一瞬霧がかかったかのように曇っていた視界が晴れる。
貴方の後ろ姿が見える。 右手には薬缶を持ち、左手の湯飲みに熱湯を注いでいる。
否、貴方が其れを注いでいるのは湯飲みでは無かった。ちょろちょろと流れ出る白湯は、あなたの指を、手の甲を、手首を濡らし、床に滴り落ちる。然し貴方は、その赤く熱する手をまるで気にしない。

止めさせなければ。今直ぐにでもあの手から薬缶を奪わなければ。そう思ったが、両の脚が床に貼り付けられてしまったかの様に、私は座布団の上に正座したままに立ち上がれなくなっていた。
貴方の名前を呼ぶ。止めなさいと、どうか止めてくださいと叫ぶ。否、叫ぼうとした。薄情な喉からは、意味を持つ言葉ではなく切れ切れの息だけが漏れるのみであった。
その息が届いたのか、貴方がそっと此方を振り向く。但し水の音は未だ止まずにいる。 玉石の如く澄んでいて、見抜くようなその瞳が、なぜか今は一層冷たく感じる。

何をされているのでしょうか。早くお止めください。
「水を足している、ただそれだけのことだ」
その御手は。早く治療をしなければ。
「憧憬と云うものも薄れてしまえば、ただの妄想同然だ」
お兄様。
「希うほどに遠ざかるばかりだったな」
お願いします。
漣様、どうか……。


「…さま、お嬢様!起きてください!」
肩にのせられた暖かく重たい物が少しだけ荒々しく身体を揺さぶり、その場から私を粗野だが優しく引き摺り出す。仕方なく瞼をゆっくり開けると、懐かしく遠い後ろ姿は乳母の胸像画に厚く塗り潰される。
「お嬢様、さぞお疲れでしょうが、もうすぐ美術館ですよ。今日の展示会の主人公が、寝ぼけてだらしない御姿だと旦那様に何を言われるか、よくご存知でしょう」
「御免なさいね、お伝。まだお昼なのにみっともない姿をお見せしました」
「私もお嬢様のご安眠を妨げたくはなかったんですけども。 留学から帰ってこられたばかりで、今回の展示会の準備のために何日も徹夜するのを見てきましたが、まさにそのツケではないでしょうか。私には碌な学識や教養なぞはありませんが、お嬢さんの絵のことなら加賀峰家の名声と富に惹かれた連中よりは……あらまあ、これはこれは大変失礼いたしました、お嬢様」
「いいえ、お伝が世話をしてくれたお陰で展示会の日付に合わせて完成できたのは事実だもの」

彼女の言った言葉そのものにはあまり傷つくこともないが、そこに隠れる前提が今の私の立場を今更ながら鋭く突きつける。
そう。私が産まれたのは、幾百年も前から数多の名だたる画伯を輩出してきた加賀峰家。
そして私に任されたのは、この激変の時代でもその矜持を末代まで継いでいかねばならないという責務。

あのお父様が男でもない娘を遠い国に留学させてまで徹底的に教育させたのは、家門の次代を継がせる跡取りに非常に大きな期待をかけている故ということを私は胆に銘じている。その為、跡取りとして人目の前に初めて立つ今回の展示会では、絶対に失望させるわけにはいかない。
手鏡を取り出し寝癖を直す。
その中には英国留学から帰ってきたばかりの若い閨秀画家、加賀峰凜が映る。


展示会場の前庭に立派に止まった黒い車から降りると、確かに加賀峰家の名声のお陰か、もう既にある程度集っていた人々が見えた。その中に紛れて、古びたスーツを纏って髪の毛を一本に結んでいる一人の男性が居た。夢の中でなら何度も見慣れている恋しい横顔。
私はいつの間にか彼に向かって手を伸ばしていた。
唇がぴくりぴくりと小動きし、秋風に微かな挨拶の言葉を溶かしこんでいる。
「……お久しぶりです、漣様……」

「凜、着いたら早く上がるべきではないか、何故そこでうろうろしている」
私の声と確かに似てはいるが、奥から響くその重低音の声には背筋がひやっとするような威圧感があった。そこではっと我に返った。
「はい、すぐ参ります。お父様」
小走りにお父様の呼んでいる奥に向かった。

これは為たり。端から仕出かすところだった。
忘れてはならないことなのに、危うく忘れるところだった。
その皺だらけの縮んだ手はもう私と同じ筆を握れぬという事を。
その伏せている眼はもう私と同じ画布を見つめられぬという事を。
その影のある声はもう私に向かって笑いかけてくれぬという事を。
そして、彼の名字が今では「加賀峰」ではなく、その奥方から取った「河合」であるという事を。


✽ ✽ ✽ ​


この美術館の奥には宴会場があり、展示会の主役とその贔屓を中心とした祝宴が開かれたりする。世間では知らない人も多いかもしれないが、幼い頃から両親について何度もここを訪れてきた私としては忘れることなどない。今日というこの日もお父様とお母様を始め、見慣れた顔の各界の名士達がこの場に参加してくださっていた。
本日から此処で開かれる加賀峰の次期25代目、凛の初展示会を祝う為という口実で。

「加賀峰家のご令嬢も誉れ高き才媛さんになられたのですな」
「まだまだ鈍間な愚女ですが、暖かなお言葉をかけていただき光栄の至りに存じます。ご期待に沿えるよう、今後も精進する様にせねば」
「いいえ、今回の展示会の絵画はどれも技術的に優れているだけでなく、まだ若い娘の作品とは信じられないほどに心に響くものがあり、やがてご尊父の跡を追い日本一の画伯になるのではないかと思っておりますよ。こんな才能溢れるお嬢さんの婿に入るなんて、うちの勇馬も真に恵まれたものです」
「身に余るお言葉を頂きありがとうございます。ああ、そうだ。 凛、此方は山葉社長宅のご次男様だ。来月にはお前の背の君となる方なので、この期に挨拶するが良い」
その隣から鋭い目付きの丈夫な青年が丁寧にお辞儀をしてくる。
「ご無沙汰しております。 山葉家の勇馬と申します」

そう。あの方が早晩、私の背の君となる方なのね。
向こうに行っている間にお父様が万全の手配りをしておくと仰っていたものね。婿養子に入れるほどの、加賀峰の名に恥じない男を。
恭しい態度ではあるが妙に気怠く感じる高めの声と、堂々としたその立ち振る舞いが、お父様の紹介と相まって実に不自由なく大事に育てられてきた御曹司らしい雰囲気を醸し出す。
「ご無沙汰しております。 加賀峰家の凛と申します」


「展示会を予め一巡りさせていただきましたが、まさにどの作品も吸い込まれそうで届かなそうな強烈な恋しさと切なさを感じました。絵からこのような力を感じることができるとは、本当に信じられませんでした。 特に『雨にとける文』は画面の中の雨が見ているこちらまでしっとりと濡らしているようで、憂愁を催す非常に美しい絵でした」

「恐縮です。私などまだ技術も経験も浅い限りですが……」
祝宴が一段落した頃にしばらく二人きりで会話できるようと暇をいただいたので、軽くお茶でも飲みながら今回の展示会について少しだけ言葉を交わすことになった。
「もし宜しければ、創作の源を教えていただけませんか」
「……幼いころから父や兄の絵を見ていていつも憧れておりましたので、自ずと私も物心つく前から絵描きに励むようになりました。 特に年の近い兄の絵はもっとも近くで見届けてきた所為か、私の絵にまでその影響が出て来ているのかもしれません」
「僭越ながら、兄君は今屋敷にはお戻りになっていないと伺いましたが……」
「……はい、不幸な事故で筆を折ってからは、遠い田舎で療養に出ております」
対外的にはそう知られている。 恐らくこの殿方にもそう捉えていただければ十分だろう。

私より三つ上の異母の兄、加賀峰漣。
妾出ではあったがお父様の長男であり、将来が楽しみの秀才少年と呼ばれた彼は、本来なら加賀峰家の画家の系譜を継ぐ筈だった者だった。画伯の家に産み落とされ、いつも彼が絵を描いている姿を見て育ってきた私が彼への憧憬を抱いたのは、きっと必然のことだったのでしょう。しかし中学を終えた頃、彼は何故か私の愛してやまなかった絵を描く手を傷め、筆を折ってしまった。 家門の威信というものがあって、その出来事は不幸な事故と言う名目で処理されたものの、絵の描けない跡取りなど、家門の中心から追い出されるしかなかった。 それ故、女子ではあるが嫡出の私が次の跡取りとして指名される羽目になったのだ。

遠く離れた寮制の高等学校に入学した彼に宛て、私は時々絵の習作を添えた手紙を送った。もう絵を描くことの出来ない彼を更に傷つけることになるかも知れないとは承知していた。それでも到底送らずにはいられなかった。 彼に伝えたい言葉があったから、彼の想いを聞きたかったからだ。

返事はいつも原稿用紙1枚にも満たないくらい短く、その内容も殆どが私の絵に関するもので彼自身の話題などほぼなかった。 しかし、それで充分だった。 その僅かな文章で一幅の絵をそのまま納めることが出来る文章家であり、私が憧れる画家であった男が私の拙作に対して、私だけに向けた賞賛と改善案を送ってくれるなんて、それほど光栄なことが他にあるだろうか。私の憧れは文通が続くにつれ彼の短い文に撚り色濃く塗り重ねられ、心を埋め尽くしていった。いつの間にか私の手紙は遠く離れている兄を気遣う妹の文よりは、恋に目が眩んだ乙女の恋文に近づいていってしまった。

だがその味気ない恋人ごっこは長く続かなかった。限りなく恋文に近づいていた文がついに真の恋文になった暁、その分厚い心の束が寮長の手を経てお父様の元へと戻ってきたのだ。

実家まで引き摺られてきた彼を見たお父様の表情はそれまで見たことがないほど険悪で、私の眼前で閉ざされた障子越しでは一晩中はっきりと聞き取れない怒号と何かが壊れる音が入り混じって聞こえてきた。その日あの書斎の中で何があったかはそれからも知る由はない。ただお父様が愛でられていた龍を模った唐金制の文鎮がそれ以来書斎から消えたことと、翌日の明け方に黙々と荷造りをしていた彼の顔と腕に残された青黒い痣から推測するのみであった。

数日後、彼は屋敷の下女中の娘と入籍して姿を消した。 どこで何をしても一切構わないので、二度と実家とは関わらないこと。彼に下された最後の命令はそれだった。そうして私の憧憬と恋慕を向ける相手であり、心の支えであった人は永遠に手の届かない所へと去ってしまった。
私も暫くしてから監視係をつけて留学させられることになった。そして数年が経て私が帰ってきた頃にはこの一連の出来事は綺麗さっぱり無かったことにされていた。


✽ ✽ ✽


祝宴は無事に幕を下ろした。幸い大した問題はなく今日も一日乗りきれたようだ。
お父様達を見送ってから、人がすっかり抜け落ち閑散とした美術館をもう一度じっくり見て巡る。 やっぱり私はこの時間が一番気が休まる。
下らないお世辞も諂いも要らない、私と自分の絵だけで全てを物語れそうなこの時間が。
宴会場側からは見えない奥の展示室に入ると、真っ先に私を迎えるのは向かいの壁にかかっている畳一畳ほどの広さの絵画だ。夜の空と海を描いた青い画布。私が嘗てどうしようもなく溺れていた人の最後に残した絵を私の記憶で再現したもの。そしてその前にそっと佇んでいる人は……
「……漣様」
そう呼ぶと彼が振り返る。私の記憶より背が三寸ほど伸び、会えなかった期間に比べても大分疲弊していたが、それでも何度も夢に見たその面影を見間違うことはなかった。
「……お久しぶりです。しばらく見ないうちに更に上達されましたね」
彼はそう言って力なく微笑んだ。
「僕もいつかはこのような絵を描いてみたかったものです」
「それなら……それなら如何してそのようなご選択を」
「その絵を、他ならない凜嬢が描いていらしたので」

一瞬自分の耳を疑った。私は他の誰でもない、貴方の様な絵が描きたかったのに。
「由緒正しき加賀峰家の矜持を守りたかった。その一員として認められたかった。だからこそ、時間さえあればずっと絵の練習をしていたのですが、やはり妾腹には本物の天才に追いつくことができませんでした」
彼の声はいつものような穏やかな低音だったが、今日はいつよりも背後の夜空に溶け込みそうに儚く寂しくて。
「一から十まで完璧にこなしてみたく存じました、貴女のように。でも、どれだけ頑張っても自分には無理と気付いたら、とても耐えられなくなりました」

「しかし……」
その続きはどうにも声となってくれない。夕焼けのように赤く火照る顔を精一杯下げ、乾いた唇だけを慌てて動かす。
私は恋しておりました。今でも相変わらず愛しております。一つ残らず。
伝わったか否かは分からないが、溜息か苦笑か分からない浅い息と混ざり、途切れ途切れの彼の声が耳に届いた。
「一つ残らず…に変えられたなら…のように、僕も……」
その声に顔を上げると、彼は笑っているような、泣いているような、言い表し難い表情をしていた。
「……いえ。流石にこれだけは秘密にしなければ、僕だけの」
彼はその一言だけを残し、背を向けては哀愁を纏わせ立ち去って行った。

一瞬、私は状況を飲み込めず、その場に固まったまま呆然と立ち尽くしていた。
しかし、意を決し彼を追い走り出すまでにあまり時間はかからなかった。
少し、もう少しだけお待ちください。
伝える言葉がまだ数え切れないほど残っているのに。
他の誰でもない、ただ貴方の目に映して欲しかったのに。

しかし外に出た瞬間、私は思わず立ち止まってしまった。
彼の姿がどこにも見当たらなかったからだ。ただ、その画布の中と同じ青い夜だけが広がるのみだった。
伸ばした手は行き先を失ってしまった。
秋の夜風が髪の毛を乱す。
そして、その瞬間に察してしまった。
きっと彼はこれから一生、私の前に現れることはないのだということを。
そして私はこれから一生、絵を描き続けていくしかないのだということを。
二度と見つけることのできない場所に沈んだ、深い夢に生きた記憶だけを頼りに。

伸ばした手はぽとりと力無く垂れ落ちた。叶わぬ願いと共に。
この青い夜に足した一滴の雫を、最後まで彼が知ることのない、私だけの秘密として残したまま。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい
  • オリジナルライセンス

底が見えない青い夜に

ルビスコと申します。2作目です。

日本語の添削 : おうりんさん
https://twitter.com/ouringo_ngo
この場をお借りして感謝申し上げます。


●本作はボカロPの夕様(https://tatatabun.tumblr.com/)の楽曲「想の深浅」「情の濃淡」からモチーフをとって書いた二次創作です。原作者様とは一切関係ありません。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm31826637
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32045389
●この小説はフィクションです。実際する人物や作品などとは一切関係ありません。
●近親CP(異母兄妹)の表現がありますのでご注意ください。

閲覧数:105

投稿日:2022/12/11 23:40:12

文字数:5,885文字

カテゴリ:小説

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