第一章 逃亡 パート8

 ミルドガルド帝国宮殿の正門を越えてまず始めに訪れる景色は、宮殿の最後の防衛線ともなる、日光すら遮るような濃い緑に包まれた原生林である。未だに舗装されていない、獣道のような曲がりくねった道であった。その道の移動距離はおよそ一キロ程度だろうか。更にこの森にはミルドガルド帝国軍の上層部しか認識していない洞窟や裏道が多数配置されており、仮に敵軍が宮殿に迫ったとしても瞬時に伏兵と罠の宝庫になる、敵軍にとっては悪夢としか思えないような戦場となるように設計されているのである。
その獣道を越えると、静寂に包まれた気配は唐突に変化する。獣道から一本道に続いているのは喧騒と熱気に溢れた帝都城下町のメインストリートであった。帝都はかねてより都市計画が無いままに建設された無秩序な街という評価はされていたが、近年は無秩序という粋を越えて混沌とした街並みへと変貌している。理由は単純で、ミルドガルド帝国の成立より帝都への人口流入が加速する結果となり、その規模を四年前に比べて二倍程度に増加させているためであった。その結果、今やどこまでの範囲が帝都なのか、そして一体どれほどの人口が帝都に住まいを構えているのかを把握することすら困難な状態になりつつあったのである。この問題を解決するためには新宮殿の設立と、新帝都の構築が必要であるということがカイトを始めとした文官達の統一した意見であった。だが、もし旧黄の国のアキテーヌ伯爵が存命していれば、カイトの無邪気な計画に対して大げさに眉をひそめることになっただろう。何しろ新宮殿の建設と新帝都の構築でミルドガルド帝国の国家予算の約半分をつぎ込もうという無理のある計画であったからだ。
その財政上極端な困難を伴いかねない新帝都の建設予定地は帝都のメインストリートと直結しているザルツブルグ街道を、西へ二十キロほど離れた平原にあった。今や帝都周辺の地域は次々と建設物が立てられており、今も尚帝都と表現すべき地区の規模は拡大し続けている。予算の有無はともかく、何らかの方策で帝都の都市計画を立てなければ統治上の問題すら起こりかねないという切迫した事情も確かに存在していたのである。
「到着致しました。」
 目的とする箇所に到達すると、テューリンゲンは先に歩むカイトとアクに向かってそう声をかけた。その声に反応するようにカイトは馬を止めると、隣を歩むアクに向かってこう言った。
 「どうだ、良い場所だろう。」
カイトのその声に反応するようにアクも自身が騎乗している馬の手綱を引き絞り、周囲の景色を探る。瞬時に考えたことは防衛上の懸念点であった。帯刀していなくても、自身の本分は戦か、とアクはなんとなく苦笑したい気分を味わいながら、アクは形ばかりカイトに向かって頷いて見せた。
「ここから周囲十キロ四方で城下町を作る。我が宮殿はその中央に聳える形になる。」
カイトはそう言いながら遥か遠方を指し示すように腕を伸ばした。そのまま、四角の形になるように腕で宮殿予定地の範囲を指し示してゆく。
「水は?」
カイトの腕の動きを眺めながら、アクはそう尋ねた。その言葉に対して、カイトは楽しげな笑顔を見せるとこうこう答えた。
「この周辺は地下水が豊富らしい。何度も調査させたが、そのたびに溢れんばかりの水が湧き出してきたよ。」
カイトに限って水の概念を失念することは無かったか、とアクは考えながらもう一度周囲の景色を視界に納めた。何も無い平原。そう、その場所には本当に何も無かった。ただ存在するものは一面の緑色と、その緑を分断するように続くザルツブルグ街道のみ。帝国軍は勿論、敵軍にとっても移動が簡易な地形であった。
「防衛は?」
続けて、アクはカイトに向かってそう尋ねた。その言葉にカイトはその質問を待ち構えていた様子で口元を僅かに緩めると、アクに向かってこう答える。
「城下町は堅牢な城壁で囲い込む。更に城下町と宮殿の間には二重の堀と内壁という備えだ。」
「堀の水はどこから引き込む?」
アクは続けてそう答えた。その問いに対して、カイトはやや南方に腕ごと指し示しながら、アクに向かってこう答えた。
「ここから約五キロ先にはイザール川がある。そこから引き込む。」
そのカイトの言葉にアクは理解を示すように一つ頷いた。イザール川はミルドガルド大陸を分断しているミルドガルド山脈をその水源とする、ミルドガルドでも有数の大河である。そのイザール川は遥か北方へと流れてゆき、ミルドガルド帝国の統治範囲を超えて北の氷河地帯へと向かい、最終的には北極海へと到達するとされている。その調査は未だに完了していない、長い流域を誇る川であった。
 「懸念は解決したか?」
 アクが頷いた様子を見ながら、カイトはアクに向かってそう訪ねた。その口ぶりの奥には、宮殿に攻め上がる者など存在しないという絶対的な自信が見え隠れしている。そう。カイトが考えている通り、今のミルドガルドに反抗勢力は存在しない。たとえ、リンであっても。アクは唐突にそう考えて、僅かに首を振った。リンの件は先ほど思考したではないか。リンが軍を編成するわけが無い。そんな力はもう、あの少女は持ち合わせていない。
 「どうした、アク?」
 カイトが不服そうにそう訊ねた。アクが何かを拒絶したようにカイトの瞳には映ったのかも知れない。アクはそう考えながら、カイトに向かってこう答えた。
 「何でもない。」
 アクのその言葉に、カイトは僅かに瞳を細めると、視線を遥か遠方に向けながらこう言った。
 「唯一懸念があるとすれば、西方に位置するルーシア王国だろう。」
 ルーシア王国。その単語にアクは僅かな反応を示した。近年その国力を急激に増大させたルーシア王国との国境は未だ設定されていない。現に二年前から数度、国境紛争が行われているのである。
 「テューリンゲン。」
 そこでカイトはアクとカイトの背後に控えていたテューリンゲンの名を呼んだ。その声にテューリンゲンが馬上から一礼する。そのテューリンゲンに向き直ったカイトは、続けてテューリンゲンに向かってこう言った。
 「国境警備隊隊長のザミュエルからの報告を今一度。」
 カイトがそう告げると、テューリンゲンは畏まった様子でこう答えた。
 「国境警備の増員必須とのことでございます。要望兵数は一万。」
 その言葉にカイトは一つ頷くと、アクに向かってこう言った。
 「昨日の報告だ。当面、オズイン将軍に一万を率いさせて国境警備に当てる。」
 その言葉にアクは慎重に頷いた。ルーシア王国は遊牧騎兵を中心とした強兵だと聞く。だが、その装備は前世代のものばかり。銃が主流であるミルドガルド帝国とは異なり、未だに弓矢に頼る軍だという。白兵戦ともなれば相当の苦戦を強いられるだろうが、ある程度の距離を置きながらの戦いならば敗北するわけが無い。アクがそう考えた時、カイトが僅かに重い口調で言葉を続けた。
 「夏に入るころに、ルーシア王国へ遠征する。」
 その言葉は、アクですら予想を超える言葉であった。ルーシア王国に遠征?この時期に、どうして。そう考えたアクの心理を見越すように、カイトは言葉を続けた。
 「理由は国境警備だけではない。オリエントとの陸上交易路の確保は我が帝国としても必須事項だ。海と陸。将来的にはオリエントとの貿易を我が帝国が独占することになるだろう。」
 「・・必要?」
 アクが懸念を示すようにそう答えた。ルーシア王国が支配するサハール地域の地理や風土風俗にミルドガルド帝国が詳しいとは必ずしも言えない。不毛の大地をただただ行軍することになれば、兵士は精神的に消耗し、やがて戦わずとも敗れることになるだろう。そう懸念してのアクの言葉に、カイトは酷く軽い調子でこう答えた。
 「地図なら既に貿易商経由で詳細な物を入手している。行軍経路も計算済みだ。それに、何もオリエントまで向かうという訳ではない。ルーシア王国の王都モスカーを占領すればそれで戦は終わる。モスカーまでの距離は国境から大よそ五百キロと言ったところだろう。」
 五百キロ。確かに距離とすればたいした距離でもない。帝都からゴールデンシティまでの距離とほぼ同じ距離ではあった。
 「街道は未整備の箇所が多いがね。」
 他に懸念することは無い、という口調でカイトはそう答えた。そして、言葉を続ける。
 「冬が訪れるまでには勝負が決まるだろう。現時点での試算では二ヶ月を想定している。」
 カイトがそう告げた時、一陣の風がアクとカイトの身体を包んだ。春先の緑の香りと共に、アクの長い髪が風に靡き、大きくはためく。その様子を楽しげに眺めながら、カイトは続けてこう言った。
 「この遠征で通商路を確保し、新宮殿設立の財源とするつもりだ。それから、この戦は親征とする。無論、アクにも同行してもらう。ルーシア王国の遊牧騎兵を打ち破るにはアクの剣が必要だからな。」
 そう言いながらカイトはアクの瞳を優しげな様子で眺めた。そのカイトの青みかかった瞳を見つめながら、結局、とアクは考えた。
 私に出来ることは、戦しかないのだろうか。
 その思考は、アクの心理を春先には似合わぬ程度に冷やしていった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ハーツストーリー ⑨

みのり「第九弾です!」
満「ルーシア王国について、補足説明しようか。」
みのり「えっと、皆さんにイメージしやすいように説明すると、ミルドガルド大陸は地球のヨーロッパに該当する地域なの。」
満「ルーシア王国は地球でいうところのロシアと中央アジアを合わせた様な地域だと思ってくれれば分かりやすいかな?」
みのり「現実の歴史ではその時ロシア帝国が存在していたのだけど。」
満「そう。1805年を西暦に直すと、ナポレオンがオーストリアと戦争して勝利した年に当たる。因みにその七年後、1812年は・・。」
みのり「ナポレオンのロシア遠征ね。」
満「その通り。1805年は西暦で言うとナポレオンの絶頂期ということだ。」
みのり「この後どうなるのかしら。」
満「それは作品を読んでのお楽しみ、だな。」
みのり「そうね。では、次回もよろしくお願いします!」

閲覧数:223

投稿日:2011/01/12 12:06:07

文字数:3,783文字

カテゴリ:小説

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