神よ。
帰還できた今、この記憶を記すことをお許しください。
本当に視たものか、はたまた極限状態であったが故の幻覚か。
今となっては考えようと願おうと何も変わりはしない。
もし君がこの手帳に記された記憶を真実か虚偽か決めようと自由だ。
しかし、1つだけ約束をしてもらいたい。私と神に誓ってもらいたい。


―――決して、あの山に入ってはいけない






202X年8月14日

 登山が趣味である私は、休日を利用して近所ではなく少し遠くの山への登山を決行した。万が一のためにと、近場の役所に登山届も提出した。そこは標高1386mくらいの山で、辺りに民家はないが不思議と登山道らしき道は、人が通れるくらいには整えられていた。だが一つ不思議な、いや、不審な点があった。登山口にあるはずの看板がなかったのだ。しかし私は、古くてまだ新しい看板を立てていないだけだろうと結論付けてしまった。
 私はその後、登山を開始した。登りには熊のような野獣の気配もなく、せいぜい川の流れる音と、野鳥が鳴いているだけのブナ林が続いているだけだった。趣味とはいえ、いくつもの山を登ってきた私には辛さはあまりなく、2時間半も歩けば難なく頂上に着いた。どんな山でも、頂上から見れば雄大な自然が広がっているもので、遠くに来た山は期待以上だった。

 後は来た道を戻るだけ。ただそれだけのはずだった。しかし、下山の最中にある違和感を感じた。周りの自然が登りと違うのだ。ブナ林は相変わらずある。だが、そのブナ林が、私の目には魔女の森の枯れ木のように禍々しく見えたのだ。枝葉は立秋過ぎのように赤茶色になり、斜面には落ちた枯れ葉が敷き詰められていた。
 更に、川の音も聞こえなくなっていた。来た時に聞こえた川の流れる音が聞こえない。つまり、来た時と同じ方向に下っていないということだ。だが何故だ。登山道は微塵も変わっていないのだ。ただ、周りだけが変わっていたように感じた。
 いや、ブナ林や川の音よりも、私を最も慄かせたのは、野鳥の鳴き声に代わって百舌鳥(もず)の群れが現れたことだ。百舌鳥は自分の縄張りを主張したりするために、捉えた獲物を木の枝などに突き刺し放置すると言われている。その縄張り意識の強い百舌鳥が、登山道の脇にそびえる木の枝に、小魚でも昆虫でもない、何か赤黒い物体を突き刺しているのだ。
その時の私には、それが何なのか判断する材料はなかった。なぜなら、気がつけば辺りは夕暮れのように暗くなり、遂には登山道も変わってしまっていたのである。
 もはや違う道を歩くしかなくなってしまった私には、変わり果てた登山道を歩いていくしか選択肢はなかった。このままいけば何かあるだろう、川でも開けた場所でも何でもよかった。
もう頂上から見た景色なんてものは、私の頭には残っていなかった。



 何時間歩いただろう。空を見れば既に真夜中。ちらちら見える星の光すら、今の私には深海魚の罠のような悪意を孕んだものにしか思えなかった。暗い山の中を歩くのは危険だと思ったが、何故かその時の私は立ち止まるという選択肢は存在していなかった。もう、登っているのか下っているのかすら分からなかった。
しばらく行くと、少しだけ開けた場所に出た。その中央には、異質なほどに存在感を放つ祠がポツンと建っていた。何故ここに祠が、こんなだだっ広いところに?
いや、それよりもまずはこの祠を調べればここがどこか分かるかもしれない。そう思った私は、その祠に近づいた。薄暗いがその祠にはどうやら像と短い古文が書かれていた。夜目もだいぶ慣れたので、祠の中に見えた像が詳細に目に映った。
 その像は、蹄のある二足の脚、黒色の身体らしき胴部、上部には触手のような物体が何十本も生えており、目や鼻は存在せず、下部にはいくつもの大口があった。
何とおぞましい姿だろうか・・・!あまりにも恐怖と不定形を体現したようなその神の姿に、私は得体のしれないどす黒いナニカを退官したような気分だった。焦るように古文に目を向けると、予想より達筆でないからか私でも読むことができた。いや、よく見たらその文字は古いわけではなく、殴り書きのように書かれていただけだったのである。



”歪んだ雲海は至る所に現れ、目に見える世界は果てしない悲劇と悲嘆の劇場として、黒き大地母神が恐ろしさを産み落とす”



何のことだ?歪んだ雲海?黒き大地母神ということはコレは女神なのか?
生憎ここがどこであるかは分からず、代わりに黒い神のことが書かれていたが、何もわからない。むしろ解ることを無意識に拒んでいるのかもしれない。
どうする、動くに動けない。また森に入るべきか?それともこの場で一晩明かすか?


葛藤する私に唐突に闇が覆った


今は夜で暗いが、もはや深淵のような暗さが私を包んだ。夜目が効いている私を、唐突に、闇、いや、「影」が覆いかぶさったのだ。
それと同時に、霧のようなものが周囲を漂い、あたかも高山で雲の中を登っていくようだ。
だがそれ以上に、私を上から覆っているこれは何だ?



不安と恐怖と息苦しさを耐えながら上を見上げたそこに、「ソイツ」はいた。
巨大で不定形な、しかしいくつもの大口を持ち二足自立で私の真上にいる「ソイツ」は、地の底から、または空の彼方から響くような重く低い声を漏らしながら、涎を垂らしていた。
宗教的偶像のおどろおどろしい姿よりも遥かに大きく、濃く、そして重い存在感と恐怖感を放つソイツは、目がないはずなのになぜか私を視ている気がした。
その声を、視線を、存在を受けたときに、私は正気ではなくなってしまったのだろう。









気がつけば、私は救急車の中だった。
あとで聞いたところ、私が登山から帰ってこない事態に役場が捜索願を出したらしい。救急隊員が山の付近を捜したところ、私は登山道よりはるか麓の公道付近の木の根元で気絶していたらしい。
そして、何か悪夢にうなされたように「名状しがたき女神、黒い霧雲」と呟いていたと、当時の救急隊員は語った。
救助された私はリハビリを受けながら事情聴収を受けたが、誰も信じてくれる者はいなかった。
私の記憶が確かなら、あの生物は異形の神々として、あの地では大昔に大地母神として崇拝されていたのだろう。だが、あれが大地の女神であるはずがない。
あんな存在を受け入れたら、遂に私は廃人となってしまうかもしれない・・・!

後日、退院した私は職場では変わらずに生活しているように振る舞ったが、私は常に恐怖をぬぐえず、むしろ倍加するかのように蝕まれていった。
同僚を見るたびに、いつあのような恐怖そのものに蹂躙され悲鳴を上げるのか不安だ。
草木を見るたびに、いつ自然や見える世界があっけなく渾沌に飲まれるか不安だ。
鏡や自分の手を見るたびに、また私の前に、後ろに、横に、真上に未知の恐怖が忍び夜か不安だ。
不安、不安、不安、不安、恐怖、恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖・・・!

私は、もう疲れた。死の恐怖は、這い寄る未知の恐怖に比べれば解放であり真の神である我が主からの祝福である。
故に私は、この世界から逃げ天国への亡命を行うこととする。この一発の鉛で以て、私の地獄を終わりにする。
さらばだ隣人よ。諸君らに生あるうちの愛と祝福のあらんことを・・・


ああ、神よ・・・!何故、なぜ、ナゼ!
私を解放してはくださらぬのか!?
何故だ、何故いる!
私たちの国に・・・!私たちの街に・・・!私の家に・・・!


私の前に・・・!

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短編小説「恐怖を孕んだ森に」

あまりにも暇すぎたので、クトゥルフ神話系短編小説を書いてみました。

一心不乱にできるものっていいですね
まああくまで素人作なので、どうか大目に見てくだせえ

閲覧数:181

投稿日:2020/09/28 22:24:16

文字数:3,105文字

カテゴリ:小説

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