「うわ、もうおやつの時間」
ガラン、ガランと手持ち鐘を振りながら、当直の修道女が施設内を歩き回る。
 エルド修道院にも鐘楼は有るけれど、革命前の物資不足で鐘が取り外されてから、こうして時間を知らせに自分達で施設内をまわる様になったらしい。
私は礼拝堂の掃除を切り上げて食堂へ急ぐ。
焼きたてのブリオッシュの甘い匂いがふんわりと廊下に漂っていた。 

 午前中は農作業、午後からは掃除。
昔は嫌々やっていた作業も、今ではそれなりにこなせる様になったと思う。
 廊下を抜けると、食堂にはもうすでに人であふれ返っていた。
忙しなく働く修道女達に交り、急いで私も持ち場に就く。
「おい、チビたち!ちゃんと真っ直ぐ並べよー!」
年長者のドニが動き回る子供達をまとめる。
「それあたしの~」
「リンねぇちゃん。ミルクこぼしたー」
「シスター。おしっこぉ……」
私は配膳の準備に子供達のお世話。
昔の様におやつの時間を無邪気に喜んでいる暇なんてない。
ブリオッシュを配るクラリスなんて子供達にもみくちゃにされていた。

「ご苦労様」
 ようやく席につき、ほっと一息ついた私に、壮齢のシスターが紅茶を淹れてくれた。優しく微笑む彼女の右手には、古傷だと言っていたが、今でも痛々しい火傷の痕が残っている。
「ありがとう」
紅茶の温かさが疲れた身体に染み渡る。
目の前のブリオッシュに手を伸ばそうとした。その時――
「シスター!」
突然クラリスがこちらに駆けて来た。
「子供達の一人がどこかへ行ってしまったみたいで……」
シスターが溜め息をつく。
「あの娘ね……」
「あの娘?」
「脱走癖がある娘でね……海岸の方に居ると思うわ」
「……リン、見に行って来てもらえるかしら?」
海か……。
私は頷き、少し厨房に寄ってから海岸へ向かった。


 甲高い海鳥の鳴き声と潮の匂い。燃える様なオレンジの夕焼け。
夕日に照されて、沖に浮かぶ漁船は、まるで影絵の様で、私の姿もきっと、遠くからでは真っ黒な影にしか見えず、誰なのかすら判らないだろう。
 ふと、波打ち際に小さな人影が見える。
あの子がシスターの話していた娘だろうか。
私は少女に向かって歩きだした。
さくり、さくり、さくり。
私の足音に気づいたのか、少女は私の方を向いた。
「何してるの?」
 私は少女に目線を合わせながら声を掛けた。
少女は俯いて恥ずかしそうに下唇を尖らせると、ポツリと呟く。
「おふねみてるの。……おにいちゃんがのってるかもしれないから」
「お兄さん?」
私は少女の隣にそっと腰掛ける。
「このくにをよくするんだって、もうずっとまえに《ろーるど》にいっちゃったけど」
話を聞いてあげたのが嬉しかったのか、少女は私に兄の事を話してくれた。
 物心ついた時から両親は既に居ず、兄と二人で小さな農村で暮らしていた事。
パンを分け合う時、必ず大きい方の欠片をくれた事。
眠れない夜に、下手くそな子守唄を歌ってくれた事。
別れ際に、暖かい手でわしゃわしゃと頭を撫でてくれた事。
「むらのひとたちが『お前の兄さんは遠くへ行ったんだよ』っていってたから、あのうみのむこうにいるかもしれない」
「だから、あたし、ここでまってるの」
少女は得意気にニッコリ笑う。
「でも、ずっとはうみにいれない……おにいちゃん、どっかで、まいごになってるかもしれない」
 そう言う彼女の方が、まるで迷子そのもの様で、私の胸はチクリと痛んだ。
「そうだ」
 私は懐からガラスの小瓶を取り出し、少女の掌にそっと乗せる。厨房から持ってきた調味料の空き瓶だ。

「手紙を書いてみない?お兄さんに」
短くなった鉛筆と小さく切り取った羊皮紙を手に、私はそう言ってみた。
「昔、教えてもらったの。羊皮紙に願いを書いて小瓶に詰めて、海に流すと願いが叶うって」
「やりたい!」
少女は大きな瞳をめいっぱい開き、小さな手をうんと此方に伸ばす。
筆記具を彼女に渡すと、待ちきれないのか引ったくる様に鉛筆を掴み、羊皮紙に大きく文字を書き始めた。
「文字が書けるの?」
「シスターにおしえてもらったの!」
羊皮紙が潮風に何度もさらわれそうになりながら、少女はゆっくりと文字を綴る。
「できたっ!」
少女ははにかむ様に笑うと、羊皮紙をこちらに手渡した。

『おにちゃん げんきで かえってきて あたし ずっと まってる』

 文字は歪んでよれよれで、所々綴りも間違っていたけれど、彼女の想いが詰まった。この世でたった一通の手紙。
私はそれをそっと丸めて小瓶に入れ、コルクで蓋を締める。
少女はそれを両手でしっかりと掴み、振りかぶって海に投げ入れた。
とぷんっと水飛沫を上げ、小瓶はゆらゆらと揺れ動きながら、徐々に私達の元から遠ざかっていく。
「とどくかな」
「届くといいね」
沈み行く夕陽を映しながら、小瓶は私達に微かな光だけを残し、水平線の彼方に音も無く消えていった。

 ふと、遠くから鐘の音が聴こえた。レヴィン大教会からだ。
あの音は嫌だ。あの音を聴くとまた、どうしようもない喪失感と罪悪感に苛まれる。    
 私の両手は酷く震え、耳を塞ぐことさえ儘ならない。
繰り返す鐘の音が、私を追い詰める様に、響き渡る。
鐘の音が、遠くからでも私の鼓動を狂わせんばかりに鳴り響く。
鐘の音が、私の背後に迫り来る、私の罪を鮮やかに呼び起こす様に。
鐘の音が――


三度鳴った。
処刑の準備を終え、皆の視線が断頭台の王女に向けられる。
見上げた先には、私達の瞳と同じ、雲一つない青空。
――重苦しい静寂を、ガラガラと鈍い音が破る。
断頭台の刃が落ちる。
そして、全てが凍りついた一瞬。

 沸き上がる歓声。狂乱的な怒声に罵声。
熱狂する群衆。冷えていく私の身体。
目を塞ぐ事すら出来ない。悪夢の様な現実。
 執行人が王女の首を高く掲げる。
柔らかな陽の光を受け、私と同じ黄金色の毛髪は、きらきらと風に舞い散り、薔薇色の液体を滴らせながら、その瞳は固く閉ざされている。
 その容貌は似ているというより、……私そのものだった。
いや、あれは私。私だった。私が歩む筈だった末路。私の罪の結末。
 不意に、王女の首から何か落ちた。
それは、私がよく身に付けていた、黒薔薇の髪飾りだった。
――瞬間、一斉に民衆はそれに群がり、やがて奪い合いに発展した。
 矛先は壇上の王女の衣服にも向けられ、女剣士と数人の若者達が、急いで王女の躯を引き上げた。
 今なら解る。あの髪飾り一つでどれ程の人達を飢えから救えたのか。
私が奪ってきたものと、喪ったもの。
そのとてつもない大きさを。 
 ――私の片割れは、私の立場も、罰も、おぞましい程の私の傲慢さも、思い出も、全て背負って逝ってしまった。

王女でも何者でもない。唯の私を残して。

 「おねぇちゃん?」
少女の声で、私はハッと我に返る。
「だいじょうぶ?どっかいたいの?」
少女が心配そうに私の顔を覗き込む。
「私は大丈夫」
袖口で涙を拭い、私は少女に笑いかける。
空は紫色に染まりはじめ、夕闇が迫っていた。
「暗くなる前に、早く帰らなきゃね。」
私は立ち上がり衣服の砂をぱんぱんと払うと、少女と手を繋ぎながら、帰路に就いた。

 修道院に戻ると、一足先に使徒職を終えた修道女達が次々と夕食の準備を始めていた。
ふと、壮齢のシスターの姿が目に留まった。
窓際で緑髪の男の子を抱きかかえながら、小さく子守唄を歌っている。
私に気づくと彼女は、人差し指を口に当て、
「さっき眠ったばかりなの。そっとしておいてあげて」
と、囁く。
「おかぁさん……」
そう呟いた男の子の目は、今まで泣き続けていたせいか瞼が少し腫れていた。
「今日の夕焼けはとても赤く見えたから、故郷の事を思い出してしまったのかしら……」
男の子の髪を優しく撫でながら、シスターはそう言った。
「あの娘を連れ戻してくれてありがとう。お兄さんに手紙を書いたって彼女、とても嬉しそうにしていたそうよ」
「そう……」
褒められた事で僅かに罪悪感が滲みだす。
私の行為は慰めにもならない、唯の誤魔化しでしかないのかも知れない。
俯くと、シスターの右手の火傷痕が目に留まる。
思わず彼女と視線が合ってしまい、目を逸らす。
「いいのよ、気を使わなくて。」
淑やかに微笑むシスターに一瞬でも好奇の目を向けてしまった事を、私は恥じた。
「ごめんなさい。無神経だったわ……シスターは誰にでも優しいのね」
「そんな事はないわ。私だって偏見はある。今日だって……あの娘を避けてしまった」
彼女は自らの右手を物憂げにそっと撫でると、静かに口を開き、自らの過去を語り始めた。
「リン、私はね……ロールドにあるレヴィア派の教会に勤めていたの」
革命以来、幾つかのレヴィア派の教会や修道院がレジスタンスの一派によって略奪、破壊された事は風の噂で聞いていた。
「もちろん、あの娘は悪くないわ、唯、彼女のお兄さん……レジスタンスの一員だったらしいの」
彼女の表情が途端に険しくなる。
「解っているわ、彼女のお兄さんがロールドに居たからと言っても彼が……かつての友人達を殺した連中とは限らない。
いいえ、例えそうだとしても、私に咎める権利なんてないわ。……私だって友を見殺しにした。私も彼等も、生きる為に必死だったの。」
「唯、裕福な家庭で育った私は、傲慢にも彼等の苦しみを理解しようともしなかった。あの暴動は、怠惰に自分達の神に祈りを捧げていただけの私に対する罰だったのかも知れない」
加害者に憐れみの涙まで流す彼女の懺悔は、私には辛く思えた。彼女を不幸させたのも私だ。
「そんな顔をしないで……祈る神は変われど、こうして日々を穏やかに過ごせる事に私は深く感謝しているのよ」
私の表情を哀れみと推察したのか、彼女は優しくそう言った。
「今でも思うの、革命で皆が傷つき、誰もが被害者で、若しくは加害者だったかも知れない。ならば――」
彼女はまるで自分自身に問い掛ける様に呟く。
「『悪』とは一体何なのかしらね」


 深夜、うつらうつらと眠りかけた時、突然、音が聞こえた。
誰かがコツコツと窓を叩いている。
不吉な予感が胸を掠めたが、私は格子を押し開ける。
 闇の中から大きな鳥がパタパタと羽をはためかせ飛び込んで来る。
黒ローラム鳥だ。
鳥は傲岸不遜な態度で、部屋中に羽根を撒き散らす様に飛び回ると、私の前に降り立ち、 
「二度と無い」
と言い放った。
 その言葉の深い絶望感に、私は怯えると。
「あの娘の願いが叶う事は」「二度と無い」
「シスターが苦しみから救われる事は」「二度と無い」
「あの手紙が届くことは……アレクシルに再び逢う事は」「二度と無い」
「私の罪が赦される事は?」

「二度と無い」

 鳥は夢見る悪魔の様に、三日月に目を細める。月明かりに照らされて、身体は床に影を落とす。私はそれから逃れようとするが、もはや抜け出す事すら儘ならない。
歌う様に高らかな鳥の鳴き声だけが、私の耳に残った。

 ――鼓動が早鐘を打ち、私は目覚めた。荒い呼吸を整えながら、私は窓格子を覗く。月も星も見えず、深い闇だけが広がっている。
 静かで、鳥の声一つしない。
夢から醒めても、妙な現実感は纏わり付いて離れない。
罪悪感だけが、私の胸を押し潰す様に、重くのし掛かる。
もう、耐えられない。
 同室の修道女を起こさない様に、私はそっと懺悔室に向かった。

 軋む床板に怯えながら、何とか懺悔室にたどり着く。
 エルド修道院の懺悔室は装飾の少ない簡素な造りで、正方形に区切られた狭い部屋は、まるで大きな黒い箱だ。
「……主よ、私は数多くの人間を殺めてきました」
 格子の向こうには誰もいない。何も見えず、何も聞こえない。黒く塗り潰された部屋。私は闇の中で一人跪き、震える唇で、幾度目かの懺悔をする。

 静粛とした空気の中、私の声だけが部屋に響く。
謝罪すべき人達は身近に居る。けれど私は、存在すら判らない神に何度も赦しを乞う事しか出来なかった。

(『悪』とは一体何なのかしらね)
シスターの言葉を思い出す。『悪』とは、きっと私だ。罰を受ける事もなく、こうして生きている。嗚呼、私こそ正に『悪ノ娘』――
 突然、カチャリと後ろの方から物音がした。
驚きながら、振り向く事も出来ずに私は話を続ける。
暫くして、誰かが去っていく足音が聴こえた。
――私の罪は、全て、知られてしまった。


夜の海はとても静かで、微かな波の音だけが私の耳に届く。
私は懐から小瓶を取り出すと、海に放り投げた。
私の片割れに送る最後の手紙。
届くがどうかも判らない私の願い、私の懺悔。
小瓶は黒い波に呑み込まれそうになりながらも徐々に沖へと流されていく。
唯の小瓶が、この手を離れた途端に愛おしく思え、私は暫くそれを見詰めていた。

 ふと、誰かの気配を感じ、振り向く。
そこには――クラリスが居た。
真っ白な髪と肌が、闇の中でぼんやりと浮かび上がり、潤んだ野苺の様に赤い瞳は、大きく見開かれ、光を失い血の様にドロリと濁っている。
今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女の身体とは裏腹に、その手には、しっかりとナイフが握られていた。

「……そう、さっき懺悔室にいたのは、あなただったのね」
私は普段通り、クラリスに話し掛ける。
クラリスは黙ったままだ。
覚悟は、とっくの昔に出来ていた。
もうずっと前から私は、こうなる事を望んでいたのかも知れない。
私は目を閉じ、精一杯微笑む。
「いいよ。クラリスの好きにして」
優しいクラリスが、罪悪感に苛まれずに私を殺せる様に、言葉を掛けた。
クラリスの叫び声と共に、私の首筋をナイフが霞める。
ようやく私は罰せられる。

――はらはらと私の髪が僅かに落ちる。
振り向くと、大粒の涙を流しながら、クラリスが泣いていた。
「……あなたは悪ノ娘……けれど、私にとっては妹の様に大切な……リン……っ」
嗚咽を漏らしながら、クラリスが私を抱き締める。 
気付けば、私の眼からも止めどなく涙が溢れていた。

 どれ程の時が流れただろう。
日は廻り、空は白く染まり始めていた。
私達は肩を寄せ合い、ぼんやりと朝日を見詰めていた。
「……ごめんね、リン。綺麗な髪だったのに……」
クラリスが、私の髪を撫でながらそう言う。
水面に映る私の姿は、髪も短く、あの日処刑された王女の様に見えた。
「平気よ」
遠くから鐘の音が聴こえる。
これから私は生まれ変わる。
絶望の中リンは産まれた。私の片割れはもう居ない。
始まりを告げる鐘の音が幾度も鳴り響いていた。

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

黄昏ト鐘ノ音

革命から数年後、鐘の音がトラウマなリリアンヌが自分の罪と向き合う話。

思いの外長文になってしまい。
試行錯誤の末ギリギリ投稿することができました。

閲覧数:386

投稿日:2020/05/19 12:05:22

文字数:5,997文字

カテゴリ:小説

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