「先生、テロリストって職業ですか?」
 そのとき私は黒板に向かって板書していた。その背中にこの質問が投げつけられた。
 板書の手を止め、振り返り、「なに?」と訊く。そこには沢山の生徒たちがいる。教室の廊下側から二列目の後ろ寄りの所で手が挙がっている。
 そのまっすぐに伸びた腕ときれいな手には、一縷のためらいも感じられない。彼女は立ち上がり手を下ろす。肩の少し下まで伸びた真直ぐで、漆黒の髪。
 私はその姿に、ことん、と鼓動が高鳴るのを感じた。
「テロリストって職業なんですか?」と彼女は言う。
 私の受け持つ授業は世界史で、今まさに授業中なのは“近代ヨーロッパ諸国とアメリカ世界の形成”という章だった。
テロというのは政治経済のカテゴリに入るのだろうが、各種宗教の成り立ちがテロの遠縁となっていることもまた否定できないだろう。そう見れば世界史の単元でこの質問が出ることには不思議ではないのかもしれない。
 でも、なぜこの内容の授業で、しかもこの何ということのないタイミングで、そんな質問が出るのかが分からない。
 そして、それよりもなぜ彼女がそんなことを?という思いが頭をよぎる。
佐伯由比。
彼女は成績優秀、容姿端麗、明朗活発。教師の目から見ても、生徒の目から見てもその評価はおそらく変わらない。とはいえ、表に出過ぎることもなく、自分自身を鼻にかけることもしない。
 そんな彼女が、なぜそんな突飛な質問を?
 まっすぐに私を見る彼女の瞳。
綺麗だ。吸い込まれそうだ。
また、心臓が、ことん、と鼓動を打つ。私は咄嗟に視線をずらす。
「ええと、そうね…」と黒板の隅の方に、“Terrorist”と書いた。
「テロリスト、は英語でこう書きます。私は英語の先生じゃないからね、うまく説明できるか分からないけれど。この単語は2つに分けることができて」
“Terror/ist”
「Terrorというのは、恐怖とか怖がらせることって言う意味がある。で、istは何かをする人という意味があるの。だからテロリストは、怖がらせる人、という意味になるのね。じゃぁ、何を怖がらせるのか。それは人だったり国そのものだったりする。どうやって怖がらせるか。暴力だったり暴力による脅威だったりする。つまり暴力的な行動や威嚇で自分の思いどおりに人や政治を動かそうとする。そういう人たちのことをテロリストっていうの。ここまでは良い?」
 はい、と彼女が応える。
「じゃあ、それは職業かというと、私は違うと思う。職業ってことはその仕事で生計を立てていたり、収入を得たりする。テロリストは、-もちろん何かの後ろ盾からの援助があるかもしれないけれど-、その行動で収入は得られない。だから、職業じゃないんじゃないかな」
 そこでチャイムが鳴る。教室がざわめきだす。
「はい、じゃあ、ここまでにします。佐伯さん、もしまだ分からないことがあったら訊きに来てね」
「ありがとうございます」と彼女が着席する。その口元には不思議な笑みが浮かんでいる。その口元に、また、ことん、と心が動くのを感じた。

 私が自身に異性に対する興味がない、と気づいたのは、中学生の終わりの頃だった。自分が女であることに違和感があったとか、同性に恋愛感情を抱いたとか、何か明確な出来事があったわけじゃない。女の子としてのおしゃれをしたいとか、化粧をしてみたいとかといった願望はあった。同性を恋愛対象として見ることはなかった。でも、異性に対してはもっとその対象からは遠のいた感覚を持っていた。だから、私は異性に対する興味がないのだ、と考えていた。
 その考え方と感覚は高校、大学、そして社会人としての高校教師となっても変わらなかった。同性、異性を含め恋人がいたことはなかった。そして、私は自分には恋愛というものに興味がないのだ、と少し大枠な考えを持つようになっていた。
 佐伯由比。
 彼女が私の前に現れるまでは。

 月明りと、少しの街灯が暗い教室を静かに照らす。
 夜風に揺れる、色あせたカーテン。
 小さな机の上にピッタリと寄り添うように腰掛ける2人の少女。彼女らは、抱き合い、口づけし、そして楽しそうにクスクスと笑っていた。
 私はそれを見ていた。息を殺し、教室のドアの隙間から覗き見ていた。なぜ?私は帰宅前に教室の施錠を確認しに来ただけだったはず。なのに、なぜ?
一方の少女が、他方の少女のスカーフを取る。シュルッという音。光の具合でスカーフを取られた少女の顔が見える。あれは七香だ。珍しい名前で覚えている。
サトルカオリ。彼女が見せるのは恍惚とした女の顔。
私の心臓が、ことん、と音を立てた。
少女は、さらに上からボタンを外していく。かすかな吐息が聞こえる。ボタンを外す少女の顔は見えない。
1つ、2つ、とボタンが外れていく。
ボタンの下から現れた首筋に、少女は口づけする。
ことん、ことん。
舌で這い回るように、優しく首筋を撫でる。サトルカオリの甘い、ため息が聞こえる。
ことん、ことん、こと、こと、と、と、と、と。
一瞬、少女と目が合ったように感じた。誰かは分からない。でも彼女の目は確かに笑っていた。美しく、妖しい、月の光に照らされたその瞳。
と、と、と、と、と、と、と、と、と、と。
その瞳は、サトルカオリの胸元へ消えていった。はっきりとした、吐息が広がる。
と、と、と、と、ととととととととととと。
どくん。
私は、その場を離れた。とにかく、そこにいてはいけない。私が、そこにいてはいけない。そう感じた。
 誰もいない職員室に逃げるように入る。蛍光灯がジー、ジジジーと音を立てている。
と、と、と、と、と、と、と、と。
 これはなんだろう?何の気持ちだろう?教師としてすべきことがあったはずなのに、そんなことはどうでもいい。自身の心の動きが気になる。なんという感情なんだろう。
あの目を思い出す。
どくん。
 -そうか。
 -これが、恋か。そして、嫉妬か。

 翌朝、私は校門の前に立っていた。まだ、5月の半ばなのに随分暑い。
 おはようございまーす。とまだ寝ぼけたような顔の生徒たちが校門を通っていく。
「おはよう」「こら、校内で自転車に乗っちゃだめでしょう。降りて押していきなさい」「はい、おはよう」
 いつもの光景だ。いつもやっていることだ。
「おはよーございまーす」と少女3人が私の前を通っていく。
 七香。少女の顔だ。
「はい、おはよう」と応えながら、残りの2人を見る。
 違う。彼女たちじゃない。キャハハ、エーそれヤバイよねー、と楽しげに彼女たちは校舎に入っていく。
 予鈴が鳴り、生徒たちは駆け足で校舎に入っていく。校門前に生徒たちの姿はまばらになる。
 そろそろ門を閉めようかな。と腕時計に目をやったとき、「おはようございます」と少女の声。
 振り返ると、肩の少し下まで伸びた真直ぐで、漆黒の髪。透きとおるようで滑らかな肌。長い睫毛。そして、あの瞳。
「おはようございます。先生」
 どくん。
佐伯由比。


 秋になり肌寒さを感じる頃には、陽の傾く時間も早くなる。コピー室で翌日の授業で使う資料を作り、そろそろ試験の準備もしなくてはと考えながら部屋を出る。
 資料の束を抱えて職員室に向かう途中、教室の制服姿が目に留まった。
 佐伯由比。
 ことん。
 まだ下校時間までには少し間がある。放っておいてもいい。なのに、私はその教室の扉を開けた。訊きたい事があったからだ。
 ことん、こと、こと、こと。
いや。心臓が嘘をつくな、と私に言う。そう。私は、彼女に近づきたかった。話したかった。訊きたいことがある、は言い訳だ。
 ああ、これがときめくということなのか。
「佐伯さん。どうしたの?こんな時間まで」と出来るだけ教師を装って話しかける。彼女の目がこちらを向く。「部活?」
「いいえ。部活はやってないんです。勉強してました」
「勉強ね」私は彼女の席に近づいていく。資料の束を近くの机に置き、椅子に座る。
「先生は何をしていたんですか?こんな時間まで」
「授業の準備よ」と資料をポンと叩く。
「授業。世界史の?」
「そう。世界史は嫌い?」
「いいえ。そんなことはないです。でも、理数系科目のほうが好きかな」と彼女ははにかんだ。
 こと、こと、こと、こと。
「何の勉強をしてたの?」
「数学です。宿題が出たので」
「そう」
 会話が途切れる。もっと話していたい。でも、間が持たない。
「勉強もいいけれど、適当に切り上げて早く帰るのよ。暗くなる時間も早くなってるから」
 もっともらしいことを言って席を立つ。資料の束を抱えて彼女の席から離れていく。気持ちが重い。もっと話がしたい。側にいたい。だめだ。
 教室の扉に手をかけたとき、「あたしは、テロリストは表現者だと思います」と彼女が言った。さっきまでと何か違う彼女。
 目だ。瞳だ。違う。
 彼女が席を立ちこちらに近づいてくる。ローファーのコツコツという音。彼女は私の行く手を遮るように扉の前に立った。
こと、こと、こと、と、と、と、とととととととと
「表現者?」とようやくそれだけ言えた。
「ええ。テロリストは表現者じゃないかな。テロ行為は人や国家に自分の思いを見せ付ける恐怖を使ったパフォーマンス。自分の命を使ってでも訴えたいことがある。そのためには他人の犠牲も厭わない。究極のパフォーマー。それがテロリスト」
「人と国を恐怖に陥れて、自分たちの都合の良いような世界を作ることがパフォーマンス?」
 カチャリ、と音がする。彼女が後ろ手に教室の鍵をかけたのだ。
とととととととととととととととととととととととととと
「いいえ、重要なのは想いと恐怖だけよ、先生。想いを伝えるために恐怖を使う。それだけのこと。不特定多数の人やぼんやりとした概念の国なんてどうでもいいこと」
ととととととと、どくん。どくん、どくん、どくん
 想い。伝える想い。恐怖?
「やってみよっか。いい?あたしは、今からテロリスト。先生にテロを行う」
 気付かれていた。私の佐伯由比に対する思いは気付かれていた。
 スッと、彼女の手が私の頬を撫でた。振り払えるはずだった。やめなさい、と言えるはずだった。
でも、それだけで、私はもうダメだった。あの目が私を見つめている。抱えていた資料を床に落とす。
後を追うように、私も資料の上に落ちていく。
どくん、どくん、どく、どく、どくどくどくどくどくどく
「ね、先生。あたしが怖いでしょ。想いが分かるでしょ」と馬乗りになり私の耳元で由比が囁く。
 うん。とだけ私は答えた。それで十分だったし、それが精一杯だった。
どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく





 床に散らばった資料を2人で集める。汚れてしまった物もあり、何部かは刷り直しが必要だった。
「先生。想いが分かった?」
 私は顔が熱くなるのを感じながら、うん、と頷く。「じゃあ、私の想いは?分かった?」と問い返す。
 彼女は笑顔で、うん、と頷く。さらに顔が熱くなる。
 資料をすべて集め終わり、「よし、帰ろうか。もう真っ暗だし、途中まで一緒に帰ろ」と適当に理由をつけて、もう少し彼女との時間を延ばそうとする。
「そうだね」と彼女も帰り支度をはじめる。では、とカバンを肩にかけようとして、「先生、ちょっとトイレ。ごめん。待ってて」と言う。
「うん。分かった」
 コツコツコツとローファーの音。
ガラッと言う扉が開く音。
「サトルカオリのことは訊かないの?」
 ガラッ、ピシャン。
 閉まった扉を、弾かれたように振り返り見る。由比はの姿はない。
 -サトルカオリ。
 私は彼女に嫉妬していたのだ。
 でも、今日の事で佐伯由比と思いがつながった。私はそう思っていた。
 違うのか?一瞬にして不安になる。いや、そんなわけがない。「先生。想いが分かった?」
と言ったじゃないか、だから-。

「センセー!」と声がする。
「こっちこっちー!」
外だ。窓の向こうから声がする。窓に駆け寄る。
校舎の屋上のフェンスを乗り越え、身を乗り出す佐伯由比の姿があった。笑顔で私に手を振っている。
「センセー!先生の想い、気付いてくれたー?」
 そんな。
彼女の想いが伝わったんじゃない。私の想いがあっただけなんだ。私は彼女の何を伝わったと思っていたんだ。
「待って!お願い!そこに居て!あなたの想いを知りたいの!だから!」
 佐伯由比はまだ笑顔で手を振っている。漆黒の髪が風になびく。あの瞳がそこにある。
私は教室を飛び出し走る。口の中がカラカラに乾いている。由比、待って!お願い!
 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく
嫌だ。失いたくない。
由比が消える恐怖が全身を駆け抜ける。パフォーマンス。想いを伝える恐怖を使ったパフォーマンス。
涙が視界を歪ませる。
嫌だ。失いたくない。
さらに走る。足が千切れてもいい。もう、一生動かなくなってもかまわない。
止まらない。涙が止まらない。
嫌だ。失いたくない。
佐伯由比を、失いたくない!

あたしは、今からテロリスト。先生にテロを行う。

由比。あなたは私のものじゃなくて良い。

でも、お願い。
あなたのもので、いさせて。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • 作者の氏名を表示して下さい
  • オリジナルライセンス

七香

 百合物を書いてみたい。という欲求はずっとあった。やっと書けて嬉しい。
 書いている最中に、イラストレーターのMujihaさんのMujihapixという画集を手に入れた。魔族の血統という絵の中に彼女がいた。この目だ。と思った。
 でも、僕の物語の中では彼女は魔族じゃない。普通の高校生だ。
 
 彼女たちの行く末を僕は想像できない。プッツリとこの物語は僕の頭の中で切れてしまう。
 デッドエンド。通行止。進入禁止。
 僕は彼女たちに拒まれているのだろうか?

閲覧数:69

投稿日:2015/12/16 23:05:17

文字数:5,452文字

カテゴリ:小説

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