注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 外伝その四十八【嫉妬は愛の子供】外伝その四十九【悲しみと涙のうちに生まれ】のハク視点になります。
 よって、それまでのお話を読んでから、お読みください。


 【一握りの勇気】


 ……今更、どの面下げて、「お母さん」なんて呼んだらいいんだろう。
 リンと久しぶりに会った日、自宅まで帰りながら、あたしの頭の中にあったのは、そのことだけだった。
 姉さんと入れ替わりにカエさんのところを出た後、あたしはしばらく一人暮らしをしていた。で、その後、前からあたしのことが好きだと言ってくれていた、マイコ先生の従弟のアカイさんと、しばらくおつきあいをして。色々あって、結婚することになった。自分が結婚する日が来るなんて、全く思っていなかったんだけど、これが「巡りあわせ」という奴なのかもしれない。
 アカイさんとの結婚式は、オーソドックスにホテルの結婚式場であげた。式にはマイコ先生を含むアカイさんの親族――当然、メイコ先輩も一緒だ――と、会社の同僚が出席してくれた。あたしの方からは、カエさんと、リン、それから義弟のレン君だ。そしてアトリエの人たちも。
 姉さん? 当然、来なかった。義兄のガクトさんは来たけど、これはガクトさんが、アカイさんの先輩だから。
 ちなみにお父さんには、結婚することすら知らせていない。薄情だと思われそうだけど、正直、お父さんと顔をあわせるのなんて真っ平だ。ガクトさんはよく、平気でいられるなと思う。アカイさんにその話をしたら「逃げられたら困るからじゃない?」と言われてしまったけど、あのお父さんに、そんな感覚はないと思う。
 結婚しても、あたしは仕事を続けている。地方に行かなくてはならなかったメイコ先輩とは違い、アカイさんの職場は都内だ。あたしが仕事を辞める理由はない。マイコ先生のところの仕事、やりがいがあるし。
 若い頃は、こんな自分を想像することすらできなかった。まさか自分が就職して、結婚までするなんて。あたしは一生、みじめな人生を送るものだとばかり思っていたから。
 アカイさんとの結婚生活は、それなりにごたごたもあるけれど、平穏に続いている。たまに休日にお互いが飲みすぎて潰れちゃったりとか、そういう変なミスもあったりするけど、平穏って言っていいと思う。
 ……そうやって過ぎて行ったある日、突然舞いこんだ嫌な知らせ。それは、カエさんが癌になったというものだった。話を聞いた時、あたしは目の前が真っ暗になったかと思った。……カエさんが、癌。……もしかしてあたしが、たくさん心配をかけてしまったせいだろうか。小さい頃のあたしは、カエさんに反発して、逆らってばかりだった。カエさんの気持ちなんて考えもせず、一方的にカエさんのせいだって決め付けて。あたしが何かやらかすと、お父さんはいつも、カエさんに向かって「娘の躾もできないのか!」と怒鳴っていた。
 カエさんは、治療に積極的ではなかった。カエさんという人は、妙に消極的なところがある。ある意味、そういう人だから、あのお父さんのところで我慢できたのかもしれない。でも、治療に消極的になられるのは困る。
 一方で、姉さんが実家に戻ることになった。お父さんが、実家を姉さんに譲ってしまったのだ。なんか、再婚相手とゴタゴタと揉めた結果が、それらしい。姉さんは実家に戻ってガクトさんと一緒に暮らし、カエさんもそこで治療をすることになった。……いいんだろうか。でも、姉さんのところの方が、いい治療を受けられるかもしれない。
 そうして、姉さんのところでカエさんが暮らし始めたある日、あたしは数年振りに実家を訪ねた。……ろくな思い出のない、あたしの育った家。カエさんの様子を見に行くという理由がなければ、二度と足を踏み入れる気のなかった場所だ。
「ハク、いらっしゃい。仕事はどう? 順調?」
「……うん」
「アカイさんとは仲良くやってる?」
「大丈夫だから、それ、やめてよ」
 カエさんは病人だというのに、顔をあわせるとあたしの心配ばかりする。そういうのはやめてほしい。あたしがいたたまれない気分になってしまうのだ。あたしは仕事も家庭も順調(多分)なんだから、カエさんは自分の心配をしてよ。今にも死にそうな顔してるのに。
 そうやってしばらくカエさんと話をしていたんだけど、やがてカエさんはすまなそうな表情で「気分が悪いので横になりたい」と言い出した。だからすまなそうにする必要はないんだってば! あたしはカエさんに「じゃ、また来る」と言って、部屋を出た。
 今日は平日だけど、マイコ先生の都合で、仕事は休み。帰ろうか、それともカエさんが目を覚ますまでこっちにいようか、そんなことを考えてながら居間を覗くと、姉さんがいた。ごちゃごちゃやっていたのに、カエさんを引き取った人。カエさんは、姉さんが話をしてくれるようになっていたと喜んでいたけど、あたしは複雑だった。
「話、できるようになったんだ」
 気がつくと、あたしは姉さんに話しかけていた。この家を出た時は、もう二度とこの先この人と話すことなんて、ないだろうって思ってたのに。
「……ええ」
 淡々と頷く姉さん。そこは頷くとこなんだろうか。
「ロボットでも、なくなったんだ」
 少なくとも、カエさんは、姉さんは前より感情を出すようになったと言っていた。以前と比べてどうだったのか考えてみようとしたけど、姉さんと前に話したのがいつだったのかすら、憶えていない。
「……何それ」
 訊き返す姉さん。自覚がないんだろうか。
「姉さんはずっと、いい子のロボットみたいだった」
 姉さんを見ていると、やっぱりイライラする。なんでこう、この人は澄ましていられるんだろう。面白くない。
「何を怒っているの?」
 そんなことを訊いてくる姉さん。……別に怒ってない。
「……怒ってない。姉さんが嫌いなだけ」
 イライラしていたあたしは、イライラついでに本音を言ってしまった。言って少しだけ、すっきりする。あたしはずっと……ううん、今でも姉さんが嫌いだ。なんでもよくできて、お父さんに褒められる姉さんのことが。もうそういう時代は過ぎたにせよ、面白くないものは面白くない。
「私があなたに何をしたというの?」
 全然理解してない表情で、姉さんはそんなことを言った。そりゃ、姉さんからすれば、何かしたなんて自覚はないだろう。ただ単に優秀だっただけ。でも、比べられるあたしは、たまったものじゃない。
「いるだけでうっとうしいのよ!」
 怒鳴ると、姉さんは驚いた表情で黙った。……あたしにうっとうしがられてるっていう、自覚はなかったんだろうか。少しはショックを受けてくれると嬉しいんだけど。でもそんなあたしの期待は、姉さんの次の言葉で裏切られることになった。
「……私はリンが嫌い」
 姉さんはそんなことを言い出したのだった。ちょっと待ってよ。なんでここでリンが出てくるの? というか、さっきあたしが言ったこと、姉さんにとってはどうでもいいことなわけ?
「……なんで? リン、姉さんに何かした?」
「あなたと同じよ。いるだけでうっとうしいの」
 姉さんの言葉は、あらゆる意味であたしの予想に反するものだった。リン? 姉さんがリンを嫌がる理由なんてないはずだ。誰も姉さんとリンを比較したことなんてない。猛烈に、腹が立ってきた。リンはもともと、とても姉さんのことを心配していた。……あたしがちょっと呆れてしまうぐらいに。
「リンは姉さんに何もしてないじゃない!」
「私だって、あなたには何もしていないわ」
 納得できない。そんな考え。誰が姉さんのことを心配していてくれたと思っているのよ!? あたしが言うのもなんだけど、あたしもリンも、姉さんに姉らしいことなんて何一つ、してもらったことがないっていうのに。それに。
「けど! 姉さんがリンのせいで、どんな被害を受けたっていうのよ!? あたしは少なくとも、姉さんのせいでいっぱい苦労をした。あたしだけじゃない、リンだってそうよ。姉さんさえいなければって、ずっと思ってたわ」
 お父さんの基準が姉さんというだけで、あたしとリンがどれだけ苦労したか。どうして理解してくれないのよ! だから、この人は嫌いなのよ!
「だから何よ!? あなたとリンには、守ってくれる人がいたじゃない!」
 怒鳴り返す姉さん。……こんなに怒ってる姉さん、初めて見た。カエさんの言うとおり、感情がでてきてるみたい。けど、それで言うことがこれ!? ふざけないでよ!
「守ってくれるって言ったって、あのお父さんの前じゃどうしようもないわよ! それに、カエさんのことを言っているんなら、カエさんが守ろうとした中には、姉さんも入ってる! それもわからないっていうの!?」
 でなきゃ姉さんを引き取ったりするものか。あたしが言うのもなんだけど、この人、勉強できたのに、どうしてここまで血の巡りが悪いんだろう。
「とにかく、私はリンが嫌いなの! 顔も見たくない!」
 姉さんが叫ぶ。その次の瞬間、何かが落ちる音が聞こえた。びっくりして、そっちを向く。え……?
 リンがいる。レン君と一緒に。あれ、おかしいな……二人がカエさんのお見舞いに帰国してくるの、明日だったはずなのに。
 姉さんをちらっと見ると、バツの悪そうな表情で、リンから視線を逸らしていた。姉さんにもそういう感覚はあるらしい。ちょっと驚いた。さっきまでの会話で、罪悪感なんてものとは無縁な人かと思ってたところだから。
 リンはというと、真っ青な表情で姉さんを見ている。……リンはあたしとは違い、姉さんのことを嫌ってはいない。だからショックなんだろう。姉さんのことでショック受けるだけ、時間の無駄のような気がするけど。
「あ……リン……戻ってくるの、明日じゃなかったの?」
「え? 今日って言っておいたはずだけど……」
 リンが困った表情で、後ろに経っているレン君を見ている。レン君も返事に困っているようだ。
「じゃ、あたしの勘違いか」
 戻って来る日を、一日間違えて憶えていたようだ。あたしはもう一度リンを見て、それからリンの荷物が、足元に落ちているハンドバッグ――さっきの音がこれが落ちた音か――だけであることに気がついた。レン君の方も軽装。アメリカから戻ったにしては、荷物が少ない。
「……あれ、リン。荷物、それだけ?」
「レン君の実家に置いてきたの。あっちに泊めてもらう予定だから」
 リンは淡々とそう言うと、姉さんの方を向いた。……今にも泣き出しそう。
「……ルカ姉さん。そんなに、わたしのことが嫌いなんだ」
 震えながらリンが言う。それはある意味、わかってたことだと思うけど。
「リン、姉さんの言うことなんか気にしちゃ駄目よ」
「ハク、あなただって、さっきまで私のことが嫌い嫌いって言っていたじゃないの。あなたは私が嫌い、私はリンが嫌い」
 ちょっと! あたしはフォローしようとしてるのよ! 少しは人の気持ちを考えたら!?
「うるさいわね! 時と場所を考えたらどうなの!?」
「……いい。なんとなく、わかってたから。ルカ姉さんがわたしのこと、嫌いなんだって」
 リンの声は淋しそうだった。姉さんのことなんか、気にしたって仕方がないのに、リンは昔から、このことを気にしていた。いいところといえばいいところなんだろうけど、あたしからすると、ちょっとイラっとくるところでもある。
 レン君はというと、リンの肩を抱きしめていた。相変わらず仲がいい。
「ハク姉さん、お母さんは?」
「カエさん、今は気分が悪いって、上で休んでるの。もうちょっとしたら下りてくると思うけど……」
「……そう。じゃあ、悪いけど、ちょっとだけこっちで待ってもいい? わたしがいるのが邪魔なら、どこか別の部屋に行くから……」
「いい加減にしろよ!」
 不意に、レン君がすごい声で怒鳴った。あたしも姉さんもびっくりして、レン君の顔を見る。
「リンがそこまで遠慮する必要はないだろ! 大体あんた、何なんだよ。リンにあんなひどいことをしたのに、まだリンのことを責めるのか!?」
「レン君、その話は……」
 レン君がすごい勢いでまくし立てる。リンが止めようとしたけれど、レン君はそんなリンを遮ってしまった。
「リン、悪いけど俺も黙ってられない。あんたは知らないだろうけど、あの頃のリンはずっとあんたを心配してたんだよ。姉さんの様子がおかしい、どうしたらいいんだろうって、夜も眠れないぐらい悩んでた。それなのに、あんたはそのリンに何をした!? 階段から突き落として病院送りにしておいて、よくそんなことが言えるよな!?」
「姉さん、リンを階段から突き落としたって……」
 あたしは呆気に取られた。……言われてみれば、リンがまだレン君と知り合ったばかりの時、階段から落ちて入院したことがあった。あれ、姉さんが突き落としたせいだったの!? そう言えばあの当時、リンから何だか妙なことを言われたような……。
「……十年近く前の話よ」
 感情を感じさせない声で姉さんが言う。レン君が、凄い目でこっちをにらんだ。
「あんたたちは、それよりずっと前のことをぐちゃぐちゃ言ってるだろ! 大体あんた、リンのどこが気に入らないんだ!? リンの本当のお母さんが、あんたにひどいことをしたからか!? それとリンに、何の関係がある!?」
 う……複数形になっているということは、レン君が怒っているのは、姉さんだけじゃなく、あたしに対してもってことだ。……さすがは先輩の弟さんというべきだろうか。外見は全然似てないのに、性格の方は似てる。
「リン、あなたそんな話をしたの?」
 姉さん、そこでリンを責めるの? レン君がますます怒るわよ。先輩の弟さんなんだから。
「勘違いしないでくれ。俺がしつこく聞いたんだ。リンが辛そうな顔、してたから」
 案の定、ぴしゃっとそう言うレン君。う……怖い。先輩も怒るとすごく怖いんだけど、レン君もそうなのか。
「レン君、やめて」
 リンが半分泣きながら、レン君の服の袖を引っ張って、首を横に振った。……止めなくてもいいんじゃない? このまま言わせた方が、両方の為になるような気がする。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その五十【一握りの勇気】前編

閲覧数:571

投稿日:2013/01/14 18:39:29

文字数:5,840文字

カテゴリ:小説

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