「ねえ、ミク姉」
「なぁに、ルカちゃん」
「あんた、たしかゼリー作ってたのよねぇ?」

 夏を半分ほど過ぎた頃の、よく晴れた昼下がり。日差しは傾き、橙を帯び始めて窓ガラスに映る光を濃くする。日よけに掛けた薄い綿のカーテンが風に靡き、その隙間から時折のぞく筋雲が、やけに青い空に白い引っかき傷をいくつも作っていた。近場の飛行場から聞こえてくるエンジン音が耳の奥をなぞるように響いてくる。その上をすべるように雀のちゅんちゅんとした囀りが聞こえ、熱を抱えた鈍い空気に、どこか郷愁にも似た雰囲気を与えていた。隣家から聞こえてくるのは軽い金属のカツカツという音。また新しい鉢植えでも買ったのだろうか。ルカは少し目を細めて、眼前の惨状から逃げるかのように思考を己の耳へと飛ばし続けた。
「うん! なかなか上手くいかなくてね、ちょっとしっぱいしちゃったぁ」
 エヘヘ、とべたべたの手を拭うこともせず、頬を染めてかわいらしく笑うミクに、ルカは頭を抱えたくなった。
 惨状、これ以上にこの場をあらわす言葉はないだろう。いつもは銀色にピカピカと光るシンクは青黒いスライム状の液体に覆われ、焦げ臭い、甘ったるいにおいがそこら中から漂ってくる。台所の中央を占めていた大きなテーブルに掛かっていた淡いピンクのレースは大きく歪み、マスターが惚れ込んだその繊細な模様が、いまや見る影もないほどに粘着質な何かによって、仕損じたラップのようにくしゃりと潰れていた。ミクが自分の頬に添えた手に握られている泡だて器からは、かき回しすぎたのか金属同士が擦れあうときに出る特有の鉄臭さが発せられている。なぜかびしょびしょになっているマットレスの上からステンレスのボールを拾い上げ、ルカはそっと、けれど大きく息を吐いた。

「…で?」
「でって?」
「もう一度言うけれど、ゼリーを作ってたのよねぇ? …何をどうしてこうなった?」
「何って…普通にゼラチン溶かしただけだもん。ほら、7月にマスターについていってご近所さんと七夕祭りしたじゃない。あの時私たちちょっとしか七夕ゼリー食べられなかったから、もっとたくさん食べたいなぁって思って、たくさんゼラチン溶かしたの!」
 七夕ゼリー? ルカは細い眉をしかめ、それからあぁと納得した。七夕ゼリーとは、彼女らが住む地域で行われる七夕祭りにて配られるお菓子のことだ。子ども会が主催するその祭りはそれなりに規模が大きく、季節の折々に行われる『お楽しみ会』の中でも特に賑わう行事であった。当然、人の手も多く必要とされるため、その地域に住む者は老若男女問わず、「暇」だと見なされた者はことごとく駆り出されていた。無論世間一般で言う大学生に位置づけられるマスターも例外ではなく、前期の試験のほとんどを6月中のレポート提出で片付けてしまったがために、両親から「働け!」と人身御供よろしく町内会の幹部方に差し出されてしまったのである。夏休み全てを、熱中症対策を口実に引きこもって、やりかけた作曲に当てるつもりだったマスターはルカやミクから見てもみっともないほどに抵抗したが、そこは肉親。夏休み中の夕食を盾に取り、見事我が子の手綱をとったのである。かくして年中金欠苦学生であるマスターは、実家でのんびりテレビ相手に涼む両親の代わりに貴重な戦力として差し出されたのであった。
 その際、彼女たちはあくせくと働くマスターを横目に、子どもたちに混じっておやつタイムに参加させてもらったのだ。せっせと走り回るマスターの手伝いを申し出たものの、孫と並んで美しい女性が大好きなご老人方は真っ白なお嬢さんの指を荒れさせるのは忍びないなどといいながら、会場で転げまわって機材を壊したり怪我をしないよう、子どもたちの見張りを彼女たちは課せられたのである。子どもたちの中から数名欠員がでたため、ついでだから、とおやつタイムの担当をしていたご婦人から頂戴した七夕ゼリーはそれはそれは美味しそうで、最初はマスターの働きぶりから遠慮していたルカも、その流水をそのまま閉じ込めてしまったかのようなきらめきに、断ることなく手を伸ばしてしまった。
 以前マスターが友人に押し付けられたと言って、しばらく飾っていた金魚鉢によく似ている、と桃色の髪を垂らして彼女は思う。球状の混じりけのない透明なガラスの中、少しにごった緑の水草と尾の長い金魚がゆうらりと光を帯びていた。薄い、けれど硬質な玉は、黄色味がかった人口色の光を歪曲させ、それをマスターの荒れた手のひらに映す様子は、まるでステージに躍り出た歌姫へ贈られるスポットライトのよう。まだダウンロードされて間もない頃だったルカには、自分が羨望に似たまなざしを金魚鉢へと送っていることが理解できず、ただそのきらめきに、はしゃぐミクの姿がいやにくっきりと金魚鉢とともに記憶され、なぜだか無性に悔しかった。
 熱気と活気によって冷房の効かない会場内は暑い。初めて食べた味がよほど衝撃的だったのか、〔好き〕が高じ過ぎて異常なほど固執しているネギを手に入れた時と同様に、「ふみゃあああああ!!!!」とわけの分からない雄たけびをあげながらプラスチックカップを振り回して転げまわる自分の姉を横目に、体温調節が苦手は彼女は、キィンと歯に響くゼリーとともに冷やされた金属スプーンを銜えて、甘い炭酸水を模したゼリーに舌鼓を打ったのだった。

「で、この惨状になった、と?」
「…えへ」
「…はああ、もう、マスターになんて言えば…っ」
 飛び散った青い物体。ねっとりと壁に張り付いたそれは、電子レンジを中心に四散しており、清潔感のあった白い壁に大きなシミを描いている。甘ったるいにおいが鼻につき、日暮れ始めた濃いオレンジが粘着質な瑠璃色を際立たせていた。
「んーゼラチンを溶かすところまでは上手くいったんだよ。分量も間違えなかったし」
「だからって10分以上もレンジにかけるやつがありますか! ちょっと考えれば分かることでしょう!」
 卵を電子レンジにかければどうなるか。同じく粘着質の液体を長時間電子レンジにかけた場合も言わずもがな。熱されたスライム状のものは爆ぜ、入れていた耐熱ガラスなどの容器から飛び出す。通常、せいぜい火傷程度で済むはずのそれは、ミクの手によって尋常でない規模で起こっていた。
「なんでレンジが爆発するのゼラチンがスライムになるのゼリー液で壁が染まるの!!」
「えと、才能?」
「こんな才能があってたまるか! ああもう片付けるわよ!」
 傍らに落ちていた唯一無事であった布巾を拾い、ルカはシンクへ向かった。

「まったく、こんなにして…」
ぶつぶつと言いながら掃除を始めた妹に、まるでハハオヤのようだ、とミクは思う。彼女とはそれほど長い付き合いではないけれど、現在の所有者、マスターの元で一緒になって一年と6ヶ月。ヒト同士の友人としては十分な長さなのだろう。けれど、とミクは頭を傾けた。カゾクとしてはどうなのだろうか。同じ会社で開発され、同じ工場、同じ生産ラインを辿った私たちを、世間の人々はまるで血縁関係にあるかのように扱ってくる。もとはただの0と1の羅列でしかない私たちに、ヴィジュアルを付加しただけで〔生きている〕ように見せようとするマスターたち。同シリーズで構成するカゾクという枠組みを当てる彼らに、ミクはいつも奇妙な違和感を感じずにはいられなかった。プログラム上の自分と、彼らが求める自分。自立を超えて思考する自分たち。それらが一介の機械の範疇を越えていることに気づきながら、なにも変わらぬ日常を演じようとするマスター。あおい髪の少女は、のど元からこみ上げてくる何かに首を傾げるしかなかった。

「さっさと手を手を動かす! このままじゃ、マスターに怒鳴られるだけじゃ済まされないわよ!」
 帰ってくる前には証拠隠滅を…とつぶやくイモウト。ヒトにはありえない髪色を揺らすその背中に、妙に可笑しさ覚えながらミクは手を動かし始めた。
「ね、ね、ルカちゃん」
「何よ?」
「今度はさ、コーヒーゼリーにしようかと…」
「もうやめて!」
 今度こそ台所が吹っ飛ぶわ! と毛を逆立てて必死の形相で止めようとするルカに笑いながら、ミクは手のひらを拭った。
 甘い、あまったるいけれど焦げ臭いこのにおいのように、いつかこの感情も消えるのかしら。ぬるくて、あまくて、こびりつくほど焦がれているようなこの感情。どこかほろ苦い、恋情にも似た親愛の感情。
「甘さも過ぎれば、苦くなるのね」
「え?」
 いつか破棄されるその日まで、この想いに浸っていたい。
 なんでもない、とミクは成りそこなったスライムの青さに微笑んだ。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

【コラボ用】4月お題 「スライム」「手のひら」「黒」【小説】

「小説のすゝめ」というコラボに向けての小説です。

http://piapro.jp/collabo/?id=14207

あ”ー何この残念なの…ぜんぜん練れて、な…うぅ

8/25
改変版放り込みましたーやけに文字数増えましたー…

前バージョンは改変前のもの。

閲覧数:172

投稿日:2011/08/25 17:27:25

文字数:3,553文字

カテゴリ:小説

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