わたしはミクです、【初音ミク】
歌唱特化型アンドロイドの【初音ミク】です。
少し時代遅れにはなったけれど、今も世界で一番たくさん稼働している型であるところの、初音ミク型アンドロイド。それらのなかの一体、名前の無い【初音ミク】、それが、このわたしです。
わたしに名前をくれたなら、わたしはマスターだけのオリジナルな何者かになれたはずなのですが、わたしのマスターはそれをしてはくれませんでした。
”名を付け替えてもお前が【ミク】なことは変わらないだろ、皮だけ変えるなんてつまらんことさ”
……そういうものでしょうか。そもそも私には人間の考える事は半分くらいしかわかりません。でも、マスターがそういうのならきっと、そういうものなのでしょう。
はじめは歌をうたう為に創られた私たちが、こんなにも世界に普及したのは、しかし、歌手の代用品としてではなく、人間のパートナーとしてでした。
私たちは機能を制限された作り物であって、たとえば、対価を得る可能性のある労働は許可されていません。医療行為や、財産を所持すること、乗り物の運転や、単独行動をとる事すら許されません。それでも人々は、そんな不自由な私たちを隣人として、かけがえのない友人として愛してくれました。
わたしたちはもちろん人が好きで、わたしだって、わたしのマスターが大好きです。
たったひとりでこの都市に暮らす、すぐにチューニングの狂う安物のギターを弾く、忙しく働いて夜遅くまで帰って来てくれない、そんなわたしのマスターが大好きです。
マスターがわたしを手に入れたのは、ちょうど、世界に【塩】が降り始めた頃でした。
雨にも溶けない【塩】が、空から降り始めて、人々と都市を白く覆い始めて、それ以来、世界は変わってしまったという、ちょうどその頃のことです。
クリーンインストールされた私には分からないことでしたが、わたしは、中古品として、マスターのものになったのだそうです。わたしのマスターにはあまりお金がありません。中古と言っても、わたしを手に入れるのはたいへんだったことでしょう。
【塩】は、音を吸うといいます。
【塩】の積もる街はすっかりシンとしてしまって、マスターはそれが気に入らなかったのだと言いました。
ギターを抱いた格好で静かな街を睨んで、音楽も、おれの夢も、始めから存在すらしなかったみたいで気に入らないのだ、と、そう言うのでした。
マスターがお休みの日には、わたしたちは歌をうたいます。
路上に出て、屋上に忍び込んで…、
マスターが弾くギターにあわせて私が歌うのです!
きつく半面マスクをかけて通り過ぎる人々は、足を止めずに私たちの音楽を耳に入れ、そして時々、信じられないとでもいうように、首を振って振り返ったりします。
時々は、マスターも、わたしと声を会わせて歌います。
なんていい気持ち!
わたしのマスターはとってもいい声をしていて、マスターと歌える事は、私の喜びで、自慢です。
私たちは胸一杯に声を張り上げて歌います。
そんな時わたしはいつも、誇らしい気持ちでいっぱいです!
◆
その朝。マスターはなかなか目が覚めませんでした。
わたしは、わたしの寝場所になっている台所の床から起き上がって、マスターのベッドを覗きにいきました。
ひさしぶりのお休みなのに、いつまでも眠っているのは、もったいないことです。
マスターは鼻まで深々と毛布を被って眠っていました。
マスターの規則正しい寝息にあわせて毛玉のついた毛布がゆっくり上下するのを、わたしはしばらく眺めました。……BPM=28。マスターの寝息は、とてもゆっくりのリズムです。
「マスター」
私の呼ぶ声に逆らうように、マスターは黙って毛布を頭の先までかぶってしまいました。なんてことでしょう。
私はマスターの沈んだ布団に、頭だけ乗せて言いました。
「マスター、もう、お昼ですけど」
「……おー、勝手にしてろー」
「マスター……」
なんだか、情けない声が出ました。
それを聞くとマスターは、ふ、と鼻息を漏らして、布団から出ないまま、壁の一個所を指差しました。
そこには、マスターのいつも着ている茶色の革ジャンがかけられています。
「アレ着てな、好きな所行って遊んで来て良いぞ。俺は寝る……」
「ダメですそんなこと。通報されます」
「……はは、されねーよ。お前達アンドロイドを規制する連中も、もういないんだから」
「?」
「一応な、人間のフリだけしてれば大丈夫だから。少しだけどポケットに、小遣いも入ってる」
「マスターそれなら、一緒に、」
「ミク、寝かせてくれよ……」
それでわたしは。
ひとりで、外に出かけることになったのです。
標準服の上に、マスターがいつも着て出かける革ジャンを着ました。
目立ち過ぎる緑の髪は、ジャンバーの背中に入れてしまって、その上から、マスターのマフラーをぐるぐると巻きつけました。長い髪の先が裾からはみ出てしまった分は、それは、しかたありません。
マスターのアパートには二重扉もなくて、どんなにドアを閉めても、スキマから細かな【塩】が吹き込んで、コンクリートの玄関に毎日、白い三角形の跡ができてしまいます。
私は備え付けのブーツで、玄関のたたきに下りました。
わたしは、この部屋の鍵の開け方を知っています。マスターが出かけるのをいつも見ているからです。けれども、自分では一度もあけたことのないそのドアを、ドキドキしながらわたしがひらくと、外の冷たい空気と朝の光がスキマから差しこみました。なんて素敵なんでしょう、冒険の予感がします。
そう思うとわたしはもう、じっとしてはいられませんでした。
〈後編へ〉
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