「酷いじゃあありませんか陽春さま!ご自分だけお逃げになって!」

数刻の後、陽春は膳を前に時之助と向かい合っていた。
今日の昼餉は、時之助も陽春の部屋にて相伴している。

「まあ、そうかっかするな。雨に降られたとでも思って」
「雨に降られて、膝から下の感覚がなくなるんですかい」

平生は何くれと忙しく走り回っている時之助である。
長時間に渡る正座は余程堪えたらしく、座布団の上の胡座は少し不恰好だった。

「では、雷に打たれたとでも思えばよい」

陽春が何事もなく言ってやると、時之助は諦めたように箸を動かし始めた。

「それで?陽春さま。俺をお引き留めになったからにゃ、何か御用がおありなんでしょう?」
「おお、そうだそうだ。聞きたいことがあってな」

剃髪を免れた時之助は、弘龍寺のある向島からそう遠くないところにある本所の、堅川沿いの長屋に住んでいる。
陽春の夜遊びの手引き以外に、見聞きしたことをあちこちで売り買いして日銭を稼いでいるのであった。
走る読売、時之助のことをそう呼ぶ者もいる。

「昨晩、見たことのない花魁がおってな」
「へえ、吉原に通い詰めておられる陽春さまがご存じない花魁ですか」

焼いた豆腐を口に運びながら、時之助は思案する。

「どちらでご覧に?」
「花魁道中に行き合ったのだ。どうも、千代田屋に入っていったようだが」

千代田屋は、吉原にある引手茶屋の内の一軒である。
最高位の遊女である花魁は、張見世を行わない。
よって、花魁と遊ぶには、引手茶屋を通して妓楼にいる花魁を呼び出す必要があった。客は、妓楼に支払う金とは別に、仲介役の茶屋にも莫大な金を落としたものである。
ぽん、と時之助が膝を打った。

「千代田屋ですかい。成程、そいつぁ國八花魁でしょう」
「國八?」
「どこぞで耳に挟んだことがあります。駒乃屋に、滅多に客を取らない花魁がいるってね」
「駒乃屋の花魁なのか?」

駒乃屋は、遊女を置く妓楼である。陽春の馴染みの店でもあったから、見知らぬ女郎がいたとは驚きであった。

「いやあ、陽春さまがご存じなくっても、不思議はありませんや。何でも、楼主夫婦にそれはそれは大事にされていて、茶屋も千代田屋以外には出向かない。更に、國八と遊んだって男に、誰も会ったことがないそうで」
「それでは…滅多に客を取らないというのは本当らしいな。しかし、客を取らない遊女を何故妓楼が大切にするのだ?」
「さてねえ…楼主夫婦の実の娘だという噂もあるみてえですが、俺は違うと踏んでますね」

時之助の顔つきが、妙に怪しいものになる。
陽春は、吸い物をごくりと飲み込んでから問うた。

「どういうことだ?」
「言ったでしょう、國八と遊んだ男に誰も会ったことがないって」
「うむ」
「けれど、陽春さまが昨夜ご覧になったように、道中は行っている。ということは、客を取っちゃあいるわけだ。それも、ごく稀に。滅多にお目にかかれないあの國八と遊んだんだぜ、なんて自慢して回る男の一人や二人、いてもおかしくないと思いやすがねえ」
「だから、どういうことなんだ?勿体つけるな、時之助」
「まあそう焦らずに」

ぱちり、と箸を膳に戻して、時之助は人差し指を立ててみせた。

「こうは考えられませんかねえ…誰も、國八と遊んだ後の男に会ったことがない、と」
「遊んだ、あと?」
「俺はね、陽春さま。國八が男を取り殺してるんじゃないかと、踏んでるんでさ」

陽春の箸から、摘んでいた香の物がぽとりと落ちた。
時之助の指は自らの首に横から当てられている。遊女が使う簪か何かのつもりであるらしい。

「…何を言い出すかと思えば…時之助、それは考えすぎというものだ」
「そうですかねえ…俺の考えだと、辻褄が合うんですが」

時之助は、すっと手を下ろした。
一方の陽春は腕組みをしている。

「時之助、こうは考えられまいか」
「こうって、どうです?」
「昨夜見た限りでも、國八とやらは大層美しかった」
「へえ、そう聞いてますがね」
「つまりだな、國八と遊んだ男どもは、花魁のあまりの女ぶりに、他の者に教えるのが惜しくなったのではなかろうか」

それを聞いて、時之助は陽春を半目で見た。
全くもって能天気な僧である。

「前向きで、よござんすな」
「それでな、時之助」

あとはもう聞かなくても分かっていた。

「國八花魁に会わせろってんですね」
「やあ、流石は時之助。話が早い」

物騒な話を聞かされて固くなっていた陽春の顔が一転、にこにことし始める。

「しかしなあ、滅多に遊べぬのなら、今回ばかりは時之助の手にも余るかな」

ざ、と足を崩して片膝をついた時之助は、にやりと笑った。
この手の分かりやすい挑発にも敢えて乗るのが江戸っ子だ。元々武士とはいえ、時之助の身にはすっかり町人の意気が馴染んでいた。

「なめてもらっちゃあ困ります。この時之助、お江戸の町でなら、つけられねえ話はございやせん。何とかしてご覧に入れましょう」

時之助は、話も早いが仕事も早いのだ。
近い内に國八花魁に会えそうだと分かり、陽春はご機嫌だった。

「しばらくは陽雪さまが目を光らせておいででしょうから…そうですねえ、五日…いや、七日後にしやしょうか。七日後の暮れ六つに、吉原の大門前でお会いすると致しましょう」




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カンタレラ その2

11月分カンタレラ
続きです

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投稿日:2010/11/29 16:54:10

文字数:2,200文字

カテゴリ:小説

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