俺は空に向けていた視線を戻すと、すぐに携帯を取り出して時間を確認した。おかしな部屋で閉じ込められていた時間は、数分の出来事だったようだ。もしあのまま閉じ込められていたらと思うとゾッとする。今後は興味本位の行動は慎むようにしよう。
雨が降ってくる前に移動を済ませ、現地でライブの態勢を整えておきたい。俺は駅へと急いだ。
切符を買い、改札を通る。電車はすぐにやってきた。平日の午前、電車はそれなりに混んでいた。空いている座席も見られたが、俺は無理に座らず出入り口の近くに立ち、外を眺めた。
ゆっくりと電車が動き出す。電車がホームを出たところで、俺はまたしても見た。
ビルの屋上で二本のツインテールを風になびかせている少女。それはコスプレなどではなく、以前ライブで見たことのあるホログラムの初音ミクにそっくりだった。
(な、なんだ。どうしてこんな場所に……)
ライブ、もしくは誕生日の特別な演出かと思われたが、ホログラムを発生させる装置などの類は見当たらない。
(く、くそっ!)
電車が本格的にスピードを上げ始めたため、ミクのは周りの景色と共に一気に後ろに流されていった。
次の駅で降りて、あのビルまで行ってみようか。そんな考えが頭をよぎる。しかし、先程はそれで危うく閉じ込められそうになったのだ。今日は大事な日。これ以上、予定外の行動は慎むに限る。俺は頭から離れないミクの姿を強引に振り払うと、外の景色を眺めたまま電車が目的地に到着するのを静かに待った。
ライブ会場付近の駅に到着するまで、30分以上の時間がかかっただろうか。その間考えていたことは、結局例のビルの屋上に見つけたミクのことだった。考えないようにしていても、それすら逆に考えさせる一因になってしまうというもどかしさ。
今日のライブ、サプライズ的な何かを期待できるのだろうか。今日という特別な日に起こった不思議な出来事。特別な何かを期待しない方がおかしいというものだろう。
そんな何かに期待するドキドキ感とは裏腹に、ライブ会場に向かい始めてから、俺は違和感を感じ始めていた。早朝出勤組とでも呼べばいいのだろうか。予定よりも何時間も早くから現地に集まっているであろう人間を一人も見かけないのだ。
(日付を間違えたか?)
俺は携帯を開くと、恐る恐る今日の日付を確認した。そこに表示されていた日付は8月31日。
(大丈夫。今日で間違いない)
俺は僅かな違和感を振り払うと、混乱する頭を整理するためにまずはライブ会場に向かってみることにした。現場に行ってみれば一番手っ取り早い。この時間であれば、既にスタッフが動いているはずだ。
ようやく辿り着いたライブ会場。入り口はピタリと閉じられスタッフの姿は一人も見えない。
「ぐぐっ……」
得体の知れない恐怖に、うめき声が漏れる。
会場には人気がなかった。ポスターの類も貼られてはいない。ライブ会場を間違えたのか。いや、それはない。ではなぜ……。
俺は携帯を開くと、インターネットで最新の情報をチェックすることにした。ライブ中止の知らせが出ているかもしれない。だが何が悪いのか、携帯は圏外のまま繋がろうとしない。場所に問題があるわけではないだろう。携帯が壊れたとも考え難い。
何がどうなっているんだ……。
「あっ……」
額に冷たい感触。雨であった。
曇り始めていた空が、とうとう泣き出したようだった。俺は急いで雨が凌げる場所を探した。しかし、すぐには見付からない。
(仕方ないな)
このまま濡れ続けるわけにもいかない。俺は一先ず駅まで戻ることに決めた。
俺が戻ろうと振り返った時、視界の端に何か緑色のものが見えた。
(ミクだ! 間違いない!)
一瞬だけ見えたミクは、ライブハウスの側面へと消えていった。
すぐに俺はミクを追って走り出す。しかし角を曲がってもそこは雨音だけが支配する空間であった。
ふいに、ライブハウスへと続く扉が俺を導くかのようにキィと音を立てた。
(ミクは中か……)
俺は奇妙な感覚に囚われながらも、ライブハウスの中へと足を踏み入れた。
通路はがらんとしており、誰かがいるような気配は無い。
俺はそのままホールの方へと足を向けた。
(この扉の先に……)
ホールへと続く扉。俺はそこで動きを止めた。見てはいけないものを見てしまいそうな予感と、非日常の世界への甘い誘惑。俺は深呼吸を一つすると、意を決して扉を開いた。
誰もいないはずのライブホール。静寂だけが支配する空間には、緑の少女が一人立っていた。俺が何か声をかける前に、緑の少女、初音ミクはこちらを振り向き一言呟いた。
「待ってたよ」
俺は目の前の現実を何の疑いも抱かず受け入れていた。
「私はアペンドのライト。お兄さん、ミクが大変なんだ。ちょっと助けてくれないかな」
「俺に出来る範囲ならやってみるよ」
たぶん、俺は最初からミクに誘導されてここまで来た。今ならそれが分かる。
「ありがとう。お兄さんを選んで良かったよ。それじゃ、ミクと代わるから後は任せたよ」
「完全に任されても困るっての」
そもそも何が大変なのか。しかし、俺の言葉を聞き終える前にライトは消えた。そしてその瞬間、辺りにミクの泣き声が響き渡った。
「わーーーん。私壊れちゃった! このままじゃライブに出れないよーーー」
ライトと初音ミクに、まさかこれだけの表情の差があるとは驚きだ。
ミクに代わった途端、落ち着きのあった表情にあどけなさが宿り、周りの温度が少し上がった気がする。
「わかったから、ちょっと落ち着きなさい」
ミクは『大変なんだから』と叫び首を振る。そのたび俺の顔面をツインテールの先が掠めた。
「ジタバタしないの。まずは何が大変なのか説明してもらわないと。ライブ中止とか、俺も嫌だしさ。何とかするから」
そう言ってもミクはなかなか聞く耳を持ってくれない。またしてもツインテールが俺を直撃した。
ん?
ツインテールの直撃を受けた瞬間、俺は微かに鈴の音を聞いたような気がした。
「ミク、ひょっとしてノイズが出てる?」
この一言に、ようやくミクは落ち着きを取り戻した。
「やっぱり、おかしな音が出てるよね。私壊れちゃったのかな?」
「断言は出来ないけど、この程度なら何とかなるんじゃないか」
何とも無責任であるが、壊れたというほど重度のエラーではなさそうだ。
「どこかに鈴を付けているだけなんじゃないのか? 服とかさ」
「そんなの付けた覚えは無いんだけど。ほら、どこにも付いてないよ」
ミクは俺の目の前でゆっくりとターンしてみせる。それほど華美な装飾の施されている服装ではない。鈴のようなものが付いていないことは一目で分かった。
「確かに何も不自然なものは付いてないな」
「でしょ。やっぱり私の内部からノイズが出てるのかな?」
「うーん」
目の前のミクの身体構造がどうなっているのか、俺にはさっぱり分からないがどうもそういった類のノイズではないような気がする。
「たぶん違うと思う。とりあえず動かないでくれ」
「うん。わかった」
ミクはそわそわと落ち着かなさそうにしているが、それでも一応動きを止めてくれた。
「…………」
「ねぇ。どうしたの」
「シッ。静かに」
俺は目を閉じて耳を澄ませる。自信の心臓の音が酷くうるさい。俺はさらに集中する。ミクの鼓動すら感じられそうなくらいに。
暗闇の中、リーーン、リーーンという微かな鈴の音色が聞こえた。
俺はパッと目を見開くと音のした方を見た。そこには大きな緑色の塊が存在した。鈴のような音色はツインテールから発せられていたのだ。
「どうやらツインテールから鈴の音がするみたいだ」
「私の髪の毛から?」
「何か思い当たる節は?」
「ないよ」
音の発生源は判明した。後はどうして発生しているかが分かれば解決するのだが。
俺はツインテールに触ってみたり、振ってみたり思いつく限りのことを試してみたのだが、全てが徒労に終わってしまった。
「どうしよう。もう時間がないよ」
「何! もうそんな時間か」
携帯で時間を確認すると開場一時間前ほど。そろそろ、というよりもう準備に取り掛かっていないといけない時間帯だろう。
「クソッ。ゴメンな」
「ううん。私のために、一生懸命になってくれてありがとう。私決めたから、ツインテールだけ切ることにするよ。たぶんそれで……」
「ちょっと待てよ。ミクのツインテールはッ!」
トレードマークと言っても良いほど特徴的で綺麗なツインテール。それを誕生日に切ってしまうなんて残酷すぎる。
「私はみんなに素敵な歌を聞いて欲しいの。だからこれくらい大丈夫!」
作り笑いではない本当の笑顔で、ミクは俺に笑って見せた。
「分かったよ。ならそれは俺の役目にさせてもらうぜ」
ミクのツインテールを切り落とす。その罪、俺が被ろう。
「恨むなら俺を恨めよ」
「誰も恨んだりしないよ。ライブ楽しみにしていてね」
俺はミクから鋏を受け取った。
(ミク、それからみんな、ごめんよ)
俺は心の中でミクとミクを応援する全ての人に謝った。同時に指先に力をこめる。
鋏が髪の毛を切り裂く感触。ミクの自慢のツインテールはパラパラと地面に落ちた。
「私ショートカットも似合うでしょ」
「馬鹿。そんなボサボサじゃダメだろ。キチンとセットしてもらえよ」
ツインテールの尻尾の部分のみを切り落としたので、ミクの髪型は大変なことになっている。
リーーン。リーーン。
落ちたツインテールから鈴の音が聞こえる。
俺はそこに小さな黒いものを見付けた。
「ちょっと待て!」
俺はそれを優しく手で包み込んだ。
「ノイズの正体発見したぜ。鈴虫だ」
なんてことはない。あの大量の髪の毛の中に鈴虫が一匹紛れ込んでいたのだ。
「なーんだ。あははっ」
ミクは怒るでもなく、愉快そうに笑った。俺も釣られて笑う。
「ミクはやっぱりどこも悪くなかったんだよ。俺がもう少し丁寧に調べていれば切る必要は無かったのに……。ゴメンな」
「気にしないで。私ライブ頑張るから、あなたも精一杯盛り上げてね」
「任せとけよ。誰よりも盛り上げて見せるからよ」
俺は片手を上げてミクに応えると、ホールの出入り口へと歩み始めた。たぶん、ここに俺がいてはいけない。俺もいるべき場所に帰らなければ、ライブに間に合わなくなってしまう。
「あの……。私を助けに来てくれてありがとう!」
ミクからの感謝の言葉。俺は何の力にもなってやれなかったけど、それでもその一言が嬉しかった。
そしてふと気が付く。俺もミクに言うべき言葉があったことを。
「ミク! 誕生日おめでとう!」
俺は振り返り、ミクに大きく手を振った。
ミクは満面の笑みで応えてくれた。
ありがとう。
俺はホールの出入り口のノブをそっと掴んだ。
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