もう自らの存在を証明する手立ては失った。

あとは生きるか死ぬかを選ぶだけだ。

そうすれば、余計なことは考えなくてもいい。





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その日から、別の誰かが俺に成り代わった。

記憶喪失になった俺は、自身のことを『神威 学』だと思い込んでいた。

それどころか、屋上から投身自殺をした記憶があったのだ。

それ故に、死にたがったのではなく、自殺したことを悔いていた。

もちろん俺自身、そんなことをしたことはない。

十三歳で死んだのなら、俺は心臓の病気に長い間苦しむことはないはずなのだ。


だが『彼』はすぐに気づいた。

現在の体は、転生後の新たな自分のものだと。

それを奪い取って、すでに死んだはずの自分が今息をしているのだと。


体の元の持ち主のために記憶の復元を手伝い、一刻も早く体を返そう——彼はそう決心したらしい。

それは寄り添う彼女が、生前守れなかった幼なじみと同じ姿の者だったからだろう。

その時、その決心が正真正銘の最悪の事態になると、なぜ誰も気づくことができなかったのだろう。




数週間経ったある日、彼女が自殺を図った。

あろうことか、転生前の彼と同じやり方《投身自殺》で。

彼は後遺症に発作が重なって満足に動ける状態じゃなかっただろう。

それでも彼はやり遂げた。直前で彼女を止めることに成功したのだ。

思えば、後に自身の行動に後悔する彼が、唯一今も正しいと思ってやったことだろう。

俺も、きっとそうしていたに違いない。

彼女が目の前で自殺する——それが俺たちの最悪のバッドエンドだったからだ。




そして、おかしいくらいに雲一つない、ある満月の夜のこと。

『元の持ち主』の記憶の欠片をつなぎ合わせ、寄り添う彼女の名を『思い出す』直前、彼は一つの真実にたどり着いた。

それは、自分自身が巻き込まれた音無事件のこと。

死んだ瞬間、新たな事件の種を自分自身で蒔いてしまった。

そのことに気がついた瞬間、彼の意識は段々と霞んでいった。




……気がつけば、『俺』はとある病室にいた。

さっきまで何をしていたかわからない。

俺は確かに、血を流しながら倒れたはずだ。

だけど今は、病室で彼女の手を握っている。



「記憶が戻って、良かったです」



良かった?何のことだ?

俺は記憶障害でも起こしていたのか?

ただ一つ分かるのは、俺はまた死ぬことができなかったということだけ。

揺るぎない事実に俺は絶望していた。

それを誤魔化すように、彼女の頭を撫でた。






退院後、授業以外の時間を図書室で過ごすことが多くなった。

この学校の図書室は蔵書量が遥かに多く、その上あまり人が来ることがない。

調べている内容をあまり他人に知られたくなかったから、放課後を中心に調べるようにした。

彼女らに時々話を聞き、俺が半年もの間記憶喪失として別人になっていたことは薄々察しがついた。

ただ、周囲の話に、時折とある単語が混じることがあった。

『音無事件』

それはとある学校で起こった、二十数年前の不可解な事件。

八人の少年少女が犠牲になり、学校を廃校にまで追いやった痛々しい事件。

しかしその全貌は詳しくは分かっていない。

以前学園長に話を聞いた時ははぐらかされてしまったのだ。



何十年も前の事件を、知っている人間が少ないのに調べられるわけがない。

普通はそうだ。だがこの学校の旧校舎は、廃校になったある中学校の校舎を使っているのだ。つまり、事件の舞台は、この校舎。

この地域にしか事件の名は伝わっていない。

それに旧校舎内部の数カ所は、誰も立ち入ることのないように封鎖されている。

ただの使われていない校舎を、取り壊しもせずに封鎖するだろうか?

取り壊せない事情がある。それは調べれば詳しくわかるはずだ。



そして、貸出カウンターの奥、損傷が激しく貸出不可になった本を集めている箱の一番底に、小さな手帳を見つけた。

古びた黒いカバーと、手書きの文字が書き込まれた手記。

背表紙に書かれている持ち主の名前は『神威 知也(ともや)』。

俺が高校生の時に事故死した、俺の父親と同じ名前だった。



「……あーあ、見つけちゃったんだね」



振り返ると、妹のグミが立っていた。



「手帳を他の本と一緒に箱にしまいこむなんて。これは貸出用の本じゃない、誰かの私物だろう。どうして落し物として届け出なかった?」

「落し物なんかじゃない。父さんの持ち物よ。お兄ちゃんにだけには、見つかるわけにはいかなかったのになあ」

「だったら尚更、こんな場所に隠していては駄目だろう。それで?これを俺から無理矢理取り返すのか?」

「ううん。だって今お兄ちゃんに逆らったら、私、殺されるもの」

「……何を言っている?」



俺が、大切な妹を殺すわけないじゃないか。

いや、妹だけじゃない。他の誰だって殺すなんてことはしない。

それは、社会のルールから外れた異常行為なのだから。



「ずっとずっと、誰かを殺したい気持ちが心の奥に染み付いてしまっているんでしょう」

「だから、そんなことをしないように、別のものに衝動を向けているじゃないか」

「そうね。自分自身を消そうとして、そして失敗した。自分の兄をこう言うのはなんだけど、あなたは生き残るべきではなかった。断言する、あなたが次に手をかけるのは、ルカちゃんだよ」



何を言っている?

俺が、彼女を殺す?

俺は彼女を守りたいのに、逆のことをするって?



「違う、彼女だけは絶対に失ってはいけない、だから、俺が近づいてはいけないんだ」

「それが正解だよ。私の親友に手を出したら絶対に許さない。彼女が悲しむことになってもいい、どんな手段をとってでも、絶対に今度こそ彼女は死なせない」

「泣けるほどすばらしい友情だな。それとも、救えなかった誰かを重ねた、ただの贖罪かな」

「血は繋がっていないにしろ、妹にかける言葉じゃないわね。いい?その身体は限界が近く、治療行為の全てを辞めれば一年以内に死んでしまう。……誰にも疑われず、ただの人間としてこの世から消えたいんでしょう?」

「わかってるさ。もう学校に用はない。教師を辞めて、たった一人で最期の時を待つ。また間違えてしまう前に」

「ちゃんとわかってるならいいの。じゃあね、お兄ちゃん」



グミは俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。

戸籍上、兄でいた期間などほんの僅かだったというのに。

ただ、俺という一人の人間への態度というよりは、別の誰かを重ねて見ているような、そんな心地がしていた。

俺が心臓に病を抱えていると知ったときから、しっかりと目を見なくなった。



グミはきっと、俺が人ではないことを知っていたのだろう。

それを恐れて遠ざけるのではなく、対処の方法を探り続けていた。

勿論、どうしてグミがそんなことをしていたのか、俺は知らなかった。

その理由をなんとなく知ったのは、先日手に入れた手記からだった。



『生まれた我が子は、あの子にそっくりだった。かつて俺が放置したせいで自殺してしまった弟、学と瓜二つだった』

音無事件、二人目の被害者であり、俺の記憶に染み付く第二の存在。手首の傷の元凶。

俺が大きくなるほどに、どんどん弟の姿に近づいていく光景が恐ろしかったらしい。

だからずっと、罪滅ぼしのために事件のことを調べていた。

事件の被害者の一人と関わりがあったこと。当時の事件の被害者の状況、その末路。

小さな手帳には、唯一当時のことが詳細に書き込まれていた。



父は、俺を見ていなかった。

かつて身内を死なせた罪悪感から、その弟を重ねて見ていたのだ。

そしてグミも手記を見て、父が死んでしまった後も密かに色々なことを調べ続けたらしい。

ページに刻まれる筆跡は、途中からグミのものになっていたのだ。


最後のページを読み終えた時、胸に湧き上がったのは知りたかったことがわかったことへの安心感ではなかった。

俺が誰にも認められない、誰とも関わってはいけない化け物であるという事実だけが、ただ手元に残った。




紅葉が散り、吐く息が白く可視化される冬も近い十一月の末。

全体での正式な挨拶もせず、俺は学校を去った。

思うところがあったのだろう、学園長は何も引き止めなかった。

そして彼女にすら何も話さず、俺は外界との関わりを絶った。



テレビもラジオも、電源を入れても正常な音を発することはない。

新聞を読むほど世の流れに耳を傾けていたわけではなく、世間の情報を得ることを諦めた部屋はあまりにも殺風景だった。

緩やかに変わりゆく世界を知ったところで、己の異常さを打ち消すことなんて、できやしないのに。



カチ、カチと正確に刻まれる時計の音と、未だ尚醜く生きている自らの呼吸音。その二つだけが響く狭い部屋。

眩い日差しが室内の空気を温め、一番高い場所から段々と落ちていき、橙色に窓辺を染めては暗がりへ消えていく。

天気のいい日は、月の薄明かりが部屋に差し込んだ。そんな日はよく眠れた。なんの夢も見ることはなかった。




カーテンを取り去った窓辺に背を預け、寝具でまともに眠ることを諦めたまま、ほとんど一日中そこで座って過ごしていた。

外気の冷たさが伝わる窓にもたれながら考えることは、離れたことで平穏に暮らしているはずの彼女のことだけだった。

今度こそ、彼女は危険なんて程遠い場所で生きていける。

彼女と過ごした日々を思い返そうとした時、ふと気がついた。

俺の記憶は、事故に遭ってからの半年間だけではなく、それ以外も所々欠けている。

腰まで伸びる艶やかな桃色の髪、透き通るようなうつくしい碧眼。その容姿はいとも容易く思い出せるのに。

俺は。彼女と、どうやって出会ったんだったっけ?




そうして、日を数えるのをやめ、朝か夜しか知覚せずただ生きていた時。

ずっとずっと静かだった室内に、チャイムの音が鳴り響いた。

時計と呼吸以外の音を聞いたのは久しく、最初はそれが何の音なのかわからなかった。

そうして、誰かが俺を訪ねてきた音だと理解して、それを無視した。

だけど、今度は着信を告げる電子音が聞こえた。

すぐに切ってやるつもりで、通話相手の確認もせず、俺は携帯電話の通話ボタンを押した。



『先生。いるんでしょう。開けてください』



その声を聞き間違えるはずはなかった。

その人のために俺は姿を消したのに。

どうして当の本人から近づいてきてしまうんだ。



「馬鹿だな。どうして来たんだ」

『どうしても何も、あなたが何も言わずにいなくなってしまうからじゃないですか』

「どうせ事情はグミから聞いているんだろう?」

『私は、あなたの口から聞きたかったんです!こんな、まるで私から逃げるようなことは、してほしくなかった。何かの間違いだって、そう思いたかった』



声を聞いた瞬間に通話を切るのが一番の選択だったはずなのに、焦がれていた声を聞いた瞬間、俺はどうしても自分からそれを終わらせることができなくなった。

ああ、こうなることがわかっていたから、会いたくなかったのに。

そこにいるとわかった瞬間、忌々しい破壊衝動が、久しく何も感じていなかった身体に湧き上がるのを感じた。



「間違いじゃない。俺は君から逃げたんだ。君を傷つけたくなかったから」

『そんな理由で、私が納得するとでも?』

「納得してもらわないと困るんだ。君が想像しているような理由じゃない。俺は君の前にいてはいけない」

『根本的な理由を聞いていません。そもそも、私の気持ちを無視してそのまま左様なら、なんてあまりにも冷たいじゃないですか』

「君の気持ちは関係ない。悪いことは言わない、早く帰りなさい」

『嫌です』



君は俺の正体を知らない。

それは俺が彼女の前で欺き続けたことが原因だ。

だからこそ、その危険が迫っていることにも気がつけない。


頼むから、もうそこから逃げてくれ。

俺が俺でなくなる前に、過ちを繰り返す前に。



「俺のことなんて忘れたほうが身の為だ。だから、もう……帰れ」



通話を切り、腕を振って携帯電話をベッドの方へ投げる。

カラカラ、ガチャン。

音はなぜか、ベッドと、玄関のほうからした気がした。



「……手癖が悪いな。優等生の君が、そんなこと、どこで覚えてきたんだ」

「グミちゃんのところから、ちょっと拝借しました。無理矢理にでも会ってしまえば、きちんと話を聞いてくださると思ったので」



鍵を指先で振り回す君は、制服姿のまま、ベッドの上に投げ捨てられた携帯電話を見つめていた。



「手癖が悪いのは、先生も同じみたいですね」



だから君は、気がつかなかったんだろう。

窓辺から立ち上がる俺が危害を加えるなんて、思いもしていないだろうから。



「こんなところまで来るなんて、本当に馬鹿だな」



君を殺してしまうかもしれないことを恐れていたから、離れていたのに。

手が届くところに来たら、駄目じゃないか。



——気がついた時には、倒れ込んだ彼女を抱きとめていた。

足元にはスタンガンが転がっていた。

……こんなもの、手に入れた覚えがない。その記憶すら忘却しているらしい。

だけどこれがあるということは、俺が彼女に対して使ったのだろう。



もう、何もかもがどうでもいい。

大事にしていた。大事だから遠ざけていた。

あれ、なんで遠ざけていたんだっけ。

彼女を死なせてしまうから?

死なせてしまうかもしれないなら、閉じ込めておけばいいじゃないか。

俺の目の届く場所にいれば脅威は及ばないだろう。

ようやく手に入れたんだ。


彼女の……彼女の名前は、なんだったっけ。

記憶を思い返す。穴だらけで支離滅裂な記憶を。

たくさんのものを壊してきた。たくさんの人を傷つけてきた。

その遥か先の記憶の中で——腕の中で、歌を歌いながら死にゆく君の姿が、あまりにも儚くて。

そうだ。君を守りたかったんだ。

だから、これでようやく、俺が守ってあげられる。



「もう苦しまなくていいんだ、香(かおる)」



ようやく口にできた彼女の名は、なにかが違う気がしたけれど、思い出すことはできなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Memoria --『Serenade』--

【Serenade】英語で『小夜曲』。セレナーデ。
夕べの窓辺で、女性のために歌われる恋の歌。
器楽合奏。

ゆっくり書くと言ったな。
前回から6年後はゆっくりすぎるな。

次回は交響曲。
memoryのパラレルワールドのこのシリーズも、次でラストの予定。


First 『Preludio』 :http://piapro.jp/t/UARx
Second『Traumerei』:http://piapro.jp/t/r3WP
Third『Fantasia』 :https://piapro.jp/t/Wf-U

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投稿日:2020/12/14 01:23:10

文字数:5,971文字

カテゴリ:小説

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