レン君が演劇部の人たちに話をしたところ、異論を挟む人はいなかったとのことで、『ロミオとジュリエット』に決定した。グミちゃんも「あたし、悲劇のヒロインって一度やってみたかったんです!」と、役に積極的だったので、わたしはほっとした。
ミクオ君もマーキューシオ役に決定した。これでミクちゃんが喜んでくれるといいんだけど。
それと、主役のロミオとジュリエットに関しては、演劇部の都合でダブルキャストになったらしい。片方は躍音君とグミちゃんが、もう片方は蜜音さんと一年の女子生徒がやるのだそうだ。蜜音さんがロミオなのね。確か『ピグマリオン』の時はヒギンズ教授をやっていたんだけど、蜜音さんの教授はかなりかっこよかった。二組のロミオとジュリエット……どんな感じになるんだろう。時間を作って、両方とも見に行きたいな。
作品が決定した次の日曜日、わたしは脚本の修正を手伝うために、レン君の家に来ていた。一日レン君の家で作業をすれば、かなりの部分を終わらせられるだろうってレン君が言ったから。お母さんには例によって、図書館に行くと言ってある。
わたしはお姉さんに挨拶をした後、レン君と一緒にレン君の部屋に行った。……この部屋に入るのは初めてだ。そんなに広くない部屋は、机(上にPCが乗っている)、本やCDが詰まった本棚、シングルベッドでほとんどいっぱいだった。
レン君がPCの電源を入れて、ファイルを呼び出している。わたしは椅子に座って、レン君の作業を眺めていた。
「リン、冒頭の喧嘩のシーンっている?」
冒頭の喧嘩のシーン……両家の下働きたちが喧嘩をしているシーンね。下働きたちが喧嘩をしているところに、ロミオの従兄のベンヴォーリオとジュリエットの従兄のティバルトがやってきて、更には両家の当主たちまで出てきてしまうシーン。
……グノーと同じ発想だ。グノーのオペラでは、この冒頭のシーンはばっさり削られていて、キャピュレット家のパーティーのシーンから始まる。グノーもこのシーン、無駄だと思ったんだわ。
「グノーのオペラみたいに、キャピュレット家のパーティーのシーンから始めるの?」
「……そんな感じ」
そうすると大分短くなる。あ、でも、相談のシーンは入れ込めるわよね。グノーだってそうしているもの。……うーん、けど。
「わたしは、このシーンはあった方がいいと思うの」
「うん、そう?」
「ええ。何て言ったらいいのかな……このシーンって、最初は両家の従僕が喧嘩をしていて、そこからベンヴォーリオとティバルトという、両家の血筋に繋がる人がでてきて、最後は当主がでてきて争うわけでしょ。子供の喧嘩を親がややこしくしているみたいで、ちょっと面白いと思うし。それに、この後のヴェローナの大公の叱責は、話の流れ上必要だと思うわ」
この両家の関係がどんなで、ヴェローナ大公が頭を抱えるほど厄介な問題だということが、このシーンで示されている。だから、わたしは残した方がいいと思う。
レン君は真面目な顔で考え込んでいたが、やがて頷いてくれた。
「言われてみればそうだな……じゃあ残すか。でも冗長だから、台詞削って短くしよう」
「衣装で工夫をして、誰が誰だかわかるようにできない? モンタギュー家には青、キャピュレット家には赤を着せるとかして。で、剣とかで立ち回ったら、見る側には伝わるんじゃないかしら?」
実を言うと、これはバレエの方の演出だ。バレエは台詞が無いので、こうやってストーリーを表現する。
「じゃ、そうしよう」
レン君は頷いて、ファイルにあれこれ書き加えた。
『ロミオとジュリエット』は、冗長というか、複雑でややこしい台詞が多い。わたしたちは基本的に言いやすいものにしたかったので、台詞の感じはかなり変わった。シェイクスピアの意図とは違うのだろうけれど、もともとの台詞ではやる方が大変すぎる。
そうやっているうちに、わたしは段々、あることが気になってきた。
「このややこしい台詞って、原文ではどんな感じなのかしら?」
シェイクスピアは、どんな感じでこの文章を書いたんだろう。さすがに、シェイクスピアの原書は持っていない。
「……見てみる?」
レン君にそう言われて、わたしは驚いた。
「え? レン君、原書を持ってるの?」
「持ってないけど……」
レン君はPCに向き直ると、インターネットブラウザを立ち上げて、何やら打ち込み始めた。
「ほら」
「あ……」
画面には、原文の『ロミオとジュリエット』が表示されていた。わたしは、びっくりして画面を見た。
「どうしてなの?」
「ここ、著作権の切れた本のデータを集めてるサイトなんだ。全部ってわけじゃないけど、有名な作品は揃っているよ」
「……そんなのがあるんだ。わたし、学校の授業でしかネットってやったことないから知らなかったわ」
わたしは、しばらく画面に並んだ英文を眺めていた。意味がわかるところもあるけれど、わからないところの方が多い。
「リン、わかるの?」
「……全部は無理。でも、リズムが綺麗というのはわかるわ」
オペラは、その言葉が一番綺麗に響くように、計算して作るという話を聞いたことがある。これもきっと、そういうのと一緒なのよね。
もう少し見ていたかったけど、わたしは作業をしなくてはならない。ちょっと残念な気持ちで画面から離れようとして、わたしはふっとあることを思い出した。
「ここ、著作権の切れた有名な作品は、大抵入っているのよね?」
「大体はね。もっとも、俺もチェックしたわけじゃないから、どれが入ってるかとかは知らないけど。何か気になる作品でもあるの?」
「……ええ。ちょっと探してみてもいい?」
「いいよ。えーと、ここで収録作品は検索できるから、作者名かタイトルを打ち込んで」
レン君が場所を譲ってくれたので、わたしはキーボードの前に座った。学校で習ったから、タッチタイプはできる。
タイトル……はわからないから、作者の方で探してみよう。作者の名前を打ち込む。……あった、これだわ。
わたしは、表示された作品の一覧から、探していたものを呼び出した。画面に英文が表示される。……ものすごく長い。長いのは覚悟していたけど……何せ年単位だもの。それにして長いし、文面が難しい。表示された文章を見て、わたしはちょっと困ってしまった。読んでみたいと思っていたけど、これではちょっと無理だ。
「探していた奴じゃなかったの?」
「ううん、これよ。でも……今読むわけにはいかないもの。長すぎるし」
これを全部読もうとしたら、数日がかりになってしまう。今こんなところで読むわけにはいかない。わたしの部屋にも、ネット接続してあるPCがあれば良かったのに。
「じゃ、後で印刷して渡してあげるよ」
レン君は、あっさりそう言い出した。えーと……。
「……いいの?」
「いいよ、それくらい」
「……ありがとう」
レン君の声が優しかったので、わたしは頼むことにした。……レン君は、いつも優しい。だから時々、ひどく胸が苦しくなることがある。
「ところでこれ、誰の何ていう本?」
訊かれたわたしは、思わず赤くなって俯いてしまった。……わたしが探していたのは、十九世紀の詩人が書いたラヴレターだ。愛に生きたと言われた人。でも、それをレン君に言うのは、なんだか恥ずかしい。
「……リン?」
「あ……あの……これ、本じゃなくて手紙なの……」
わたしは真っ赤になったまま、なんとかそれだけを言った。恥ずかしくて、顔をあげられない。
そうやって、ずっと下を向いていると、不意にレン君の手がわたしの額に触れた。驚いて、思わず顔をあげる。レン君の手はわたしの髪を軽くかきあげて、それから頬に触れた。わたしはもう一度顔を伏せようとしたけれど、レン君が手に力を込めたので、上手く伏せられない。
やだな……なんだか、恥ずかしさで全身が熱くなってきたような気がする。レン君と二人きりで向かい合うのには、もう慣れたと思っていたのに。さっきまで『ロミオとジュリエット』を読みながら、あれこれ話していたせい?
頬に触れていたレン君の手がすっと滑って、わたしの髪を撫で、頭の後ろをつかんだ。反対側の手が、わたしの背中に回される。
「レン君……」
言いかけたけど、最後まで言えなかった。そのまま強い力で引き寄せられて、唇を塞がれる。
レン君とキスしたことは、何度かあった。一番最初は、お互いの気持ちを伝え合ったあのクリスマスの日。それから、デートの時とかに何度か。でも……このキスは、今までのと違った。普段は、静かに唇を重ね合わせるだけ。でも、今日は、一度離してはまた重ねるということを、何度も繰り返された。その度に、唇を吸われる。最初は軽く、だったけど、段々強くなってきた。
わたしは、なんだか自分が食べられかけているような、そんな気までしてきた。……怖い。こんな風に翻弄されるのは。
でも……それとは別のところで、自分が熱を帯びているのを感じる。身体の底から、何かがこみ上げてくるような。それは今まで、わたしが感じたことがなかったもので……そう感じることが、怖かった。
息苦しさを感じて、わたしはレン君の唇が何度目かに離れた時、大きく息を吸った。頭がくらくらする。嫌な感じではないのだけれど。
「レン君、わたし……」
「リン、好きだよ。大好きだ」
レン君がわたしの耳に顔を寄せて、そう囁いた。レン君の息が耳にかかる。くすぐったい。もう一度、息がかかった。意図していないのに、身体が震える。でも寒いからでも怖いからでもない。むしろ熱くて……何だろう?
レン君がわたしの首筋に顔を埋めた。唇が触れているのがはっきりわかる。どうしてこんなにはっきりわかるんだろう。胸の鼓動がとても早くなっていて、それが苦しいような、でもそのままでいてほしいような、そんな気持ちだ。自分でも何なのかよくわからない。
首筋に、レン君の息がかかった。さっきよりも熱くなっているみたい。身体がまた、軽くはねる。……どうしてこんなに、わたしたちは熱くなっているんだろう。その時、レン君がわたしの首筋を軽く噛んだ。
「……あっ!」
わたしは驚いて思わず声をあげ、大きく身を捩った。問題は、わたしたちが二つ並べた椅子の上に座っていて、場所にはあまり余裕が無かったということ。
結果として、わたしたちはもつれあうようにして、椅子から落ちた。床にぶつけた肩と背中が痛い。ついでに言うと、レン君がわたしの上に乗っているので、重い。
「……リン、平気か!?」
レン君が、あわてた様子でわたしの上から降りると、そう訊いてきた。
「だ、大丈夫だけど……」
レン君が手を差し出したので、わたしはそれにつかまって、身体を起こした。その時、レン君の部屋のドアが派手な音を立てて開いた。
「今すごい音がしたけど……何があったの?」
あ……お姉さんだ。さっきわたしたちが落ちた音が、お姉さんの部屋まで聞こえてしまっていたらしい。
「あの……わたしたち、椅子から落ちたんです」
「落ちたって、どうして?」
どうしてって……確かに、人はそう簡単に椅子から落ちない。お姉さんが怪訝に思うのは当然なんだけど、レン君とキスしていたら、何だか妙なことになっちゃったって……それを説明するの? ……さすがに恥ずかしい。
「……ふざけあっていたら、バランス崩したんだよ」
レン君がお姉さんに答えている。
「それで椅子から落ちるまで行く?」
行かないわよね……多分。でも、どうしてああいうことになってしまったんだろう。
「……レン、あんたちょっと駅前のスーパーまで買い物に行って来て。卵と牛乳切らしてたから」
お姉さんは、突然レン君にそんなことを言った。よくわからないけど……怒ってるの?
「あ……うん」
レン君は頷いて、上着を着るとお財布をポケットに入れて、部屋を出て行った。
ロミオとシンデレラ 第六十一話【死ではなく愛】
今回とその次で、ちょっとアダルトな内容に踏み込みます。
原曲が『ロミオとシンデレラ』である以上、この辺りはちょっと避けて通れない気がしますので。
まあ、「色っぽい」というより「身も蓋もない」内容になると思います。……特に次回のアナザー。
余談。作中でレンが利用しているのは、Project Gutenbergです。
アドレスはここ。
http://www.gutenberg.org/
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