「約120秒で、あなたは海面に衝突します」
「意外と短いんですね」
「どう感じるかは様々です。でも、長いと感じる方が多いようです」
「みな、さっさと死にたいんでしょうか」
「どうでしょう。こんな死に方を選ぶくらいですから」
女は楽しげに息をつく。
「楽しそうですね」
「そう見えますか?」
「見えますね」
「まあ、好きな仕事なので」
「え? 人の死を見るのが?」
「ええ。特に、今回のご依頼では」
「何か特別なことでも?」
人の死、なんてものは彼女にとって見慣れたものだろう。いや、彼女のような職柄に関わらず、最早この世界で人の死を見たことがないという人間は居ないはずだ。死は特別なものでは無く、ありふれた日常に偏在する現象、例えば道端の花。或いは挨拶のようなもので、例えばテキストに明記された礼儀作法だ。或いは義務であり、生まれた時から全人類にマニュアルが渡されている。
そんな死を好きだという彼女は、まるで別の世界から来た人間のように僕の目に映った。少なくとも僕は死が楽しいと思ったことは無い。道端に咲く花を綺麗だと言うことはあっても、道端に花が咲いていることが楽しいなんて思わない。
正装に身を包んだその女は微笑む。
「私、この死に方が一番好きなんです。美しく気高く、愛にあふれている。これを選ぶ人には、最後に穏やかな心持ちで死んでほしい。この死に方で良かったと思ってもらいたい。まあ、死んだら何も思えないのですけど」
「生きがいってやつですかね」
「その通り」
「僕にはわかりません」
人の死を見るのが好きとか、この死に方が好きとか、死に方に美や愛があるなんて感覚は僕には理解できない。死なんてものは、ただの言葉。言葉で表されるすべてのものは、この世界に存在しないものだ。
美しい死に方に関する本なら何度か読んだことがある。人気のジャンルだったから、書店で並べられていたものを読んだ。最新技術を用いた死もあった。古代の思想を再現した、伝統的な死に方もあった。どんな死に方にするか、周りの人間は話したがった。それは今日の天気や昨日の夕食と同じくらい、どうでもいい話題。「そんなの、どうでもいいよ」と僕が言うと、人間たちは異物を見るような目をしながら、哀れむような顔をしながら、その話題をまくしたてる。命の重要さを説く。死の美しさを語る。
本当に、救えない世界。
「私も最後は、ここから死のうと思っています」
女はうっとりしながら前席の方を向いた。窓を見たのだ。わずかに見える外界には、薄い青色が張り付いていた。
「時間です。風も少なく気温も良好。100%死にますのでご安心ください。」
「はい」
「ドアの前へ。サインが出た後に、自分のタイミングで降りてください」
誘導に従い、ドア横の手すりに掴まった。物々しいゴーグルを被った男が側に待機していた。彼が合図をするのだろう。この男も、人の死を見るのが好きなのだろうか?
乱暴な機械音とともに扉が開くと、低い轟音が強まり、冷風が肌を一度叩いた。四角の向こうには雲の層と、地球の丸みが見える。身に纏うのは滑らかなゴーグルと、細いベルトで剥がれないようにした普段着だけ。命を守る為の一切のものは持たない。当然だ。僕は死ぬためにここにいるのだから。
ヘルメットの男がサインを示し、外を指した。僕は少し笑った。
―――遠くを見る。
下方に青があった。濃紺と深青が波立ち、どこまでも落ちていけるような色合いだ。金属の床を越えて巨大な青の方へ、確かな引力を感じた。なぜ星は、僕たちは、何もかもひとつになりたがるんだろう?
緩やかな弧の地平線が光を迎えていた。陽光が遠くの海を輝かせ、大陸の煤けた色を鮮やかに映している。もうあの大地に二本の足で立つことはないのだと、僕は、今更のように気づいた。
口に含んでいた錠剤を飲み込み、立ち上がった。
小さく息を吐く。手のひらをゆるく開く。
普段となにも変わらない。寝起きにベッドから降りるのと、同じ気持ちで。
青く広大な星の方へ、僕は身体を傾けた。
―――――――――――――――――――――――――――
その時代を誰かが"人間の夜"と名付けた。
自殺が許され、推奨され、命令された時代。
誰もが恐れ、しかし誰もが望んだことが、現実に成った。
―――20秒くらい経っただろうか。
飛び降りてしばらくは、反射で体が竦んだままだった。風の抵抗と浮遊感を把握したところで、僕は目を開けた。
「ほら、また、70億分の1グラムだけ、地球が重くなった。」
その人は植物が好きだった。芽が出たり、花が咲く度に、そんなことを言っていた。
「いま、また、70億分の1グラムだけ、地球が軽くなった。」
そして花が枯れ、葉が落ちる度に、そんなことを言っていた。
なぜそんなことを、今思い出すのだろう?
生きている間、どれだけ暇があっても、どれだけのきっかけがあっても思い出すことはなかった。
走馬灯ってやつか。面白いかもしれない。
僕は笑った。
今、こんなに忙しいのに。
ちゃんと死ねるか不安で。
生き延びてしまわないか心配で。
どうしようもないこんな時に、呑気な話を思い出している。
「"世界が100人の村だったら"って知ってる?」
「何かの標語かい」
「ずっと昔に書かれた本だよ。世界がもし100人の村だったら、お金持ちは何人、貧乏人は何人、とか、そういったことを延々と書いてあるだけの」
「へえ、くだらないね」
「言うと思った」
「期待されてると思った」
「言い合いっこ、キリが無いよ」
「ああ」
僕は頷いた。あの時も確か、僕は笑っていたのだと思う。
「私は度々、その本と逆のことを考えるんだ」
「逆のこと?」
「たった100人の"村"だったら、うまくやっていけるに決まってるよね。それは相対的に世界が広いからなんだ。もしそこが100人しか住めない"星"なら、同じように平和に過ごせるかといったら、違ったんじゃない。だったら『逆』に、この現実で、もし世界があと十倍や百倍くらい広かったら、70億人でも余裕でいられたかな。70億人の人間が、最善とは言えなくても、"なんとか"生きていける世界になっていたのかな。そんなことをね、思ったりする」
「…どうだろね。広ければそのぶん、また増えるだけじゃないか。どこまでいっても人間は同じさ」
「それがふつうの考えだよね。比率の問題じゃないって、誰でも同じように言うと思う。でも」
―――――――――――――――――――――――――――
50秒くらい経っただろうか。
人間は増殖することを止めず、愚かであることも止めず、新しい住処を得る為の技術も失い、どこに逃げることもできないまま、この星で溢れ腐っていく運命にあった。
賢くて希望的な人間は死に、馬鹿でどうしようもなく絶望的な大人だけが蔓延った。
僕や"その人"、"その人"の仲間が生まれたのはそんな時代。21歳の人間は30歳までに死に、19歳の人間は20歳になるまえに死ぬことが義務付けられていた。だから僕たちは10歳で死ぬはずだった。
その人が所属する組織は懸命に抗議したのだという。粘り強く働きかけたらしい。若いメンバーを中心に、どうにかして腐った世界を変えようとしていたのだ。僕には、どうでもいいことだったけれど。だから僕や同年代の人間は、少なくとも20歳までは生きられた。その権利を勝ち取ったのだ。10歳で死ぬものと思い込んでいた僕には、彼らのやっていることは間違っていると感じた。
それでもその人とは、よく話した。
その人は組織の重要な位置にいたけれど、考え方は組織のものとはまるで違っていた。それは僕が散々"教育"されてきた思想とも、あらゆる本で読んだ思想とも違う異質なものだった。その人がするのは、聞いてみれば下らない、それでも考えれば考えるほど世界の底が明らかになっていくような話ばかり。話す度に僕は異世界を旅しているような気分になり、自分の思考回路が組み替えられていく快感に襲われ、もっとその人の話を聞きたいと思うようになった。
そんな恐ろしい人だから、それなりの地位に付いて、それなりの力を得たのだろう。
ただ盲目的に、その人と関わるためだけに僕はその組織の一員となった。僕は組織の中で、その人の話を聴き続けた。
数年。
僕は20歳になっても死ななかった。
「ここにあるのは0グラム。塩からい目じゃなきゃ見えないものだよ」
いつしか彼女は僕にしか話しかけなくなっていた。その言葉は言語表現の域を出て、おかしな詩か、さもなければ狂人の言動にも捉えられるまでに至った。それでも僕は聴き続けたし、理解した。穏やかな言葉によって漏れ出している彼女の精神世界は激流で、僕はその中を泳ぐことができた。僕から彼女に伝えられる言葉は、ほんの僅かなものだったけれど。僕はそれで十分だった。
彼女が追い求めていたのは究極の精神だった。僕たちはそれを"透明"と名づけた。世界中を周り宗教と思想を学び、大勢から哲学を学びながら、そのどれとも共通しない最後の異質、空白の部屋をせめて人の内に宿すことが僕たちの使命となった。
何年も、僕たちは逃げた。逃げながら、いつか使命を果たせると思った。
僕は笑っていた。
「ほら、また、70億分の1グラムだけ、地球が重くなった」
ある日、優しい声がした。僕はコーヒーを飲んでいた。窓際で陽を浴びる彼女に目を向けると、彼女はいつもの顔で、いつもの目で自分の膨らんだ腹を撫でていた。柔らかく、なぞるように。
何でもない一言。どうでもいい会話。僕は微笑んでやることにした。立ち上がり、彼女の元まで歩く。
逆光に目が慣れる。長い前髪を指で寄せて、頬に手を添えた。
ああそうか、と僕は呟いた。
それは彼女に向けた言葉ではなく、ただの独り言。
脳の何処かが発した信号だった。やっぱりな。
僕は瞬時に悟った。
こんな所まで来て、ようやく解るなんて。
最愛の彼女の顔。
それは植物に水をやる時と同じ顔。
植物を見る時と同じ目。
植物を撫でる時と同じ軌道。
彼女にとって、全ては植物と等価だった。
立ち竦む僕を見た。その目すら、植物を見る目と同じだった。
彼女は笑っていなかった。その時初めて、僕は彼女の笑顔を見たことがないと知った。
そしてある日、彼女は子供ごと、僕の目の前から消えてしまった。
僕が自分の失敗に気づいたのは、その瞬間から。それまできっと、それが失敗だとは思っていなかったのだ。どこかでズレを感じながら、違和感を覚えていても、何とか正当化して誤魔化していた。僕は自分を信じ始めてしまった。その事実を自覚してはいたけれど、それが失敗だったなんて、その時になるまで解らなかったんだ。
―――――――――――――――――――――――――――
70秒くらい経っただろうか。
僕はヒーローなんて大嫌いだった。それでも、どうしようもない世界を救おうなんて、どこかで思ってしまっていた。いつの間にか、この世界を好きになっている僕がいた。君が「でも」の先に言おうとしたことは、ずっとその答えなのだと。終わりかけた世界だったからこそ、透明なゼロから始められると思っていた。
それらが僕の中で、矛盾することを止めてしまった。
世界を救う理由が絶望でない僕は君にとって、植物になってしまったんだ。
だとしても。
どれだけ汚されても、どれだけ壊されても、決して生きることを見捨てなかった君が、どうして今更、死んでしまったんだろう?
君は死ぬ前に"透明"を達成してしまったのか?
それとも、あれだけ生きておいて結局、自殺こそが"透明"への道だったとでも言うのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
だとしたらそれは、今の人間たちと同じ、辿り着いてはいけなかった結論だ。
君が何も言わないまま死んだせいで、君が僕にとって、誰よりも透き通った存在のまま死んでしまったせいで、僕は"透明"のためなんかじゃなく、君のために生きていたんだって事に、あまりにも手遅れに、気づいてしまったじゃないか。
黙って去ってくれればよかった。
それだけで僕は気づけたはずだ。
どうして捨ててくれなかった?
以前の君なら、何の躊躇もなかったはずなのに―――。
100秒くらい経っただろうか。
僕はまた空を、その先の宇宙を見た。
ああ、どうしてうまくいかないんだろうな。
この世界はどこまでも透き通っていて、
どこまでも残酷で、
どこまでも美しいのに。
僕たちは朝を履き違え、
何かを間違えたまま、
ズレながら、
濁りながら、
執着し、
変化していく。
ただ僕は、僕たちは、この世界が許せなかった。
ただそこに在るだけで、すべてがうまくいくような、
輝かしい景色が、
蒼が、
重力が、
光が許せなかった。
ああ、もう一度、"この世界"へ還るんだ。
精神も肉体も、意志も記憶も捨て去ろう。
感情も演技もなく、妥協も努力もなく、
愛も憎しみもなく、醜悪も美徳もなく、
寒暖も基準も利害も善悪もない、
ただ、そこにあるままの、透明な存在へと―――
「汚濁の中に一滴の透明を、混沌の内に白い傷跡を、それだけの為に僕は生きたと、そう思っていた。
この世の透明は人間という存在に憧れることがあるだろうか?
ないはずだ。透明には憧れさえない。
しかし、だとしたら、どうしてこの透明の世界に、人間というものが生まれたのだろう?」
その人が考えていたことは、「でも」の後に言いたかったのは、多分、その答えだ。言ってしまえば、その先に何かがあるとか、未来がどうとか、そういった類の結論と変わらない。くだらないと思う。それでも、死を選択したのは締念じゃなかったはずだ。
きっと。
彼女は飛んでいった。
落ちていくだけの僕とは、ちょっと違っていたらしい。
僕はまた空を、
その向こうの宇宙を見た。
―――故郷へ帰ろう。
気が向くまで、そこにいればいいさ。
120秒。
地球が優しく、僕を受け止めた。
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