頼まれものを渡して帰りの道についたのは、四時を少し回った頃だった。
少し空気からは温もりがなくなってきたけれど、まだまだ日は高い。これなら安心して森を越せる―――
―――そう思い、森へと足を踏み入れてからまだ一時間も経っていないかもしれない。
けれど。
「…え?あれ?」
私は混乱して左右を見た。
それだけしか経っていない筈なのに、いつの間にか、視界に入るのは丈の高い灌木ばかりになっていた。
…どういうこと?こんな道、私、来たことない…!
さっきから足下を見て歩いてきたはずのに、何かおかしい。だって、辿ってきた筈の道が、今はいくら探しても見付からないのだ。あり得ない話だけど、いつの間にか見失っていたらしい。
うそ。確かに細い道ではあるけれど、見失う筈はないのに。今まで何度か行き来もしたのに。なのに、どうして、こんな…?
これじゃ、まさか―――迷っ…た?
そう考えた瞬間、ぞっ、と背中に寒気を感じた。
森は危険だということくらい、私もよく知ってる。
狼や野犬がうろついているという話も聞く、深い森。特に、夜になってしまえば月光が木に遮られて辺りが見えにくい。話を聞いたことはないが、夜盗の類いが出たとしてもなんの不思議もない。
背中に覆い被さってくるような静けさに、自然と私の手は拳を作っていた。
とにかく、この森から抜けなければ。
どこでもいい。どこでもいいから、村に、あるいは道に辿り着けさえすれば…!
持ち物は手紙ひとつと空の篭ひとつ。
その心細さをあえて考えないようにしながら、私はおそるおそる歩を進めた。
人の歩いた跡さえ見えない森の薄闇。
自分がどちらから来たのかさえ、すぐに分からなくなる。
…どうしよう、どうしよう、どうしよう…!
じわじわと頭の中から順序立った考えが消えていく。かわりに増えるのは、パニックに支配された断片的な言葉たち。
どうにかしなくちゃ。冷静にならなくちゃ。でも、でも、どっちに向かえばいいの?夜になったらどうしよう!
「…う…」
半泣きになりながら、闇雲に足を動かす。
もういい!どうせ方向なんて分からないんだ。だったらもういちいちどっちに向かうべきかなんて考えなくていい。―――とにかく、進まなきゃ!
…当然と言えば当然だけど、結果として私は日が落ちても森を抜けることは出来なかった。
その代わり、私は薄い闇の中に明かりを見つけることになる。
その光は一つの屋敷の形を浮かび上がらせていた。
大きく豪華な屋敷の姿を、ぽつりと、ひとつ。
<タイトルロール.2>
近付いて見た屋敷は、思ったよりも古びたものだった。
見ようによっては廃墟にも見えるけれど、辛うじてそれを阻止しているのは窓の内側から滲み出す仄かな光。人間の存在を示す灯り。
私は煉瓦の壊れた門を潜り、誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のようにふらふらとそちらへ歩いていった。
―――ないとは思うけど…盗賊の住処、とかじゃありませんように…!
心のなかでそう念じながら扉の前に立ち、ごんごん、とノッカーで扉を鳴らす。
金属が手に冷たいけれど、錆の感触は全く無かった。
「はあーい!」
すると、爽やかな返事が間髪入れずに返ってきた。それと同時に、いくつかの足音がこちらに向かって来るのも、聞こえた。
体の疎みが少しだけ取れる。少なくとも、今の声は明るい少女の声。危険な響きは一切なかった。
「だれー?」
「誰かなあ?」
「ちょっとリンさん、レンさん…!」
扉が開かれたのを見、私は思わず目を見開いた。
なぜなら、そこにいたのは、お人形のように可愛らしくてそっくりな少年少女と、驚くほどに整った顔立ちの二人の使用人だったのだから。
「道に迷った?それじゃ、大変だったね」
太陽色の髪をした小さなご令嬢は、そう言って私に笑いかける。
でも折角の彼女の言葉にも、見慣れない可愛らしさに同性ながらどぎまぎしていた私は、結局「はあ」に近い曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
緊張のせいでかちかちに固まった私に差し出される、タオル。それを差し出してくれたのは、ご令嬢とよく似た顔をしたご令息だった。
木の葉が、と、私の髪に白く華奢な指が触れる。少年にしてはしなやかな指がなんだかくすぐったくて思わず身じろぎをしてしまうと、ご令嬢とご令息は顔を見合わせてくすくすと笑った。それがまた、抱き締めたくなるほどに愛らしい。
私を家に上げてくれた二人―――おそらくメイドと執事―――は後ろで何やら動き回っている。ドアの施錠の確認などをしているのかもしれない。
「でもここに着けてよかったね。外もう真っ暗だよ」
「ほんとだよ。一人で夜の森歩くのは危ないよ」
「ねえねえ、泊まっていかない?お部屋なら沢山あるよ!」
でも、あまり迷惑をかけてはいけないし、私としてはどちらに向かえばいいか尋ねられればそれで満足。
それに、そもそも初対面の方の家に上げて貰うだけでも申し訳ないのに、泊まりだなんて…
私はそう考えていたのだけれど、ご令嬢の訴えかけるような視線にたじろいでしまう。
幼いからか、それとも可愛らしいからなのか、妙に説得力を持った言葉。
「ねえ、グミ、がくと、どう?」
軽く首をかしげて同意を求めるご令嬢に、執事さんとメイドさんは揃って眉を寄せた。
「うーん…」
「我々は構いませんが、旦那様と奥様がなんと仰るでしょうか」
当然といえば当然の反応。
でも、ご令嬢とご令息は一度顔を見合わせてから悪戯っぽく笑った。
少しだけ不敵な笑みは、その端正な顔立ちにとてもよく似合っていた。
「大丈夫!あの方たちだってきっと賛成してれるよ」
「だって資格はありそうじゃない?旦那様や奥様に聞いてみるくらいしてもいいでしょ?」
「泥棒や強盗の類いでもなさそうだし、何よりこのまま追い出すなんて酷いじゃないか」
今度は、執事さんとメイドさんが顔を見合わせる番だった。二人の顔は明らかに子供のワガママに困る大人のそれで、私は心の中で深く同情する。村で子供の世話をすることもある身としては、その困惑はよく分かる。
アイコンタクトの結果、二人は渋々といった様子で頷いた。
「それは…まあ、そうかもしれませんけど」
「では、リン様、レン様、お二人のご意見を伺ってきて頂けますか」
「うん、そうだね。じゃあお姉さん、こっちに来て」
ご令息がそう言うのとほぼ同時に、ご令嬢がその小さな手で私の手を掴む。
私は戸惑いながらも、大人しく彼らに連れられて、館の奥へと入っていった。
シャンデリアに赤い絨毯、レースのカーテンと優美な扉。
物語のなかでしか知らないような豪奢な風景が気になって、私は導かれながらもあちらこちらに目が行ってしまう。
これは夢なんだろうか。それとも現実?…現実でこんなに素敵なことが起きていいものなの?
「…あら?兄さま、姉さま、その方はどなた?」
急に掛けられた声に振り向いて、私はその場で足を止めた。
声の主は、壁際で楚々と立つ、桜色の髪と瞳を持った美しい女性だった。この家にはどうしてこんなに目を引く美貌の人ばかり集まっているのだろう―――私は少し拗ねた気分でそう思った。
…というか、今、この人はご令嬢とご令息に「姉さま」「兄さま」と言わなかっただろうか?
私は改めて、桜色の女性に歩み寄っていく金髪の二人を見る。どう考えてもこの二人のほうがこの女性よりも年下だ。ただの顔の造作だけでなく、骨格からして幼いのだから。
強ばった頬を自覚しながら、私は何度か瞬きを繰り返した。
いや、でも、何か事情があるのだろう。
詳しい話を聞いてみたいけれど、他の家の話だし、何より初対面。そして、私よりもずっと格上の方々のことなのだもの…質問するのは躊躇われる。
「あのね、ルカ。この人道に迷っちゃったんだって」
「だから旦那様と奥様に、泊めていいか聞くつもりなんだ」
「まあ」
豪華な家具の中で一片の違和感も感じさせないその佇まい。
美しい。けれど、
…けれど…?
私はなんとなく視線を三人へと向けた。
なんだろう。この館の人たちは皆、何かがおかしいような気がする。
何がおかしいのか、何が気になるのかまだはっきりとは分からないけれど、それでも何かが間違っているような気がした。
ご令嬢にせよ、ご令息にせよ、執事にせよ、メイドにせよ、この女性にせよ。
…何か。
そう、それはとてもはっきりとした何かなのだけど…形になってくれない。
困惑に眉を寄せる私の前で、三人は自然に会話をする。
「奥の部屋?」
「ええ」
頷きを見てから、金色の二人は手を繋いで奥の扉へ駆けていく。私は棒のように突っ立ったまま、その様子を眺めていた。
それは、ひときわ大きな扉だった。
「リンとレンです!今、お時間いいですか?お客様がいらしているのですが」
言いながらも、と奥の扉を叩くご令嬢。
少し鈍いノックの音が、柔らかに響く。
返事はない。
けれど二人は満足そうに顔を見合わせ、そして私の方を向いた。
「お会いしてくださるんだって!」
「広間で奥様と旦那様を待とう?」
「は、はい…」
案内された先は、大きな部屋。驚くほどに天井が高く、照明が豪華過ぎて見ていられないほどだ。
目がちかちかするような錯覚を覚えながら、私は勧められた椅子に座って固く身を強張らせていた。
ご令嬢にご令息、あの女性、そしてメイドと執事。彼らにお茶やお菓子を勧められて、慣れないながらも世間話をしていると、唐突に扉が開いた。
そして入って来たのは…すらりとした体型の、男性と女性。
「奥様、旦那様」
執事が呟いた言葉で、場がさっと締まる。
「リン、レン、その子が言っていたお客さん?」
「はい!」
「そうだよ」
「これはまた可愛らしい…珍しいことね」
女性―――奥様が少し呆れたような口調で言うと、ご令嬢とご令息は勢い込んで主張した。
「ねえねえ、いいでしょ?」
「今日一日ぐらいいいじゃん!」
「そうだねえ…ねえ、どうする?」
その優しげな眉を寄せて旦那様が問い掛けると、奥様は微笑して、首を縦に振った。私の住んでいた村では 決して見られない、高貴で艶やかな微笑み。その笑顔を、私は魅入られたように見詰めた。
この屋敷にも似た、普通に生きてきたなら私が触れられる筈もなかったその微笑み。
「私はどちらかと言えば賛成ね。せっかくここまで辿り着けたんだもの」
「成る程、何かの縁か。ええと、じゃあお嬢さんには泊まって頂くとして、いくつか質問させて貰おう」
嫌だったら答えなくても良いのよー、なんて茶々を入れる奥様を拗ねたような目で見てから、旦那様は私に向き直り、一つ咳払いをした。
「まず、君の家は大丈夫なのかい?親御さんとか兄弟とか、心配するんじゃないかな」
「それは大丈夫です。母は仕事で明日まで戻りませんし」
「恋人との約束とかはないの?」
「いえ、その、…恋人なんて居ません」
「おや。じゃあ…そうだね、何か苦手な食べ物はある?」
「いえ…あの、少なくとも今のところはありません」
「それは重畳。あと、失礼かもしれないけれど、君はお幾つなのかな?」
「十六です」
「そう」
そこで彼は、深い紺青の瞳を微かに細めた。
「ときに君は、お芝居が好きかな」
お芝居?
突然の質問に、私は少し驚いた。
でも答えて困るような質問でもないから、困惑しながらも答える。
「あの…本格的なものは見たことがないのですが、興味はあります」
「そうか。ならよかった」
一体なんの意味がある質問だったのだろう。それとも、意味なんてなかったのだろうか。
それを深く探る暇もなく、私の意識は嬉しそうな旦那様の言葉に向けられた。
「じゃあ最後の質問にしようか。お嬢さん、名前を教えてもらえるかな」
そこで私は、自分が名乗っていなかったことを思い出す。
「ミク、です。よろしくお願いします」
「ミクさん」
にこり。
彼はその涼やかな顔に、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「僕はカイトと言います。あの赤い服を着ているのは、メイコ。歓迎するよ!ようこそ、僕達の『不思議の舘』へ!」
少し大袈裟に旦那様が両手を広げると、後ろで成り行きを見守っていた人々が一斉に目を輝かせる。
ご令嬢やご令息が「パーティー!?」「パーティーだよ!」と囁き交わすのが聞こえたから、つまり、そういうことなのだろう。
わっ、と旦那様と奥様以外の人々が私の周りに集まり、自己紹介をする。
「がくとです。いらっしゃいませ、ミク様」
「メグミです。是非グミって呼んで下さいね!」
「ルカです。ミクさん、あとでテーブルゲームでも如何?」
「レンです。この館にようこそ!」
「リンです!ミクちゃん、楽しんでいってね!」
紙吹雪のように吹き付けられるきららかな言葉を少し恥ずかしく少し誇らしく感じながら、私は何度も会釈をした。
タイトルロール.2
三か月もかかってしまった!
これからもゆーっくり続けて行きます…
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ご意見・ご感想
文月
ご意見・ご感想
小説にコメをするのは初めてですが…
凄いです!!
3か月かけただけのことはありますっ!!
描写がすごく上手で私もそんな風にかけたらなぁと思いました(・・♪)
これからミクがどうなっていくか期待しながら更新楽しみにしてますね!!
1の方と併せてブクマさせていただきます!
2012/08/02 13:18:26
翔破
うわああああ文月さん絵にも文にもコメントありがとうございます!
お元気そうでなによりです!私も元気です!(?)
ところで、コラボの件なのですが、秋から年明けにかけてちょっと私が忙しくなってしまうかもしれません…!年末にふたつ大きな試験があるもので… ただ、それで活動ができなくなるということは無いと思いますので、ちょっと時間がかかるかもしれない、とお心ににとどめておいてくださると有り難いです!
2012/08/02 21:46:35