深夜遅くの、とある仕事帰りの事。
玄関を恐る恐る開けて、寝室にゆっくり足を遣ろうとすると、彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。
すでに眠っているだろうと思っていたボクを尻目に、ベッドに横たわったままの彼女は眠るどころか、寝そべった状態で悲痛のあまり泣いていたのだった。
「…どうしたの?」
キミの隣から小さな声で尋ねると、思いがけない返答だった。
「!」
ボクは戸惑いながらも、肩を寄せて泣き止んでもらおうと大丈夫だよ、と声をかけ続けた。
「…」
「もういいよ、何も言わなくていいから」
突然の悲報でしかなかったものの、彼女にしたら辛く悲しいものだった。
望まれない理由があるからと言って、奪いもぎ取られた一つの尊い命。
子供が親に、何をしたというのだろう。
親が子供をそうする権利が、何処にあるのだろう。子供が産まれてくる直前に、親が殺めてしまうなんて。
生きるために産まれてこようとした。
ただ、それだけなのに。
大人の事情だからとか、産まれてこられると厄介だからとか。そんなの全部、親の勝手な自業自得のくせに。
産まれてきたら産まれてきたで、酷い育て方をする人も少なからずいる世の中で、そんな事が繰り返し続いている現実。
まるで子供が子供を産んで育ててるような今の世の中は、きっとどうかしてるんだ。
結婚という責任から逃れたいとか言って、子供が嫌いだと偏食の口実のような言い訳をしたり。社会に適用出来ないからと、環境のせいにしてみたり。恋愛出来ないと男嫌いを主張して、自分の殻に閉じこもっては自ら狭い生き方をしていたり。
そんならしくない事を平気な顔して、時代のせいにばかりしてる人が多い気がする。
もっと人間臭さをぶつけ合って意気投合して、互いの大切さを身体を張って生きていく事が当たり前だったはずなのに。今の世の中は個人が引きこもったり、妄想に明け暮れたり、ひがみや嫉みを抱えては堕落し、そんな悩みやストレスを人に打ち明ける事もしなかったり。
夢やお金なんていう欲が周りに転がっていない事を幸せじゃないって勝手に決めつけるから、元々弱く作られている人間までが、心からもっと弱くなっていってしまうんだ。
人は心から弱まり続けると、自らを傷つけてしまい他人をも傷つけてしまう。弱いくせに狂暴だったり、泣きわめいてくじけたり、淋しくて人惜しんだり、辛くなって絶望したり。
それなりに生きている誇らしさを心でカバー出来る人になろうと、懸命に生きていくべきだと思う。
どうして世の中の人たちは皆、快楽ばかりに翻弄されて、大切なものから目を背けようとするのだろう。
「お腹の中に生まれようとしてきた子供は、お腹から何処に向かうか知ってる?」
「堕ろした後って事?」
彼女は頷いた。
「そこは天国でも地獄でもない、もっと身近な場所なの」
「…」
ボクは固唾を呑んで、彼女の話を聞いていた。
「この子はあの人の子供だから、あの人の元に帰るの。あの人の元に生まれてくる子供に、再び生まれてくるためにね」
「…アイツなんか、死んでしまえばいいんだ」
ボクは、彼女と知り合う前に付き合っていた元彼のアイツを強く酷く憎んでいた。
アイツの遊び心のために、彼女のお腹に子供が出来てしまった。それをアイツは簡単に堕ろせばいいと彼女に詰め寄り、二人は結果別れる事になった。
「彼の元に生まれてくる子供が不幸になるだけの事。望まれなかった子供たちは、皆きっかけを作った男たちの元へ向かうの。ただ、復讐のためにね」
とは言え、彼女の身体は傷つき、心にまで深い傷を負ってしまっている。
「でもだからって、女ばっかりがどうしてこんな目に遭うの?そんなの酷いよっ…」
ボクは、嘆き苦しむ彼女を強く抱えた。
「私、傷モノになっちゃったね?いつからか、心から素直に笑えなくなっちゃった…」
彼女は強がっては堪えきれずに、そっと涙を浮かべていた。
「由利は頑張ったんだよ?こんな辛くて酷い状況でも、正しい選択判断をしてくれた。だから、これからはもっとずっと幸せになれるはずなんだよ」
悲しい事が続けば続くほど、その分他の人たちに優しくなれるはず。ボクは彼女にそう伝えたかった。
「私の初めての大切な赤ちゃんを、私の手で殺めてしまったの。そんな事、私…堪えられない、堪えられないよっ!」
望まれない子供は、今でも世の中に溢れて止まない。そんな事ばかり繰り返しているから、世の中はきっと報われないんだ。
「この世に生きる動物たちの中で、人は唯一欲に塗れた存在。その欲を制御できずに避妊を求め快楽を共にする。正しい事をどうして避けてまで行わずに、そこにただ咲いている花のように生きられないの?どうして…」
彼女は一心不乱になりながらも、冷静さを装おうと必死だった。
「…正しいと思う心を、何処かに置いてきてしまったんだ。忘れるようなものではないそれを、人は自分を見失う度に正しいと思う力を置き去りにしてしまうんだ」
それは、らしくないと彼女は続けた。
「世の中の皆、ぽっかり空いた芯のない心を偲ぶように抱えて、怯えるように生きている人たちばかりなのね。置いてきてしまった事さえも忘れて、正しい方向さえも見極められずに、ただあやふやに生きているだけなんて」
「…だからさ、正しい事をしよう」
ボクは単に、彼女の涙を拭いたいだけだった。
「正しい、事?」
彼女もまた、それを何処かに置いてきてしまったんだ。
「なあ、由利。今の自分とボクとでは、どっちが好き?」
「え…」
正しい事。それはまず、単純に感じる物事や事柄を再認識する事から始めるんだ。
「どっちも、好きだよ」
ボクは少し微笑んだ。
「うん。じゃあ由利は、今のこの二人は今後どうなっていけば良いと思う?」
「どうって…そりゃあ、ずっと啓と一緒にいたいと思ってるよ」
彼女は次第に、いつもの表情に戻っていた。
「ありがとう。じゃあ、今すぐ結婚しよう。ボクも由利と同じ事を頭の中で浮かべてみたけど、全く一緒だったんだ」
彼女は戸惑いながらも、言葉を詰まらせていた。
「…単純な所でね、何を思うかなんだ。それが結果、正しい事に繋がるからさ。一旦心のフィルターを通して物事を考えてしまうと、大概二通り以上の考え方を生み、妥協の中でその決断を常に迫ってしまう。そんなのは正しい事じゃない。もっともっとシンプルに感情的に、喜怒哀楽に身を任せてみたらいいんだよ」
「ありがとう、啓。結婚や恋愛は多少は勢いだって聞いた事あるけど、そういう事かもしれないね?」
「悩みの果てに待つ答えは、どちらを選んでも妥協を含んでいるからね。とりあえずそれを取り除かなきゃ」
唐突なまでの、プロポーズ。それが単純に、正しいと思ったから。
「…でも、こんな私で、本当にいいの?」
ボクは続けた。
「こっちこそ。こんなボクで、いいんですか?」
ボクがそうとぼけると、彼女は吹き出して笑った。
「傷モノな私を、幸せにしてくれますか?」
「もし、傷のないキミだったら、多分こんなには好きになってないと思うよ」
「…優しいんだね」
ボクは首を振って言った。
「全然優しくなんかないよ。だってこれからのキミを、もっともっと傷つけてしまうから」
彼女の涙は、いつしか止まっていた。
「酷い…」
「酷くていいんだ。ボクも同じなんだよ?キミと同じ傷を受けて、仲良く歩んでいくんだからさ」
「ふふっ」
二人は今日初めて、声を上げて笑った。
「そのワンピースの色さ、全然似合ってないから、他の色にしなよ」
「え、そんな。啓だって、その帽子何か変だよ?」
そうそう。そういう感じで、互いに言い争っていこう。そこには仲を深めるスパイスが、ふんだんに盛り込まれているからね。
「あれ、啓。そのストラップ、何?」
「ああ、これ?知り合いから貰ったんだよ」
「知り合い?こんな可愛い柄のを?私の知らない間に、他の女の子から貰ったんでしょ?」
二人はようやくスタートラインに立てた頃なのかもしれない、と。
「あー、傷ついた!」
「いや、だからさ。本当に知り合いだってば!」
ハートに、リボンに、そんなチャーミングなストラップ。
それ以上に大切でキラキラしたものを、もう一つね。右の手の中に、そっと包み隠すように。
ずっとずっと、握りしめたまま。
「由利。結…しよう」
「え?」
彼女はあえて、笑っているようにも思えた。
「いや、だからさ…」
もう少し。あと少し。
すべては、キミへのサプライズのためにね。
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