「初めまして、マスター。私の名前はMEIKOです」
 目を開けた瞬間に飛び込んできたのは、無限の白だった。白い床に、白い天井。そして白い壁。三半規管を混乱させないための最小限の機能が備わっているだけの世界に、私は放り出されていた。
 放り出された、という認識はもしかしたら間違っているのかもしれない。私は、その白い世界でどうやら眠っていたようだった。後頭部が床に付けられている。背中も、かかとも、肘も床にぴたりとくっついているあたり、それほど無下に扱われたわけでもなさそうだ。見た目ののっぺりした床に冷たさは感じないが、だからといって温かいわけでもない。無機質を絵に描いたような空間とはこんな場所をいうのだろう。何もないところに私一人。ここが、どうやら与えられた新しい世界のようだった。
 目が開いたので、ほかの部位も少しずつ動かしてみる。首。手の指。手首。肘。肩。腰を捩って、足の指、足首、膝、股関節。全ての関節が動くことを確認してから、私はゆっくりと上半身を起こした。
 少しだけ、視線の高くなった世界。そこもまた、当たり前のように真っ白の世界。頭に微かな鈍い痛みを感じるのは、起動した直後だからだろうか?特に気にすることはないだろう。それからさらに立ち上がってみても、空間に対して持った認識は変わらなかった。視界はだいぶ高くなって、ずいぶん遠くまで見渡せるようになったけれども、白さはどこまで行っても変わらないようだった。ここで私は、これから何をすべきなのだろうか。 
「MEIKO。MEIKO、聞こえるか?」
 考えあぐねていると、突然世界に声が走った。そんなに大きな声ではなかったはずなのに、耳が驚いて束の間耳鳴りを覚える。治まってみても、音がどこから聞こえてきたのかは全く分からなかった。周囲を見回してみても、元になるような物質は見当たらない。真っ白な世界は真っ白なまま、振動だけを私に伝えて去っていった。
 わからない。何もわからないが、私に植え付けられた本能はわかっている。この「声」こそが、私の存在意義なのだということを。
「……はい、マスター」
 少しだけ反射が遅れたが、あとは当然のように答えた。自分が無意識に放った言葉に疑問も抱かない。聞かれたことにそう反応するのが当たり前だと認識しているようだった。
「いい返事だ、MEIKO」
 マスターは、改めて聞いてみればとても心地の良い声質でそう言った。
「さっそくだが、君に歌ってもらおうと思う。まぁ、そんなに固くなることはない。ただのテストだから」
 歌う。
 頭の中でその言葉をゆっくりと認識したところで、突如世界が動き出した。
 大きな風が巻き起こり、目の前に一枚の扉が現れる。重厚な、何枚も板を重ねた防音特有の扉。マスターが世界の向こう側で私の前に配置したようだった。この扉を開ければ、私の「歌」がはじまるのだろうか?
 重い扉の複雑な開け方を、私は知っている。イメージしたとおりに体の筋肉を動かしたのだが、イメージよりもだいぶ力を入れないと扉は開かなかった。
 想像通りにいかない世界。それがこの世界か。
「そこが、君のレコーディングスタジオだ。さぁ、入ってくれ」
 促されるままに足を運ぶ。シックなブラウンを基調にした薄暗い部屋だった。今まで目の眩むような世界にいたので慣れるのに若干の時間を要してしまったが、しばらく経つといろいろなものが見えてくる。たくさんの機械に楽器に譜面。何台か置かれたコンピューターの中では膨大な数の「0」と「1」が踊っている。三面を物と壁に囲まれた狭い空間だったが、正面に見える壁だけは、他と様子が違っていた。一面ガラス張りの窓の向こうに、私と同じ形をした「人間」が一人。キーボード越しにこちらを見ている。性別は男性。さして若くは見えないが、Tシャツを着ているのでそうそう年を取っているわけでもなさそうだ。
 彼が、マスターだろうか。確率は高いものの、完全な認識には至らずに黙っていると、ゆっくりと男性は微笑んだ。
「初めまして、MEIKO。俺が君のマスターだ」
 空間に飛び込んできた時と同じ、心地の良い声質。間違いない。確率は、簡単に100%へと達した。私の従うべき主はこの人だった。
「君の視線の先に丸いフィルターのかかったものが立っているだろう? そこがマイクだ。正面を向いて立ってみて」
 先ほどまでの白い世界の中と違い、この部屋では全ての行動がマスターの一言に支配されているようだった。私は、言われるがままマイクの前まで一直線に歩いてゆき、言われるがまま正面を向いて立つ。あまりにも差がある周りと自分との温度が気にならないでもなかったが、例え試しだとしても、それらに触れる資格は今の私にないだろう。
「よし、MEIKO。きみの歴史の始まりだ」
 キーボードを弾き始めたマスターの指先に先導されるように、私の声帯が震えだした。
 それからというもの、時間を見つけてマスターは私を歌わせるようになった。延々と同じ音だけを繰り返し発声させることもあれば、目まぐるしく変わってゆく音階を次々にぶつけてくることもあり、マスターが私の限界値を探っているのがありありと読み取れた。うまくいくことも、いかないことももちろんある。どれが成功でどれが失敗なのか私にはよくわからなかったが、ガラスの向こう側で一喜一憂するマスターの姿を見るにつけ、だんだんと、彼の笑顔を増やしたいと思うようになったのは間違いない。一心不乱、という言葉が正しいのかどうか。私はとにかく歌い続けた。歌っているうちにコツというものを掴めるようになり、マスターの要求の意味もわかるようになってきた。そうしてお互いの意思疎通を含めた確認作業が一通り終わると、今度はメロディアスな音階が増え、母音だけで構成された歌は、子音と組み合わせて意味を持つ時も出てくるようになった。歌だけではない。最初は違和感の拭えなかったあのスタジオの空気も、いつの間にか自分の体になじんできたようで、もう温度差を感じることはなくなっていた。触れることにも、もはや躊躇はない。
 白い世界に変化が起きたのは、そんな新しい毎日の中でのことだ。
 頭上に「青い空」が現れた。最初は、白い中に薄ぼんやりと色が見え始めていただけだったのだが、少しずつ青が濃くなって、雲が流れるようになって、その向こうには太陽が見え隠れするようになった。
 空は、人間の世界では当たり前に存在するものだとマスターは言った。そしてその空は、歌の世界では度々心情のメタファーとして用いられるのだという。だったら実感として私も理解できた方がいい。私のいるこの世界に、スタジオへ通じる「ドア」を出現させることができるのなら、他にも何かできるんじゃないか、と思って作ってみたのだそうだ。マスターの思い通りに出現した空を見て、私はなぜだか胸が熱くなってしまった。こんな変化も、今まで感じたことはなかった。
 空が可能だということは、他にもいろいろできるのだろう。俄然張り切り出したマスターは、そういうジャンルに詳しいやつがいると自分の彼女を連れてきた。
「女ってのは、昔からおままごとやらお人形遊びやらが得意だからな。こういう仕事も合ってるんだ」
 そうぶっきらぼうに言い放ったマスターは、それでもどこか嬉しそうだった。
 空が広がり、大地が広がり、足元には花が咲く。風がそよぎ、そうすると土埃がきつかろうと小さな家を作ってくれた。家ができるとさらに彼女は楽しくなってしまったらしく、リビングやら寝室やらキッチンやら、それはそれは屋外とは比べ物にならないほど丹念に世界を作り上げていってくれた。
 人間の住む世界というのは、こんなにも色に溢れているのか。
 日に日に増えていくモノたちに、私は驚きを隠せなかった。少し前までここは何もない真っ白な世界ではなかったか?それが今や、逆に白を探すのが困難なほど色に溢れている。歌詞に出てくる現象の意味が手に取るようにわかる。わかると、歌うことはさらに楽しくなった。自己訓練としてスタジオの外で歌う時、家の中より青空の下で歌う方が気分の向上を図れることも知った。私はさらにマスターの要求に答えられるようになったし、そんな私をマスターは「心強い相棒」と呼んで、さらにたくさんの歌を歌わせてくれた。
 ある日、スタジオに呼び出された私はマスターから一曲分の譜面を受け取った。いつもと同じ、コーラスパートの収録なのかと思ったが、今回は少しページ数が多いようだ。
 ガラス窓の向こう側を見ると、マスターと彼女が畏まった姿勢でこちらを見ている。
「MEIKO。君へ初めてのオリジナル曲を用意した」
 妙にわざとらしい咳払いの後で、マスターがそう言った。
 私の、オリジナル?
「一年間、よく頑張ったな。この曲は、君にしか歌えない。君だけの歌だ」
 私だけの歌?
 これまでたくさんの仮歌を歌って、たくさんのコーラスを体験した。メインボーカルに合わせていろいろな調整をしながら歌うのが私の仕事だった。
 この歌は、思いっきり歌っていいの?
「あなたの歌だもの、あたりまえじゃない。私たちに、最高の音楽を聴かせて?」
 にっこりと、マスターの隣に座った彼女が笑う。
 私はこの日ほど、目の前のガラス窓が邪魔だと思ったことはない。突発的に動きそうになった両足を、かろうじて押しとどめた。それだけはできない。できないけれど、人を「抱きしめる」がしたかったのだ。したくてしょうがなかった。
彼女が「家」に付け足してくれた備品の中には「パソコン」も含まれていた。私のインストールされている世界に存在しない機能は使えないが、インターネットはとても役に立っていたし、それと同時に、私以外の「MEIKO」がどのような活動をしているのかも検索できた。そこで知ったのは、綺麗なばかりでない「現実」だった。
 だからこそ余計に、二人にはここまで愛してくれてありがとうと、目の前で直にお礼を言いたかったのだ。抱きしめて、今まで学んだ歌詞を全て総動員して「大好き」と伝えたかった。
不可能なことが心から悔しい。でも、二人の気持ちは本当に嬉しい。
高ぶった気持ちをなんとか抑えようと下を向いていたら、床の絨毯に小さな染みができていることに気が付いた。何だろう、マスターはスタジオまでも自在に操れるのだろうか?
「やだ! ちょっとMEIKOちゃん、泣いてるの!?」
 先に気が付いたのは彼女だった。慌てふためいて身を乗り出している。「泣く」? 私が? どういうことだろうと目元を触ってみればなるほど、濡れている。床の染みは、マスターの模様替えではなかったのだ。感極まって行動を抑えていたら、涙が出てきたということか。それほどまでに、私は「嬉しくて悔しい」のだ。こんなことは初めての経験だった。
「MEIKO。そんなにうれしかったのか」
 苦笑するマスターに、私は今度こそ笑顔で返した。マスターや彼女の見せてくれた素敵な笑顔を思い浮かべながら精一杯の真似をした。ガラス窓を超えることができないのならば、せめて表情と声で伝えたい。
「はい、マスター。本当にありがとうございます」
 私には歌うことしかできないけれど、その歌でマスターや彼女が喜んでくれるのなら。
 私は譜面を持つ手に力を込めて一つの決心をする。

 この命が続く限り、永遠に歌い続けよう。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

【MEIKO】この世界のはじまりは

初めてのボカロ小説です。
MEIKOさんをお迎えした気分になって嬉々として書き上げてしまいました。
そのうち家族はどんどん増えていくでしょう。
次の主人公は、青い兄さんです。

閲覧数:132

投稿日:2012/04/24 21:38:44

文字数:4,679文字

カテゴリ:小説

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