「じゃあ、堺くん。塩崎悠里さんの家まで、この連絡ノート届けてくれる?」
「はい」
先生に頼まれたから仕方ないとばかりに、初めて行く彼女の家までの距離は新鮮でしかなく、おまけにこの欠席者に伝達するための連絡ノートのおかげで、彼女に直接会う事ができるなんて。
ボクは不純でしかない心を抑えるのに必死だったりした。
ピンポーン
あっという間に彼女の家の玄関まで来ると、静まり返った玄関先には車もなく、人気すらも感じない程であった。
「すいませーん」
幾度かチャイムを鳴らしても、声を高らかに挙げてみても家からの返事はなく、ただただボクは連絡ノートを握りしめたまま立ち尽くす他なかった。
「わんわん!」
「うわあ!」
「…なんだ、犬か」
近くで犬の鳴き声が聴こえると、ボクは彼女が飼っているというだけの高鳴りから、犬小屋の方をじろじろと見て回った。
「ジローっていうのか、お前」
「わん」
ボクは彼女の犬が小型犬だった事からの安堵感から、首輪に書かれてある文字に目を遣った。
「ピンクの首輪って事は、これ彼女につけてもあったのか?」
「わん!」
「それとも、お前メスなのかなあ」
そうこう言ってる内に、日は次第に暮れ始めてきた。
「あ、あれ?」
すると、首輪が不意にも首から外れてしまった事にボクは動揺していた。
「え、何で外れたんだ?」
「わんわん!」
「ちょ、ちょっと待って!」
すかさず犬は玄関を飛び出して、一目散に走っていった。
「お、おい、待ってよ!」
ボクもまた走って追いかけるも逃げ足の速さは尋常ではなく、息切れも鼓動も半端なく切れかけていった。
「はあ、はあ、はあ…」
全身震えが止まらない状態でたどり着いた先は、見覚えのない路地だった。
「何処行ったんだ、まったく…」
ボクは徐々に冷静さを取り戻すと、彼女が先日友人たちと話してた内容を思い返していた。
「ウチの犬ったらさ、本当に逃げ足速いの。すばしっこくてさ、全然ジッとしてないんだよ」
「悠里んとこの犬、ちっちゃいからね。仕方ないよ」
「そうだけどさ…。でもスッゴイ大切なんだ。前もさ」
ボクは彼女のその会話をはたから聞いていて、彼女の事をもっと深く知りたいと思っていた。
それは所謂、すでにもうそういう感じになってしまっているというか。
「どうしよう、でも連れて帰らなきゃ」
辺りを見渡しても犬の姿どころか電気の消えた建物だらけで、不安しか目に映らなかった。
「このままじゃ、ボクは彼女に嫌われてしまう」
きっと好かれてもいない上に口も聞いてもらえないかもしれないという壮絶なる恐怖に、ボクは再び知らない中を歩き出していった。
「彼女に渡すはずの連絡ノートまで、ボロボロになっちゃったな…」
ずっと握りしめていたそれを見開いて、先生の書いた文章をぼんやり眺めていると、不自然な言葉が目に浮かんだ。
「…容体の方はいかがですか?あんまり無理しないでね」
ボクは容体という言葉の意味はよく分からないけれど、あまりよろしくない内容だという事は察していた。
「塩崎、さん…」
ボクはその連絡ノートに、気付けば鞄から取り出したペンで何やらスラスラと言葉を走らせていた。
「いつも端っこからでしかキミの事を見ていないボクだけど、ずっと何かを話したくて俯いてばかりいます。周りの男子たちは女子たちの事をからかうばかりだけど、ボクはそんな事全く思ってないどころか、キミといっぱい色んな事を話したくて仕方ありません…」
「…あ」
我に返ったかのように次の瞬間、その連絡ノートを閉じると、再び宛のない場所へと歩き出していった。
もうどれくらいの時間が経ったのだろう。
歩き疲れてまともに前も見れなくなって、気付いた時には再び彼女の家の前まで来ていたなんて。
「さ、堺くん?」
「!」
背後から聴き覚えのある声にゆっくり振り返ると、そこに彼女の姿があった。
「…塩崎さん?」
「こんな遅い時間に、どうしたの?」
ボクは今立っていられる事が奇跡なくらい、跪いて謝りたい気持ちでいたたまれなかった。
「…ゴメン、本当に」
「え…」
今すぐ彼女の目の前からいなくなってしまえばいいと頭を過ると、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていった。
「どうしたの、堺くん?一体、何があったの?」
「…塩崎さんの大切な犬を、ボクが逃がしちゃったんだ」
「え?」
ボクは身体の震えが止まなくなると、彼女は少しずつこっちに向かって歩み寄ってきてくれた。
「ねえ、顔を上げて。もう大丈夫だから…」
彼女のそんな温かい優しさも、痛みさえ感じる程、ただ堪える事しかできなかった。
「あ、連絡ノート届けに来てくれたんだ?」
そばに落ちていたそれを彼女が手に取るまで、ボクは肝心な事を思い出せないでいた。
「今日私が風邪で休んじゃったから、わざわざ先生の伝言を届けに来てくれたんだね。ありがとう」
「え、風邪?」
ボクは先生の書いた意味深の文章が、どうしても理解できなかった。
「そう、でも大した事ないの。明日には登校できるから大丈夫だよ。でも、何だろう。先生からの伝言って…」
「あっ!」
「え…?」
ボクはその連絡ノートに手を加えてしまった事実を思い出すと、その場にすぐ立ち上がって、こう続けた。
「あ、いや、それさ、絶対見ない方がいいよ!多分そのさ、見ない方が身のためってかさ…」
「何言ってんの、堺くん。わざわざこれを渡しに家まで来てくれたんじゃないの?」
「いや、あの…」
そして、彼女が連絡ノートを読み切ると、真剣な顔をして切り出した。
「またこうやって私たちをからかってんの?誰、こんな事書いたの?まさか、堺くん?」
「いや、違うよ…。多分さ、慎司じゃないかな?アイツ悪戯好きだからさ」
彼女はムッとして連絡ノートを下に叩きつけると、玄関先までスタスタと歩いていった。
「どっちにしても堺くんがわざわざ私にそれを届けに来てくれた事自体、意味分かんないんだけど!犬が逃げたとか、適当な嘘までついちゃってさ」
「え、嘘?」
ボクは唖然とした。
「そうよ、私の飼ってる犬は家の中にいるのに、逃げ出したなんて適当な事言って!」
「え、だって、庭に犬小屋があったけど」
彼女は怒りを露わに、家に犬小屋なんてないと言い放った。
「ちゃんと表札見た?隣の家と間違っただけとかじゃない?」
そう言えば、表札なんて確認する間もなく、チャイムをひたすらに押していたのかもしれない。
「犬の名前って…」
「ベルだけど、それがどうかしたの?」
彼女のその応えに家違いであった事は確信に変わったとはいえ、見ず知らずの人の犬を逃がしてしまった事に罪悪感は溢れんばかりだった。
「ゴメン、塩崎さん…今日あった事のすべてを話すよ…」
「どっちにしても、私をからかったんでしょ!」
ボクは彼女の容体という不自然なフレーズから今に至るまでを、洗いざらいの成り行きを説明した。
「…容体って書き方するからよ。もう、先生ったら」
「どういう事?」
彼女は少し顔を赤らめた。
「知らなくてもいいの、特に男子は…で、あとは?」
「この前話してたさ、飼ってる犬の話がつい聞こえてきたから、大切な犬にも興味が出てしまって、つい首輪を…」
「違う、それはもうさっきのでもう分かったから。そうじゃなくて…」
そうじゃなくて。とすると、あとは何があっただろう。
「すべて本当の事を、きちんと話してくれるんでしょ?じゃあ、話してよ」
話してほしい本当の事。
結局彼女が何を聞きたがっているのか。しばらくの間、全く分からなかった。
「堺くんの話、全部嘘じゃないんでしょ?だったら堺くんの口から本当の事を聞かせてよ」
今になって、やっとボクは彼女が何を言わんとしたいかが理解できた気がした。
「ここまで言ったら、こっちが何だかバカみたいじゃん…」
ボクは分かっているからこそ、重い口火を切る事ができなかった。
「男子がさ、いつも女子の事をからかうのは、大概一定の理由があるからなんだ」
「…」
彼女もボクも、まともに互いの目を見れなくなっていた。
「…その子の事が本当に心から嫌いだったらさ、からかうどころか放っといてるよ、きっと」
適当で安っぽい男心と繊細で純情な女心の温度差というのは、中学生の時が一番かけ離れているのだと今になって痛感した。
「でも堺くん、私の事あんまりからかわないよね?」
「男が全員そんな奴ばかりじゃないからね。でも…」
「でも?」
ボクは、この静けさから逃げ出したくて仕方なかった。
「わんわん」
「あ、いた!」
振り返るとそこに、逃げ出したはずの犬が帰省本能からか奇跡的に戻ってきた。
「ジロー、お前いいタイミングで戻ってきたな?」
「いいタイミングってどういう事よ、堺くん?」
逃げ出したはずの犬の首輪が元通りに戻ると、ボクは彼女にまた明日って手を振ってから、作り笑顔を見せた。
逃げ出した犬が、偶然招いた奇跡もまた。
それはそれで、感謝にすぎないのだと。
「…ねえ、堺くん?」
彼女が自然にボクの隣に来て、話しかけてくれる奇跡もまた、偶然から必然へと。
「もし堺くんが風邪を引く事があったら、今度は私がこれを持っていってあげるね?」
彼女が、そう言うから。
ボクはめったにしない、からかいを。
隣にいてくれる、彼女だけに。
「この際、交換日記にしちゃおっか?」
って、そんな感じで。
からかい返す、彼女の言葉にさ。
恋を楽しむノートって意味で、
れんらくノートにしよっか?って。
からかおうって思ったけど、やっぱり。
「大丈夫、ボクは一生風邪引かないから」
結局は、そんな言葉で。
ボクがそう、からかうから。
だから、明日も明後日も。
ずっと、ボクの隣で笑っててね。
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