とある海に、この世のものとは思えないほど美しい歌声を持ったセイレーン達がいました。
セイレーン達は、自分の歌声が美しく、それは人を狂わせて溺れさせてしまえるほどの力があることを知っていました。
そして、その美しい歌声で毎日のように何人も海に来た人間達を溺れさせては、自分の歌声の美しさを見せしめて自慢していました。
誰が一番美しい歌声を持っているかどうかを、歌にして競い合っていたのです。
ですが、その中にひとりだけ、とてもこころの清らかで優しいステリーナと言うセイレーンの少女がいました。
彼女はその場に居るどのセイレーンよりも可憐で、それは月が彼女に恋をして海に落ちてしまいそうなほどの美しい歌声を持っていましたが、誰よりも優しいこころを持っていたため、一度も歌ったことがなく、人間を溺れさせたこともありませんでした。
ある日、イルソーレと言うとても平凡で、素朴な愛らしい少年がそのセイレーン達の目に留まったのです。彼は、そこがセイレーン達の暮らす海だとは知らずに、海岸に一人でやってきて、貝殻を拾いはじめました。それは、昔から体が弱く海まで歩いてこられない自分の姉に、白くて綺麗なハート型の貝殻を見せてあげるためでした。
彼女が、いつも彼に海が見てみたいと話して聞かせていたからです。
「お姉ちゃんの病気が治りますように」
優しいイルソーレ。小さな手のひらの上に乗った白いちいさなハート型の貝殻は、イルソーレの目には姉のこころのように見えていました。
「あんなところに、男の子がいるよ」
セイレーン達の目が釘付けになります。
「わたしの歌声で、溺れさせてやる」
セイレーン達が、一斉に翼を羽ばたかせて人魚の尾をゆらめかせながら、彼がいる海岸を目指して飛んでいきます。
白い羽に白い人魚の尾を持ったステリーナは、それを遠くの岩陰からこっそり覗き込んで見ていました。イルソーレと言う、愛らしい少年を一目見て恋に落ちてしまったのです。
一度も歌ったことがなく、人間を溺れさせたこともなく、セイレーンには珍しい白い羽と白い人魚の尾を持った美しいステリーナは、他のセイレーンからよく思われていませんでした。
なので、彼女はセイレーン達がイルソーレを取り囲んで歌うのを、遠くの岩陰から覗いて見ていることしかできなかったのです。
「この子、男の子なのに貝殻なんか拾ってどうするつもりなんだろうね。ばかばかしい。あはは」
「本当だね。こんなちっぽけな白い貝殻よりも、もっと美しくて素晴らしいわたし達の歌声を聴かせようじゃないか。溺れてしまうほどの美声を」
セイレーン達に取り囲まれたイルソーレは、手の中にぎゅっとちいさな貝殻を握りしめて、子犬のように身を縮こませて震えています。
「なんてひどい……」
ステリーナは、口に手を当てて、眉を寄せてじっとその様子を伺い見ていました。
「さぁ、お聴き、わたし達の天国への道の歌を」
そう高らかに一人のセイレーンが空を仰ぐと、一斉にイルソーレを輪になって取り囲んでいたセイレーン達が、聴いているのも恐ろしい程に美しい歌声で歌い出したのです。
イルソーレの頭のなかで、その歌声が天国へ続く階段のようにイルソーレを優しく手招いているのです。さぁおいで……さぁおいで……と。
イルソーレは、手に持った貝殻を胸に抱いたまま、目をぎゅっと閉じてそのちいさな体を海に投げ込んでしまいました。
セイレーン達の歓喜に満ちた笑い声が辺りに響いて、そして、誰の歌声が彼のことを飛び込ませたのかと言う話で言い争いが起こりました。
海に飛び込んだ少年のことなど、もうどうでもいいと言った空気が漂っています。
強い波と海の流れに乗って、イルソーレの体はどんどん海外から離れて行きます。
「待っていて。わたしが行くから」
他のセイレーン達が言い争っている間に、ステリーナは隙を見て、少年が溺れて手を伸ばしている海の上空へと羽ばたいて行きました。
そして、彼の片手が、完全に海に沈んでしまう前に、彼の手を鳥のかぎ爪でそっと傷つけないようにつかまえたのです。
彼の体を海から掬い上げて、飛んでいくと、他のセイレーン達から遠く離れた町外れの森の中の原っぱに、彼のことを優しくそっと寝かせました。
「……きみは、ぼくを助けてくれたの?」
「ごめんなさい。他のセイレーン達があなたをこんな酷い目にあわせるなんて」
「きみは、優しいセイレーンなんだね」
「あの海外にはもう行ってはだめよ。あそこはセイレーンの棲み家なの。あなたが生きていたなんて知ったら、大変なことになるわ」
「どうなるの?」
「彼女達は……みんな溺れて亡くなってしまう」
そう言うと、ステリーナはイルソーレを見て、頭を深く垂れてお辞儀をしました。
「セイレーンの歌声を聴いて生き残った人がいる時は、セイレーンは海に飛び込むことになっているから」
「……大丈夫さ。ぼくはそんなひどいことはしないよ。貝殻も拾えたし。きみが助けてくれたおかげさ。本当にありがとう」
イルソーレは、明るくほほ笑んでそう言うと、辺りを見回してこう言いました。
「ここはぼくの家のそばの森みたい」
「体に痛いところはない?」
「うん。早く帰らないとお姉ちゃんと家族が心配しちゃうよ。家に帰らなくっちゃ」
イルソーレが、そう言って家に帰ろうとすると、ステリーナは寂しそうな声で言いました。
「また、あなたに会いたいわ」
「じゃあ、また明日、この場所で会おうよ」
「本当にっ?」
「うんっ。きみは優しいセイレーンだから、ぼくはきみと友達になりたいよ」
「嬉しいっ」
ステリーナは、恋をする少女の顔でほほ笑んで、羽ばたいて家に戻って行きました。
次の日になって、ステリーナが森の原っぱで待っていると、そこに約束通りにイルソーレがやって来て手を振りました。
日向のあたる原っぱでふたりで花を摘んだり、ステリーナがイルソーレのために拾って来た真珠のように綺麗な貝殻を眺めたり、それはそれは、楽しい時間が過ぎてゆきました。
日に日にステリーナのイルソーレを思う気持ちは増してゆきます。
「彼のことを思う気持ちを美しい歌にして彼に聴かせたい。だけどそんな事をしたら……」
彼女のこころのなかは、彼を思って作られた歌でいっぱいでした。
彼といっしょに過ごした毎日を、優しく、温かいうたにして、いつかそれを彼に聴かせてあげることをゆめに見ていました。
誰もいないひとりぼっちの洞窟の中で、そんなことをゆめに見ながら、彼女は眠ります。月明かりだけが彼女のことを優しく照らしていました。
ある日、いくらイルソーレが待っていても、ステリーナが森の原っぱにやって来ませんでした。
イルソーレも、いつの間にか、こころの優しい、可愛らしいステリーナに恋をしていたのです。
彼女に会いたくてたまらなかった彼は、彼女の住んでいる海に、彼女のことをこっそり探しにやって来たのです。
するとどう言うことでしょう。
彼女が緑の草が生い茂る断崖絶壁で、他のいじわるなセイレーン達に取り囲まれて捕えられていたのです。
「最近、姿が見当たらないと思ったら、お前は森の中に人間に会いに行っていたのかい」
ひとりのセイレーンが、砕かれた氷のように冷たい目で彼女を見てこう言います。
「気高い生き物のセイレーンが、人間に会いにいくなど愚かなこと。それに、その人間を美しい歌で溺れさせることもできないとは……」
セイレーン達が、けらけらと高笑いをしながら、捕えられて俯いているステリーナを見て、見下して馬鹿にしています。ステリーナが、その場にいる誰よりも美しい声を持っているとも知らずに。
「彼を……愛しているの」
「人間に恋をしたセイレーンだと? ますます滑稽だ。お前はセイレーンでいる資格などない」
胸を大きく膨らませた、一羽のセイレーンが三日月のように鋭い目を細めて、そして口元にほほ笑みを浮かべました。
「お前をこの海に沈めてやる。もう誰にもその歌声が届かない深い海の底に落ちていくがいい」
「やめて!」
ステリーナの白い羽をふたりのセイレーンが鋭いかぎ爪で捕まえます。そして、今にも雨が降り出しそうな灰色の雲の下に、彼女をつかまえたまま、ゆらりゆらりと羽ばたいて行きました。
ステリーナの体が、空の上でうなだれて宙吊りになっています。
「さぁ、その頭の悪い娘を早く海の底に沈めておしまい。2度と誰にも歌声の届かない海の底へ」
「そんなことはさせないぞ!」
「誰だ!?」
岩陰に身を隠していたイルソーレが、海岸からさっと姿を表し、セイレーンから海に溺れた鳥のような悲鳴が上がりました。
「ぼくの姿を忘れたか! お前たちに海に溺れさせられそうになった。でも、そのステリーナがぼくのことを海から掬い上げてくれたんだ!」
「生きていたのか。お前……」
腹の底から煮え繰り返るような声で、セイレーン達が彼のことを人間に蹴り上げられた猫の瞳のように睨みつけています。
「お前たちの声を聞いても、ぼくは生き残った! 掟の通り、お前たちはみんな海に沈むんだ!」
それを聞いたセイレーンは、ふっと黒い瞳を光らせて腹の底から響いてくるような声で言います。
「……なら、このセイレーンも道連れにして溺れてやろう。2度とお前たちが会うことが叶わなくなるように……」
空に羽ばたいたセイレーン達が、最後の歌声を灰色の空に向かって悲鳴のようにあげながら一斉に海に飛び込んでいきます。
その中に、捕えられたままのステリーナの姿もありました。
ステリーナの姿は、高波が押し寄せてくる水飛沫の上がった海のなかに消えてゆきました。
「ステリーナ!」
イルソーレは、迷うことなく海のなかに飛び込んでゆきました。
雨が降り出しそうな荒れ模様のなか、流れの激しい海のなかで泳ぎながら彼女の姿を探します。
白くて綺麗なステリーナの姿は、暗い海の中でも光り輝いて、それはすぐイルソーレの透き通るガラス玉のような瞳のなかで煌めきました。
海の中で、沈んでいく彼女の体を、そっと両手の中に受け止めて、イルソーレは酸素を求めて水面まで泳ぐと、一気に息を吹き返しました。
そして、暗い海の中をただひたすらにひとりで、もがいて泳ぎ続けました。
ステリーナの優しい、ひだまりのような笑顔を思い出しながら。
「……イルソーレ?」
ステリーナが目覚めると、白い砂浜に打ち上げられたふたりは、隣同士に横たわっていました。
「……イルソーレ!」
イルソーレは、すでに息を引き取った後でした。
閉じられたまぶたに、冷たく白くなった体。
ステリーナは、彼のことを白い羽の中にそっと抱きしめながら、ぱらぱらと、彼女の涙のように降り出した雨から彼を庇いました。
「あなたのことが、大好きだったのよ。それすらも伝えることができなかった」
雨に濡れた砂浜には、彼に拾って見せた綺麗な貝殻がいくつも落ちていました。
それを見て、森のなかで彼と過ごした日々が甦ってくるようでした。
「あなたを……愛していたわ。こころから」
彼を白い羽のなかに抱きしめながら、ステリーナは、優しくそっと歌いはじめました。
あなたと森の原っぱで、風と戯れあって遊んだり、綺麗な花を摘んでわたしに見せてくれたり、海岸で拾った貝殻の星空のうたをふたりで聴いたり。毎日がとても幸せで楽しかったの。
あなたといる時間はゆめのようだった。綺麗な宝石がなくても、宝石のような言葉があった。
何よりも美しいのはこの歌声じゃなくて、あなたが見せてくれたもの。
あなたがわたしにこころをくれていたの。
「……愛してる。イルソーレ」
その歌声は、他のセイレーン達が歌っていた歌とは比べ物にならないほど綺麗な歌声でした。
例えるなら、色とりどりの宝石で飾られたドレスやアクセサリーで着飾って自分の地位を見せつける貴族階級の女性達と、ひとつも飾らない素朴な装いと、ちいさな花のようなこころで歌う少女の違いです。
ステリーナは、イルソーレと過ごした日々をちいさな歌に変えて、ふたりのこころを残そうとしたのです。
風や花や、星、木々のささやきに変えて。
すると、さっきまで雨が降っていた空の切れ間から、光が差し込んでふたりのことを天使の階段が照らしていました。
それを見上げて、ステリーナは、ひとすじの花のしずくのような涙をこぼしました。
生きているイルソーレに、もう一度会いたくて。
彼の優しい笑顔が見たくて。
すると、ステリーナの白い羽のなかで、冷たかったイルソーレの体が、だんだんと温もりを帯びて温かくなっていくのがわかりました。
イルソーレの小さかった鼓動が、音楽のようにとんとんと大きく聞こえはじめたのです。
「……ステリーナ……?」
永遠の眠りについたイルソーレが、なんと人を歌声で溺れさせるセイレーンの歌声で生き返ったのです。ステリーナの羽の下から出てくると、辺りを見渡して、不思議そうにしています。
そして、ステリーナの体にも変化が起こりました。
なんと、光に包まれた真っ白な羽と人魚の尾が、人間の手と足になり、ステリーナはみるみるうちに人間の少女の姿に変わったのです。
「イルソーレ! 生きていたのね!」
「ぼくは……。暗い海のなかできみの歌声が聴こえたんだ。それが花の道標になって、それを辿って泳いで来たら、ここにいたんだ」
「わたしの歌声が聴こえたの……?」
「この世のものとは思えないくらい綺麗な歌声だったよ。きみがぼくのことを歌にしてくれて、その歌声がぼくのなかに宿ったんだ」
「イルソーレ。愛してる!」
「ぼくもきみを愛してる!」
ふたりは抱き合いました。
そして、白い砂浜に輝いている、いくつもの貝殻の光のなかに照らされながら、キスをしました。
人間になったステリーナとイルソーレは、いつもふたりが会っていた森のなかでちいさな結婚式を挙げました。
そして、イルソーレの姉の病気を、ステリーナの歌声で治して、イルソーレの姉は海までひとりで歩いて行けるほどに回復をしました。
イルソーレとステリーナは、今までと変わりなく、海岸で拾ったハート型の貝殻をお揃いのネックレスにしたり、森のなかでうたの好きな可愛い子供達に囲まれながら、花の輪になるように歌って踊って、いつまでも幸せに暮らしました。
end.

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

海から花の道標

夏なので、セイレーンを
お題にした爽やかな
海の恋愛物語をひとつ♡*̣̥

完全創作オリジナル小説です☽

閲覧数:113

投稿日:2023/07/30 00:20:34

文字数:5,841文字

カテゴリ:小説

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