「喧嘩は駄目。お母さんに聞こえてしまう」
「けど……」
 レン君はまだ言い足りなさそうだ。リンがまた首を横に振って、レン君の唇を指で押さえる。レン君は面白くなさそうな表情をしていたけど、それ以上何か言うのはやめたようだ。
 リンはというと、姉さんの方に向き直った。
「ルカ姉さん。もう、あの時のことはいい。わたし、全部忘れることにする。ルカ姉さんのしたこと、みんな忘れる。もうなかったことにする。許すことがわたしの復讐なんだって、そう、思うことにするから」
 意外なことを、リンは言い出した。許す? 姉さんを? 階段から突き落とされたのに? リン、あんた、どこまで人がいいのよ。一生恨めばいいのに。
 一瞬そう思ってしまい、自分で自分が嫌になる。あたし、何を考えているんだろう。こんなだから駄目なんだ。
「リン、本当にそれでいいのか?」
「うん……わたし、そうしたい」
 リンはレン君とそんなやりとりをしている。レン君の方は納得がいってないようだけど、リンに自分の考えを強制するつもりもないみたい。
「わたし、上でお母さんが起きるまで待ってるね」
 リンは静かな声でそう言って、レン君と一緒に部屋を出て行ってしまった。……空いている部屋も多いから、そのうちの一つで待つつもりなんだろう。どの部屋が空いているかは、お手伝いさんに訊けばわかる。
 姉さんはリンに言われたことに驚いて、ぼんやりと宙を見ている。あたしはリンの言ったことを考えてみることにした。「許すことがわたしの復讐」って、どういう意味?
 とにかく、リンは姉さんを許すことにしたのか。階段から突き落とされたことも含めて。ちょっと信じられないけど……。
 妹のリンが姉さんを許すことにしたのに、姉のあたしはいつまでもこだわり続けるの? そりゃ、あたしはいい姉じゃない。リンに姉らしいことなんて、ほとんどできなかった。けど……。
 それにレン君の言うとおり、いつまでもぐちゃぐちゃやるのも、みっともないんじゃないだろうか。あたしは、どうしたらいい?
 ……決めた。
「あ~、えーと、姉さん」
「なに」
「……さっきあれだけわあわあ言っといてなんだけど、あたしも姉さんとのいざこざは忘れることにするわ」
 姉さんがぽかんとした表情になる。……こんな顔、初めて見た。
「妹にあそこまで言われたら、あたしも考えないとね。許すことが復讐てのはよくわからないけど、あたしも姉さんを許せるよう、努力してみるから」
 なんだかよくわからないけど、いい気分。姉さんは相変わらず、ぽかんとしている。
「妹に先を越されるのって、みっともないわよね。じゃ、あたしは他の部屋に行ってるから。カエさんが起きたら、リンと挨拶して、それから帰るね」
 自分で決めた以上、あたしも姉さんのことは許すよう、努力しよう。心が逆立つことがあったとしても。


 空き部屋で本を読んだりして時間を潰していたら、思ったより時間が過ぎてしまった。あたしが部屋を出てみると、リンは帰るところだった。……お手伝いさんに、声かけしてって言っておくんだった。
「あ、リン。今からレン君の実家に戻るの?」
「ええ。……ハク姉さん、ちょっといい?」
 リンは思いつめた表情で、あたしの前に立った。どうしたんだろう。カエさんから何か、気になることでも聞いたんだろうか。
「何?」
 尋ねるあたしに、リンはやはり思いつめた表情のまま、こんなことを言い出した。
「あのね……ハク姉さん、お母さんのことを『お母さん』って呼ぶの、絶対に無理?」
 ……いきなり、何?
「リン……あんた、いきなり何を言い出すのよ?」
 カエさんは、カエさんだ。いい人……すごくいい人だし、あたしも感謝はしている。そのほとんどは反発していたとはいえ、本当のお母さんよりも長い時間を過ごして来たんだし……。
 けど、それは無理だ。あたしはリンとは違う。あたしがカエさんのことを「お母さん」と呼ぶわけにはいかない。
「ハク姉さん、一生のお願い。お母さんのこと、名前で呼ぶのは止めて、『お母さん』って呼んであげて」
「……あたしにそんな資格ないわ」
 そう、あたしにそんな資格はない。カエさんのことをお母さんと呼んでいいのは、カエさんにちゃんと、子供として接してきた人だけのはず。
「お母さんは、ハク姉さんに『お母さん』って呼んでほしがっていると思うわ。資格なんて関係ない」
 そりゃ、カエさんはいい人だもの。お荷物のあたしや姉さんのことを見捨てなかったぐらい。
「今更、よ。今更どんな顔して『お母さん』なんて呼べばいいわけ?」
 可愛げってもののなかったあたし。カエさんの手を煩わせて、いらない苦労をたくさんかけた。そんなあたしが、どんな顔をして、「お母さん」なんて呼べるっていうの?
「そうやってリンのお母さんが死ぬまで、そうする気?」
 あたしとリンが無言のままその場に立ち尽くしていると、レン君が口を挟んできた。その言葉に、リンが凍りつく。……あたしもだけど。
 カエさん、死ぬかもしれないんだ。
「あ……リン、ごめん。俺、別にリンのお母さんが死ぬと思ってるわけじゃなくて……」
 レン君があわててリンに謝っている。でも、リンはレン君ではなく、あたしを真っ直ぐ見て、こう言った。
「ハク姉さん、レン君の言うとおりよ。お母さんが死んでからじゃ遅いの。気持ちがあるのなら、今呼んであげて。わたしからの、一生のお願い」
 リンが頭を下げる。リンの隣で、レン君も頭を下げた。……二人とも、梃子でも動かなそう。
「俺からも頼みます。呼んであげてください」
「わかった、わかったわよ」
 あたしは、そう答えてしまった。だって頷かないかぎり、リンもレン君も、ずっと頭を下げ続けそうだったんだもの。二人の表情が、目に見えて明るくなる。
「ハク姉さん、絶対よ。絶対、お母さんのこと『お母さんって』呼んで」
 別れ際に、また、リンに念押しされてしまった。……どうしよう。


 リンが帰った後で、あたしはもう一度カエさんに声をかけてから戻ろうかと思ったけど、リンに言われたことが引っかかって、それができなかった。……我ながら情けない。
 仕方がないので自宅に戻る。自宅というか……離婚してからカエさんが住んでいた家なんだけど。ここに戻ってくるつもりはなかったんだけど、カエさんに「空き家にしておくと、建物が傷むから住んでちょうだい」と頼まれてしまったのだ。そんなわけで、カエさんと入れ替わりに、あたしたちがここに越してきた。それまでアパートだったから、気楽になったといえば、言えるんだけど。
 途中でスーパーに寄って、夕飯の買い物をする。実をいうと、アカイさんは料理が苦手だ。まともに作れるのはカレーぐらい。なので、食事は大体あたしが作っている。食後の洗い物は、アカイさんの仕事。
 普段は仕事があるから簡単なものになっちゃうけど、今日は時間に余裕があるから、少し手間のかかるものにしようか。あ……トンカツ用のお肉が安い。これにしよう。後はキャベツと……。
 カエさんに色々教えてもらえて、あたしは随分と助かっている。カエさんと二人で暮らした期間がなかったら、あたしはお肉の値段も知らなかっただろう。
 ……うん、カエさんはいい人だ。それはわかってる。でも……あたしは、カエさんをお母さんって呼んでいいんだろうか。
 悩みながら夕飯の支度をしていると、アカイさんが帰って来た。
「ただいま~」
 機嫌、良さそう。もっともアカイさんって楽観的な人なので、大体いつも機嫌がいい。
「お帰りなさい」
 二人で向かいあって、食事にする。メニューはトンカツと刻みキャベツ、それから具だくさんのお味噌汁だ。……言っとくけど、トンカツ揚げるのって結構面倒なのよ。お肉に下味つけて、粉はたいて溶き卵つけてパン粉つけて、それから油で揚げるんだから。揚げ油の始末とか、考えないとならないことも色々あるしね。
「……そういやハク、今日、お母さんのお見舞い行って来たんだろ。どうだった?」
 あ、アカイさんを送り出す時、その話をしたんだっけ。今日はお休みになっちゃったから、カエさんのお見舞いに行って来るって。
「あんまり変わりない……それと、リンが来てた」
「リンちゃん? アメリカから戻って来たのか。元気そうだったか?」
「……うん」
 リンに言われたことを思い出し、あたしは憂鬱な気分になった。リンと約束したんだから、あたしはカエさんのことを「お母さん」と呼ばなくちゃならない。でも……気が進まない。
 あたしはなんとなく、目の前のアカイさんの顔を見た。アカイさんはカエさんのことを普通に「お母さん」と呼ぶ。全く何のためらいもなく。
「ハク?」
 マイコ先生は、アカイさんはこだわらない人だって、言ってたっけ。自分があんな風になって戻ってきたら、その次の日には自分のことを「マイコ姉」って呼ぶようになったって。それまでずっと、「マイト兄」と呼んでいたそうなのに。
「ハク、どうかした?」
「う、ううん……なんでもない」
 あたしは慌てて視線を逸らした。もちろんあたしたちは夫婦で、みつめあうのは恥ずかしいことでもなんでもない。でも、なんか、今は……。
「ハク、お母さんの病気のこととかで、家を空けなくちゃならないとかなら、気にしなくていいから」
 アカイさんに誤解されてしまった。別にそういうのじゃない。姉さんとこだもの。人手は足りてる。あたしにできるのは、休日に顔を見せに行って、近況を伝えるぐらいだ。
「あの……アカイさん」
「ん? どうかした?」
「えーと……アカイさんは、マイコ先生がマイコ先生になった時に、戸惑いとかってなかったの?」
「そりゃ、びっくりはしたよ。今の今までずっと『従兄のお兄さん』だと思った人が、『従姉のお姉さん』になったんだから」
 少し首を傾げた後、至って軽い口調で、アカイさんはそう答えてくれた。……えーと。
「マイコ先生のこと、『マイコ姉』って呼ぶの、抵抗とかなかった?」
「ん~、抵抗は、別に。癖で『マイト兄』って呼びそうになって、慌てたことならあるけど」
「全然気にならなかった?」
「全然、全く、気にならなかった」
 アカイさんは本当に気にしてないみたいだった。あんまり参考になりそうにない。
「だってマイコ姉は、マイコ姉って呼んでほしがってたわけだしさ。それなのにわざわざ、前と同じ呼び方して、マイコ姉の神経逆撫ですることもないだろ。マイコ姉だってすごく悩んで出した結論なんだろうし」
 何が言いたいのか、ちょっとずつわかってきた。アカイさんは、誰かが望んでいるのなら、それに対応した振る舞いをさっとしてしまえるのか。
 でも……それって、あたしには、無理だ。
「ハク、トンカツを睨んでも美味くならないよ?」
「不味い?」
「いや、美味いけど。トンカツを親の仇みたいな目で睨んでたから気になって」
 親の仇って……。
「お母さんのことが心配なのはわかるけど、先輩も全力尽くすって言ってくれているんだし」
「そのことじゃなくて……」
「じゃ、なに」
 あたしは悩んだけれど、リンに言われたことをアカイさんに話すことにした。
「うーん……」
 あたしの話を聞いたアカイさんは、腕組みをして考え込んでしまった。あたしは対応に困って、お皿の上のトンカツを無意味に動かしてみる。
「俺としては、ハクはさっさと『お母さん』って呼べばいいのにって思う」
 想像どおりの答えが返って来てしまった。アカイさんなら、そう言うだろう。
「……あたしにそんな資格ない。いっぱい迷惑かけたのに」
「その、ハクが『いっぱい迷惑かけた』人が、『一番望んでる』ことを、ハクはやらないんだ?」
 そんな言い方、ずるい。だってそれじゃ、あたしがすごくひどい奴みたいじゃない。
 でもやっぱり、これはひどいことなのかな。カエさんが望んでいて、リンも望んでいて、それなのに、あたしはできない。
「大体、ハクはなんで嫌なの?」
 なんでって……。
「だからあたしにはその資格が」
「それはお母さんが気にしないって言ってるだろ。ハクがこだわっても仕方ないよ」
「うーん……」
 それはそのとおりだけど……。あたし、どうして割り切れないんだろう?
 あたしが悩んでいると、アカイさんは困った表情になった。
「なあ、ハク……}
「なに?」
「ハクってさ、好きな相手に対してほど、ぶつかったら迷惑とか考えて、ぐだぐだ悩むよな」
 あたしはちょっとぽかんとして、アカイさんの顔を見てしまった。
「俺とつきあう時だって、『あたしなんかが相手じゃ迷惑かける』って言って、最初断ろうとしたし」
「それは、そうだけど……」
 今のところそんなに迷惑はかかってないけど、あたしは不安で仕方がない時がある。あたし、また、何かやらかすんじゃないかって。
 ちなみにアカイさんは、その辺りのことはあまり気にしていないようだ。
「で、実際、どうともなってないだろ。ハク、心配のしすぎなんだよ」
 そうなのかな……。けど……。
「それに考えようによっては、相手のことをそれだけ、真剣に想えているってことだろ。だったら、大丈夫!」


 その次の週の日曜日、あたしは実家に行って、カエさんに会った。治療を始めてからというもの、カエさんは気分が悪いといって、横になってばかりいる。……副作用がきついのだ。
 この日も、カエさんは自分の部屋で横になっていた。
「あ……ハク、来たの? そんなに頻繁に来なくてもいいのよ。仕事と家庭の両立は大変でしょうし、ハクは自分のことを一番に考えなさい」
「あたしは来たくて来てるの。……お母さん」
 あたしがこう言った時のカエさん……お母さんの顔を、あたしはきっと一生、忘れないだろう。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その五十【一握りの勇気】後編

 ハクさん視点です。
 この作品のハクは素直になれないキャラクターで、カエさんに対しては特にそうなんですが、ちゃんと大事には思っています。意地っ張りなだけ。

閲覧数:657

投稿日:2013/01/14 18:41:32

文字数:5,663文字

カテゴリ:小説

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