注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 リンの継母、カエさんの視点で、本編第七十七話【水晶の心が砕ける時】、及び外伝三十【一歩踏み出す時】のサイドエピソードとなります。
 従って、それまでの話を読んでから、お読みください。


 【そして終わりの幕を引こう】


 高校生の時、リンは同級生の男の子に恋をした。リンがその男の子とつきあっていることを知った夫は激怒し、学校に怒鳴り込みに行った。そいつを辞めさせてやるといきまいて。
 夫の嫌がらせにうんざりしたのか、相手の男の子は学校を辞め、母親に連れられて外国に行ってしまった。夫は満足気だったが、私は割り切れなかった。やっと、リンがまた笑えるようになっていたのに……。
 リンはまた元気がなくなり、沈み込んでしまった。学校には普通に通っていたけれど、リンが平静でいたとは思えなかった。
 ……私は、何もできなかった。できたのはせいぜい、リンを元気づけようと、好きなものを作ってあげるぐらいで。どうして、私はこうも無力なのだろうか。


 リンが恋人を作ったことで、夫はリンを見放した。見放したというか、期待しなくなったというか。それまでしつこく、自分の母校に進学しろと言っていたのに、今度は「どうせお前なんか、受かるはずがない」と言い出した。リンも嫌気がさしたのか、幼馴染のミクちゃんと同じ大学を受けると言い出した。夫はあれだけリンを傷つける発言を口にしていたのに、リンが違う大学への進学を決めてしまうと、また「期待を裏切られた」という表情になった。一体、何がしたいのだろう。
 リンはそういったことに傷ついているようだったけど、それでも自分の行きたい方向に進もうと決めた。願書を提出し、試験を受けて、合格した。合格通知が届いた日、私はリンと二人で合格を祝った。
 リンが高校を卒業し、文学部の英文科に進学した。「十九世紀のイギリス文学を専攻したいの」と、リンは真剣な表情で言った。そう言えば、リンが小学生ぐらいの頃、熱心に読んでいたのは、その時代の人が書いた童話だった。リンは真面目に勉強に励み、成績はいつも良かった。
 私は普段どおりの生活を送っていた。家の中を切り盛りし、食事を作り、お菓子を作った。新しいレシピの本も出した。出版社から入った印税は、三分割して娘たちの名義で貯金した。
 リンが大学に入学してすぐ、長女のルカが婚約者のガクトさんと結婚した。ルカは結局、式に関する希望を何一つ口にしなかったので、式場やドレス、ブーケといったことは全部、私が決めてしまった。それがいいとは思えなかったが、ルカに言っても「忙しいの」の一点張りでは、手の打ちようがない。
 結婚したルカは、マンションを借りて、そちらに移り住むことになった。ガクトさんが、しばらくは二人きりで新婚生活を楽しみたいと言ったからだ。向こうのご両親の口ぞえもあり、その希望は通った。
 式の最中もルカはいつもどおりで、私は強い不安を憶えた。こんなろくでもない結婚をしてしまった私が、言っていいことではないのかもしれない。でも、自分の結婚式自体を、他人事のように眺めているルカは、本当に大丈夫なのだろうか。私は、ルカを送り出していいのだろうか。いや、何年かしたらこの家に戻っては来るのだろうけれど……。
 私は、何も言えなかった。ルカに、今までまとめてきたアルバムと、ルカの名義で積み立てておいた口座の通帳を渡す。それだけが、私にできたことだった。


 リンは大学二年生になり、二十歳の誕生日を迎え、成人式も済ませた。これから先、どうするのだろう。夫はリンが恋人を作るまでは、リンが大学を卒業したら、すぐにどこかに嫁がせる気でいた。だがあれ以来、リンの将来に対して興味を失ってしまっており、リンについて口を出すことは少なくなっていた。
 夫は大きな会社を経営しているから、本社なり、系列の企業なり、望めば就職の口はあるだろう。だが、父親の影響の及ぶところでは、リンのためにならないような気がする。
 リンは文章を書いたり、英文を訳したりすることに興味を持っている。レシピの本を出した関係で、私は出版社に多少のコネがあった。リンを使ってもらえるよう、交渉することはできないだろうか。
 だが、私が計画を行動に移す前に、事態は思ってもみない方向へと向かった。そろそろ大学の後期学期が終わるという頃、夫が突然リンに縁談を持ち込んできたのだ。政治家の息子で、夫曰く「願ってもない良縁」とのこと。だが、向こうはリンより十歳も年上だ。それに何より、リンと結婚することでできる、繋がりやら何やらを重視しての縁談ということは、火を見るより明らかだった。しかも、夫はリンの過去の恋愛のことまで喋ってしまったという。それでいいと言われたということは、おそらく、トラブルを起こした娘をもらうことで上位に立とうとしているということのはずだ。どうしてこれが良縁なのだろうか。
 リンは夫が持ち込んできた縁談を嫌がった。だがそのせいか、夫は週末に勝手に相手を呼び寄せて、リンと会わせた。会ったところで、リンの感情が変わるはずもない。リンはきっぱり結婚しないと告げてしまった。その後で部屋から出てきた夫は、一目ではっきりわかるほど苛立っていた。
「全く、リンは何を考えているんだ。願ってもない好機なんだぞ」
「あなた、リンはまだ二十歳よ。結婚なんて考えられないの。今回は縁がなかったということで……」
「リンにいつ縁があるというのだ!? これを逃したら、一生行き遅れるかもしれないだぞ! ただでさえハクという不良物件を抱えてるのに、これ以上不良物件を増やせるか」
 私が夫の言い様に唖然としていると、夫は私のことになど構わず、言葉を続けた。
「今日、夕食はソウイチさんもご一緒するから、きちんとした支度をしておけ。いつもの家庭料理みたいなのを出すんじゃないぞ。これは命令だからな」
 夫は応接室に戻ってしまった。……リンの見合い相手のソウイチさんとやらの相手をするらしい。いっそ私と離婚して、自分が結婚したらいいのではないだろうか。
 苛立ちを感じながら、私はキッチンへと向かった。冷蔵庫には何が入っていただろうか。幸い、まだ夕食の買出しはしていないから、ひとっ走り高級食材店まで行けばいいだろう。私は何を作ればいいかを考えながら、運転手さんを呼んだ。


 夕食の雰囲気は、いいものとは言えなかった。リンは全身から拒絶の雰囲気を漂わせていたし、話しかけられても、気のない返事しかしない。リンの気持ちはわかるものの、夫とソウイチさんの機嫌がどんどん悪くなっていくので、私はハラハラした。
 食事が終わると、リンは「勉強がある」と言って、さっさと食堂を出て行ってしまった。夫が食事中に怒鳴りださなかったことに安堵しながら、食器を片付ける。夫はソウイチさんに「場所を変えて飲もう」と誘っていた。応接室を使うということだろう。後でつまみになるようなものを持って行かなければ。
 お手伝いさんに洗い物をしてもらう傍ら、私は簡単な酒肴の準備をした。お盆に乗せて応接室まで持って行くと、既に夫はかなり酔っていた。つまみの乗った盆をテーブルに置くと、酔眼でこっちを見る。
「ああ……つまみか。まあ、どうぞ」
 夫に薦められて、ソウイチさんとやらがつまみに手をつける。……私はしばらくその場に立っていたけれど、二人とも私には何も言わないので、「それでは」とだけ言って部屋を出た。
 空のお盆を抱えてキッチンに戻る。お手伝いさんが、まだ後片付けをしていた。私はキッチンの椅子に座って、ぼんやりと物思いに耽った。下手をすると、ソウイチさんとやらは泊まりになるかもしれない。その可能性があるのなら、先に示唆しておいて欲しかったのだが。……夫に期待するだけ無駄か。私はお手伝いさんの一人を呼んで、客室の一つをざっと片付けて、寝られるようにしておくよう言った。
 やがてキッチンの片付けが終わり、お手伝いさんたちは引き上げてしまった。私も自分の部屋に引き上げようかと思ったが、そうする気にもなれない。キッチンの椅子に座ったまま、私は無為に時間を過ごしていた。
 どれだけ、そうしていただろうか。いつの間にか、私はうとうとしていた。こんなところで寝るのはよくない……そう思いながらも、動けなかった。
 その時、かすかに悲鳴のような声が聞こえた。そして、何かが倒れるような音。私ははっとなって起き上がった。あれは……リンの声だ。まさか!
 私は慌てて跳ね起きると、咄嗟にシンクの脇に置いてあるケースから包丁を一本引き抜いた。それを片手に、廊下を走って階段を駆け上がる。
「リン!」
 リンの部屋に、リンはいなかった。ソウイチさんが、目を抑えてうずくまっているだけで。私はせわしなく部屋を見回したが、リンの姿はどこにもいない。
 私は一瞬、手にした包丁で目の前の男を刺してしまおうかと思った。部屋の惨状を見れば、この人が何をしようとしたかぐらい察しがつく。もし、この部屋にリンがいて、ソウイチさんに組み敷かれているところだったら、私はためらわずに刺してしまっただろう。
 でも今はこの人より、リンの安否が気にかかる。一体、リンはどこへ行ってしまったのだ? 私は部屋を出て、リンの名を呼んだ。
「リン、何があったの!? どこにいるの?」
 何とか逃げ出して、家のどこかに隠れているのだろうか。それなら、早く安全なところに避難させないと。きっと怯えている。私はリンの名を呼び続けた。しばらくして。
「お母さん!」
 リンの声がした。私はそっちを見た。声が聞こえたのは、リンの部屋の隣の部屋。引きこもっている、姉のハクの部屋だ。
「リン!? 無事なのね!?」
「うん。ハク姉さんの部屋にいるの……」
 リンの声は震えていた。私は安堵のあまり、廊下にへたり込んだ。手から包丁が落ちる。リンは無事だったのだ。
「言っとくけど、安全が確保されるまでリンは外に出さないわよ! あいつ、リンを襲ったんだから!」
 リンの声を遮るように、ハクの声がした。私は、思わず息を呑んだ。……ハクが、リンを助けてくれたのか。ずっと引きこもっていて、ここ数年、ろくに話もできなかったハクが……。
「だから、警察が来るまで外には出ない!」
 ハクが言葉を続ける。警察……そうだ、そのことをすっかり忘れていた。
「……警察は呼んだの?」
「ええ、じきに来ると思うわ」
 返事をしたのはハクだった。
「そう……わかったわ」
 警察が来るのなら、私は一階に下りた方がいいだろう。私は廊下に落ちていた包丁を拾い上げ、立ち上がった。
「……ハク」
「なによ!?」
「リンを助けてくれて、ありがとう」
 リンに何かあったらと思うと、それだけで恐怖でいっぱいになってしまう。リンが無事で、良かった。そしてハク。引きこもってはいても、ちゃんと妹のことを気にかけてくれていたのだ。夫が何と言おうと、ハクは不良物件なんかじゃない。
 一階に下りて、包丁をキッチンのあるべき場所に戻した後、私は応接室を覗いてみた。夫が一人で、ソファの上でだらしなく鼾をかいている。寝室に運ばせるべきだろうが、そんな気にはなれない。毛布だけかけておくことにした。
 やがて警察が来たので、私は事情を話した。夫が連れてきた客が、酔った勢いで娘を襲ったこと。娘は何とか逃げ延びたことを。まだリンの部屋で呻いていたソウイチさんは、連行されることとなった。警察の人が大丈夫だと言ったので、リンとハクも部屋から出てくる。
 リンは衣服を引き裂かれ、顔には派手に痣を作っていた。私は呆然としながらも、リンを抱きしめようとする。その時、リンが悲鳴をあげた。肩が痛むという。外れたか、折れたかしてしまったようだ。
 病院までハクと共に送ってもらい、リンは怪我の治療を受けた。その後は警察で調書を取られた後、帰宅する。ハクがソウイチさんを殴って催涙スプレーを浴びせた件は、正当防衛と受け取ってもらえたようだ。
 帰宅したリンは、ハクと一緒にお風呂に入った。今夜はリンを自分の部屋で寝かせるとハクが言ってくれたので、お風呂に入っている間に、ベッドのシーツを交換して、予備の枕を出しておく。リンの部屋のシーツも交換させた。……血が付いている。もう、これは捨ててしまおう。リンが今日着ていた服もだ。リンだって見たくないだろう、こんなものは。

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  • 非営利目的に限ります
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ロミオとシンデレラ 外伝その三十二【そして終わりの幕を引こう】前編

閲覧数:770

投稿日:2012/07/14 19:35:32

文字数:5,117文字

カテゴリ:小説

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