気付けばもう、朝五ツ時だった。
大抵の者が朝四ツ時には起き始めるというのに、完全な寝坊である。
勿論、昼見世は昼九ツ時から始まるのでまだ間に合う時間ではあったのだが、この時間は彼女たちにとって貴重な自由時間だ。
リンも、昨日会えなかった姐に会っておきたいと思っていた。
昼見世なんて客足もなく閑散としているのだから、なくしてしまえば良いのに――昼見世がなくても、起床時間は変わらないのだろうが。
そんなことを考えながらも、床から出て湯に入る支度を始める。
湯の順番は年功序列でもないから、起きだした者から入ることになっている。
眠っても昨晩のことをまだ少し引き摺ったままだったので、湯と共に流してしまおうとリンは部屋を出た。

「はあ…」

あわよくばと思ってはいたが、湯から上がれば相応の時間。
結局、髪を結ったり化粧をしたりしている間に昼見世の時間になってしまった。
昼客もなければ昼見世は暇なだけで、手紙を書いたり本を読んだり、子どもを連れて来て遊ぶ者もいるのだが、小見世であるリンは当然自由に動くことは出来ないし、まして中見世の姐と会うなど不可能だった。
これはもう、今晩また訪ねて行くしかない――仕方なく諦めて、リンも他の者たちと同じように本を読んでいた。
今まではずっと手紙を書いていた相手がいたのだが、どうしてか最近めっきり返事が来ないのである。
忙しいのかもしれない。そう思うことにしていたのだが、昨晩の妙な気持ちが気懸りだった。
けれどリンは、この廓からも出ることの出来ない身の上だ。
心配をすることしか出来ないのだが。





今日も便りはなく、昼見世はいつものように終わった。
食事を取って暫くすれば、まだ格下のリンには縁遠いものであるが、道中が始まる。
その後、見世清掻きの囃子が鳴れば、いよいよ色街の華、夜見世の始まりである。
当然、まだ部屋持ち――それでもこの年にしてみれば偉業であるが――のリンも他の小見世と共に格子に張り付き、今日も今日とて客を誘うのだ。
とはいえ、小見世の格子は上半分がない。
顔を晒して男を惹くのが冗句であり、むしろそれでしか取りようがないのだが、リンも周りの小見世と同様、格子のない窓に向って誘いをかける。
ふと、今時珍しい長髪に惹かれれば、若い男と目が合った。
藤のような色の髪と瞳をした、背の高い――この服装は、もしかして軍服だろうか。
見惚れたというのは言い過ぎだが確かに惹かれて、リンは男に声もかけられないまま見逃してしまった。
特に若い男が良いという訳ではないけれど、年寄りよりは良いし、ましてあれだけ整った顔をしていた男なら、抱かれるにしても幾分気分もマシだったのだろうに。
知らず溜め息を吐きながら、リンは静かに男の行方を想った。
勿論、リンに客を選り好みする権利はない――呼出しともなれば、違うものらしいけれど。
昨日はたまたま馴染みの川合が来てくれたが、リンにはまだ馴染み客が彼しかいない。
とにかく買ってくれる客を見つけなければ、一晩中格子の前で過ごさなければならないのだ。
いくら矜持を捨てたと言っても、冷やかしの声もはやはり耳に痛い。それを考えるだけで憂鬱だった。
――そう。
これが、いつもの日であったならば。

「リン、新造の娘が足りないのよ…一寸行ってあげてくれないかしら?」

慌ただしく二階から降りてきた遣手に、リンはそう言われた。
新造とはまだ水揚げの済まない者のことで――彼女も、三月前までは新造だった――客が重なった時に話し相手として出されるのである。
この廓はまだ墜ちてはいない筈で、新造だってそう少なくはない筈だ。
どういうことなのかと不思議に思いつつも遣手の元へ行くと、小声で耳打ちされる。
「かなりの上客だから、無碍に扱うことが出来ないの。すぐに席を空けさせるつもりだけど、それまではリンに任せるわ」
「え、そんな…」
つまり、上客に新造だけでは忍びないので、引込新造だったリンが場を保てということ。
リンの年ならば多くの者がまだ新造をやっている頃でもあるし、適任だと考えたらしい。
「奥の間にいらっしゃるから、くれぐれも粗相はしないようにね」
そう言うと、もう次の客があるのか、すぐに行ってしまった。
「…嘘でしょ」
まさか部屋持ちになってまで新造の役をするとは。心情的には打ちひしがれたい気持ちだったが、そうも言ってはいられない。
上客であればこそ、自分の名前を売る絶好の機会でもあるのだ。



「失礼致します」



幾分緊張しつつも、今日の客は自分の客ではないし姐の客でもない。
これまで新造としてやってきた通りにすれば良いのだから大丈夫だと自分に言い聞かせながら、リンは座敷に入った。
するとまず向けられたのは、先に入っていた新造と禿――リンも知っている、同時期に同じ姐に付いていた新造と禿だった――からの救いを求める目。
本来ならもう一人いる筈なのだが、今日はこの二人しかいないようだ。
しかも、二人ともあまり器量が良いと言えた方ではない類で、これでは自分が呼ばれたのも頷ける。
まさか姐の客だとは思っていなかったが、それならばなおのこと絶対に機嫌を損ねてはいけない。
リンは一気に緊張しつつ、顔を上げて客を見た。

「あ…」

不躾にも思わず声を上げてしまったのは、リンだけではなかった。
二人いる客のうち、片方の客がリンを見て少し驚いたような表情をしている。
先程の若い軍人だった。
偶然もあるものだと思っていると、もう一人の客――年の頃から察するに、この男が“上客”であり、部下を夜遊びに連れて来たというところだろう――が興味深そうに声をあげた。
こちらも軍服を着ていて、肩章からするとどうやら少佐らしく、遣手も慌てる筈だなと納得する。
明治の世に入っては、侍の時代は終わり台頭してきたのは華族と軍人。
ましてそれが佐官ともなれば、上客も上客だ。

「なんだ、少尉。こちらの女郎さんと知り合いかね」

その言葉にリンが驚いたのは、なにもリンが男と知り合いかと問われたからではない――冗談くらいは理解出来る。
もう一人の、明らかに二十代半ば程であろうこの若い男が、少尉などと呼ばれたからだった。
この年で尉官になるなど、叩き上げでは不可能だ。
男は一体何者なのだろうかと、リンは気付かれないように注意しながらも盗み見る。
すると男は突然、そんなリンを見て屈託なく笑ったのだ。

「いえ、先程この店の前を通った時に目が合ったので…これも偶然だなと」

彼は遊郭という場所に来たことがないのだろうか。
いや、それ以前にこのような所や、此処で暮らしている女のことなんて知らないのかも知れない。
「なんだ、そうなのか…」
少し拍子抜けした風の少佐らしい男の言葉など、リンの心にはすり抜けていくだけだった。
「…」
きっと彼は知らないのだ、こんな汚い女の暮らしなど。
だから、そんな笑顔を――まるでそこらの普通のヒトに向けるような表情を――リンに掛けるのだと。
苦しくなる胸を持て余しつつ考えていた。

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夜明けの夢 【第一章】 壱:運命は廻る (がくリン)

『夢みることり(黒糖ポッキーP)』インスパイアの、がくぽ×リン小説です。
明治期・遊郭もの。

※注意:この小説は、私・モルが自サイトで更新しているもののバックアップです。
あしからず、ご了承ください。

閲覧数:171

投稿日:2011/04/26 22:57:24

文字数:2,906文字

カテゴリ:小説

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