねえ……私、どうしたらいいの? 一体どうしたらいいの?」
 ルカはパニックになったように、電話口で「どうしたらいい」と繰り返した。俺は必死で思考をまとめる。俺までパニックになるわけにはいかないんだ。
「ルカ、まずは落ち着いてくれ。病状はどうなんだ?」
 俺は何度も強い調子で言葉をかけた。ルカも次第に落ち着いてきたのか、口ごもりながらも、病院の先生から聞かされた話をしてくれた。どうやら……あまりいい状態ではないようだ。
「とにかく、明日一緒に病院に行って、治療の方針を話し合おう。幸い、いい病院を知っている」
 明日の予定はそんなに詰まっていないから、病院に行くぐらいの時間は作れるはずだ。
「癌だからといって、助からないわけじゃない。治療費は俺が出すから、お義母さんにはできる限りの医療を受けてもらおう」
 俺の言葉を聞いたルカは、黙ってしまった。しばらくの沈黙が流れた後、ルカはぽつんと言った。
「ありがとう……そして、急にこんな用件で電話したりして、ごめんなさい」
「こんな用件って、一大事だろう」
 一緒に暮らしている相手が癌になったのだ。心配するのが当然だ。
「……誰に相談したらいいのかわからなくて……真っ先に、あなたが出てきた」
 その言葉を聞いた時、不謹慎かもしれないが、俺は嬉しかった。ずっと接触を断っていたにもかかわらず、頼られるだけの何かが俺にはある。そう、思えたのだ。


 次の日、俺は義母の家まで二人を迎えに行って、そのまま病院に向かった。ルカの言うとおり、明らかに義母は痩せて不健康そうになっていた。これなら俺でも「病院に行ってください」と言っただろう。
 義母には何度も「すみません」と頭を下げられてしまう。そこまで恐縮しなくても、これくらい当然のことなのだが。
 病院で治療の方針を先生と話し合い、結果として、しばらくは通院で治療することになった。義母が手術を嫌がったのもある。
「今日は本当にありがとうございました。……ルカ、久しぶりに会ったんだし、ガクトさんと少し話をしてきたら」
 義母にそう言われて、ルカがびっくりした表情になる。義母は、微笑んでルカの背を押した。
「お母さんなら一人で帰れるから。ね?」
「でも……」
 義母は俺にまた頭を下げて、そして本当に一人で帰ってしまった。引きとめようかと思ったが、ルカと二人で話をしたい気持ちの方が勝った。折角、お義母さんがこう言ってくれたのだから。
 俺はルカを連れて、病院の外に出た。入り口のところに、ベンチがある。俺たちはそこに座った。
「あ……えーっと……お義母さんのことで頭がいっぱいだったが、こうやってルカと話すのは、本当に久しぶりだな」
 なんだか妙な前振りになってしまった。自分で言って、思わず苦笑いしてしまう。
「え、ええ……」
 ルカは落ち着かない様子で、視線を彷徨わせている。……最後に会った時と比べると、随分感じが変わった。
「今は……どうしてるんだ」
「いろいろ。お母さんの手伝いとか……」
 俺の問いに、ルカが口ごもりながら答える。視線は相変わらず、一箇所に定まっていない。
「……そっちは、どうなの?」
 淡々とした口調で、ルカが訊いてきた。
「ん……社長業には大分慣れた。周りも頑張ってくれてるし、やっていけていると思う。ミカは今年、小学校に入った。写真、見るか?」
 一応、お義母さんに写真は渡してあるのだが、ルカが見ているのかどうかまではわからない。だから、そう訊いてみる。
 ルカは少し考えて、それから頷いた。俺は携帯を取り出して、ミカの入学式の写真を表示した。水玉模様のワンピースを着て、新品のランドセルを背負っている。俺が撮った写真なので、映っているのはミカ一人だけだ。
 ルカは黙って、写真を眺めていた。表情からは、ルカが何を考えているのかまではわからない。
「……仕事、平気だったの?」
 やがて、ルカは淡々とした口調で、そう訊いてきた。心配してくれているらしい……これは、いい兆候だと思っていいはずだ。
「おいおい、どれだけ忙しくても、娘の入学式ぐらい何とか都合をつけるさ」
 ただでさえ母親がいないのだ。父親の俺が出なくてどうする。それに、娘の一生に一度の機会だぞ。
 そう続けそうになったが、あわてて口をつぐむ。こんなことを言ったら、ルカを責めているように聞こえてしまうだろう。
「ミカは、普段、どうしてるの?」
「元気にしてるぞ。色々考えたけど、やっぱり元気なのが一番だしな」
 外に出すのも大事だろうと思って、四歳の時からお稽古事もさせてみる。色々やらせてみた結果、ミカが興味を示したのは水泳だった。オリンピック選手になってほしいとはさすがに思わないが、望むことはやらせてあげたい。
「……そう、元気にしているのね」
「今のところは、まだ小さいからな。『お母さんは入院している』という言葉を、そのまま信じている」
 もっと大きくなったら、これではごまかしきれなくなるかもしれない。そうなると、やっぱり、はっきりさせた方がいいのだろうか。
「ルカは……この先、どうするんだ?」
 訊いてみると、ルカは「え?」と言いたげな表情になった。
「これからどうするのか、ということだ。……どこで、どんなふうに、生活するのか」
 最後に顔をあわせた時は、とてもこんなことを訊くことはできなかった。だが、今目の前にいるルカは、当時とは段違いに落ち着いている。だから、俺も訊いてみる気になった。
 ルカは黙ってしまった。俺たちの間に沈黙が落ちる。
「……ルカ?」
 沈黙に耐えられなくなったので、重ねて訊いてみる。ルカがゆっくりと視線を上げ、こっちを見た。
「……ごめんなさい、考えたことがなかったの」
 言いながら、ルカは視線を俺からずらし、正面を見た。逡巡しているらしく、また口ごもる。
「変な話だけど……今の生活、すごく楽だったから……終わる日が来るなんて、考えたこともなかった」
「お義母さんは、まだ亡くなると決まったわけじゃない。気をしっかり持とう」
 と言ったが、俺にも自信はなかった。義母はさっき、治療に乗り気ではなかった。もしかしたら、そんなにしないうちに……俺は、不吉な想像を頭から振り払った。
「それでルカ、どうする?」
「……わからない。ただ……」
「ただ?」
「あなたに頼るのは、間違っている気がする……」
「俺は、離婚する気はないぞ」
 きっぱりとそう言うと、ルカははじかれたようにこっちを見た。俺の言ったことに、相当驚いたようだ。
「なんで……?」
「言っておくが、巡音の家の為じゃないし、お義父さんのご機嫌取りのためでもない。俺自身が、やっぱりルカとは別れたくないんだ」
 ルカは呆然とした表情で、こっちを見ている。以前から、漠然と考えていたことだった。俺は、ルカのことをわかっているつもりだったが、その実、ルカのことを全然わかっていなかった。その事実は俺にとって辛かったし、打ちのめされた気分にもなった。一緒に暮らしていながら、俺はルカの何を見ていたのだろうと。
 義母はあの時「私がもっとちゃんとしていれば」と言った。だが、それは俺だって同じことだ。俺がもっと周りをしっかり見ていれば、違う展開だってあったのかもしれない。
 だから、お義母さんが模索したように、俺も、自分なりにできることを模索したい。
「私……いい妻にも、いいお母さんにもなれないわ」
 やがてルカは、淋しげにそう言って首を横に振った。
「いい妻とか、いいお母さんとかがほしいんじゃない。ルカに戻ってきてもらって、一緒に一番いい道を探したいんだ」
 上手くいく保証なんてないけれど、俺はそうしたかった。ルカのことを、諦めたくない。その気持ちを伝えたくて、俺は隣に座るルカの手を握った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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ロミオとシンデレラ 外伝その四十七【おうちへ帰ろう】前編

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投稿日:2012/12/27 18:56:37

文字数:4,757文字

カテゴリ:小説

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