「おはよう、ミク」
「おはよー」
舌足らずな声にうなづいて、辰雄は苦しそうな表情で首をもみながら、ダイニングキッチンに出てきた。キッチンのシンクの中は、コップや皿やカトラリーが一杯にたまり、あやしげな匂いが漂っている。開きの扉をあけて新しいコップを探して、キャビネットが空になっているのに気づいた。
どうやら洗いものをためる限界日が来たようだ。スポンジはどこにあるのだろう。
小さくため息をついて、鍋の中を覗くと、なけなしのカレーの表面にうっすらと白っぽい膜が張ったようになっている。匂いも微妙だ。
「うわ、もったいないー。昨日のうちに食っとけばよかったなあ」
辰雄は白髪交じりの脂っぽい髪の毛をごしごしと掻いた。シンクの中の食器にたまって、これまた薄い膜が出来ている水面に、小さなほこりのようなものがぱらぱらと落ちる。
男は顔をしかめて、皿を何枚か動かした。ひしゃげたスポンジがシンクに貼り付いている。
「うーん、めんどうだなあ」
社に連絡をすれば、掃除の人間が来てくれることは分かっているが、それには風呂に入ってひげをそり、着替えなければならない。さすがに、大企業の最高権力者がこの状態はまずいだろう。いつの間にか、そういうことを気にしなければならない、面倒な立場になってしまった。この会社に入った時から、というか、ゲージの中のマウスのようにひっつかまえられたときから、なんとなく、はめられた気もする。
まあ、負けた身なので、そのあたりは仕方ないのだが。
「どっちが、簡単かな」
辰雄は結局必要な分だけのカップと皿とフォークを一本洗うことにした。冷蔵庫から牛乳を出して、コップに入れた。青いパッケージに紺色の線でバラらしき花の絵の描かれたそれは、この半島の南の方にF・I・C―――フューチャー・インダストリアル・コーポレーションの食品部門が再建した牧場のものだ。低温殺菌なので持ちが悪いが、他がどうでも、なんとか食べられるのはこの質のいい牛乳のおかげだ。
辰雄は三〇日近く朝食にしているハンバーガーの箱を、冷凍庫から出してレンジに突っ込んだ。ハンバーガーは残り1個だ。他の冷凍食品も底をついていて、ライスのパックが1つあるだけだ。やはりそろそろ社に連絡すべき時期なのだ。
「ミク、会社に連絡つないでくれ。僕の絵は、データのを上げて」
「はーい。あと一〇秒です」
レンジがチン、と音を立てると同時に少女の声が言った。
「繋がったよ。どぞー」
感じのいい、はきはきとした男の声が流れた。
『市来会長おはようございます』
辰雄はそれを聞きながら、ハンバーガーをレンジから取り出して、ほんの少し眉を寄せた。この代用肉はどうも温めると、妙なにおいがする。
「おはよう。朝早くからすまんね。やはりね、直接私が行くことにしたよ。手配を頼む」
『お急ぎですか?現地の情報を収集しませんと、治安が不安定ですが』
男の声が困惑した調子になる。折り込み済みだ。あの場所が治安だけでなく、問題のある場所だということは辰雄も知っていた。
「そうも言ってられないんだよ。昨日二回電源が落ちてね。早いところ交換パーツを何とかしないと、かわいそうなことになる」
『だれか、他の者をやってはいかがですか?ハード設計のセクションが人選をすると思いますが』
辰雄は口の中のものを飲み込んで、言った。
「それは、無理だな。昔の機械なんて、わかるの、いるかい?みんなDOS-V系基盤やパーツ見てもなんだか、わからないでしょう」
『それは、そうですが…』
「大丈夫だよ。ああいうところは、慣れてるから。それに、あそこに行くのは初めてじゃないからね』
男はややあって、しぶしぶ、という風に言った。
『わかりました。以前に比べて不法投棄の量も各段に増えて、ガスが発生しているようです。防護服を用意しますので、着用をお願いします。現地の政府にも連絡を取っておきます』
「了解だ。よろしく頼むよ。ところで、例の試作機は、稼働してるの?」
『はい。テストの結果は良好のようです。報告書をあげますか?」
「ああ、いいよ。向こうがいいって言えば、ついでに現地テストも見て来よう。多少早くてもいいでしょう。見られるかな?」
『わかりました。できる限り早い日程で調整します」
「うん、よろしく。以上だ。ありがとう」
辰雄は言うと、ダイニングチェアに座って、息をついた。まだ、眠い。頭も芯の方が痛いし、肩と首に至っては石ころが皮膚の下にかたまっているような感じだ。
昨夜は、というより、今朝、明るくなってから、限界がきて、それで一度寝た。そう考えて辰雄は、食べ物の手配と、掃除の手配を頼むのを忘れたことに気がついた。
「さて、ミク、ホログラムに投影できるかな。映像投影」
辰雄はコップの中の牛乳を一口飲んで命じた。
暫く待っていると、長いブルーグリーンの髪をツインテールにした、漫画の少女の姿がおぼろに浮かんだ。
「よしよし。なんとか、出たな。ちょっと薄いなあ」
きゃしゃな体系に長い手足の少女を見て、辰雄は心配そうに眉を寄せた。時折画像がびりびりと震えている。よくない兆候だ。
辰雄は、疲れて、しみるように痛い目を手のひらでこすった。移植は、まだうまくいっていない。辰雄が託される前からあちこち改良されて、複雑化したプログラムのいくつかが、なぜか、社のOSに載せると動こうとしないのだ。
「何が、いやなのかなあ。お姫様は」
辰雄はため息をついた。
「そうそう、忘れてた。食べ物と、掃除を頼んでくれ。時間は一〇時だ」
「はーい、マスター」
体がぎしぎしして痛い。シャワーを浴びて、もう少し寝よう。そうだ。その前に、動画データの再生をチェックしよう。
「ミク、歌ってくれるかい?どのファイルでもいい」
「え?… 何? ちょ、えっ いきなり~?」
辰雄は少女の声に微笑んだ。このバージョンを彼女が選んでくると、まるで生きているかのようだ。それに、ミクはよく、このバージョンを選んでくる。機械にお気に入りというものがあるのだとすれば、これがそうなのだろう。
テイクゼロと書かれたファイルは、辰雄が初めてこのラボに来た時に、先の担当がきかせてくれて、ひどく印象に残った。
その後自分に課せられたのは、この、音声合成プログラムである、初音ミクという歌姫を、閉じ込められている古いコンピュータから解放して、命を吹き込むことだと知った。恐ろしい数の壊れたコンピュータが運び込まれ、彼女に関するデータをそこから拾い集めるのが、最初の仕事だった。
それが辰雄がF・I・Cに拾われた理由だ。だが、ここにきて、年をとるとともに作業の進展具合がおもわしくなくなっているのを感じていた。
『これからもずっと、 よろしくね 』
辰雄は、少女を見て自嘲的に微笑んだ。
「僕も、そうしたいんだが、そうだなあ。君にはもっと若くいボーイフレンドが必要かもしれないな。こんなおじさん、もうお爺さん相手じゃ、楽しくないだろう。だが、さて、どうしたものかな。プログラムを組むのが上手で、会社もうまくやってくれるような、いい奴がいるといいんだが。それに、体を作ってくれる奴も欲しいし」
辰雄は窓から森を見て、溜息をついた。この森の向こうに点々とあるラボの中に、彼女のために働いてくれる人間がいるだろうか?ここのところ、自転車で遠乗りをするのも、だんだんおっくうになっている。辰雄はさびしげに自分の手を見た。ミクは初めて会った時と変わらずにそこにいるが、自分は、年をとった。
あとを引き継ぐ者を選定しなければいけない。それはすなわち、技術者として、引退をするということだ。ちりちりとした不快感と不安が込み上げてきた。新しい技術者は彼女を理解し、大切にしてくれるのだろうか?自分の世代が、この女神を愛することのできる、最後の世代なのではないか?
それは、まだ見ぬ優秀な若者への嫉妬か、あるいは彼女を渡したくないのか、判然としなかった。
辰雄は目を閉じ、ゆっくりと首を振った。
―――自分がここに来た時のように、運命に任せよう。
もしも彼女がそこで消えるのであれば、それは彼女の運命なのだ。人も、そうして生きているではないか。もしも彼女を愛する技術者が現れたら、その時はいさぎよく委ね、自分は森の奥に隠遁しよう。
「だけど、君が、気に行ってくれないことにはね。いっそのこと、自分で選んでくれるといいんだが」
辰雄は言ってホログラムの少しだけ気の強そうな表情の少女を見た。画面が揺れて少女の残像がかすかにうなづいたように見えた。
男は朝の陽ざしの中で、少女が淡く透き通ったまま、今度は間違えずに歌い、微笑むのを見ていた。
あごに手をやった手に髭が当たり、男は眉を寄せた。
もう少しの間、ミクと自分の蜜月は続くのだから、若い女の子に嫌われないようにもう少し身ぎれいにして、ダンディなおじさまでいよう。
男は立ち上がると寝室の隣にあるシャワールームに向かった。
テイクゼロ ―――了
(21/03/2010 コミックマーケットスペシャルin水戸pre企画)
出典典拠:恋するVOC@LOID―テイクゼロ― OSTER Project
VOCALOIDストーリーズ 00 テイクゼロ
OSTER Projectさんの不朽の名曲「恋スルVOC@LOID」を題材にした小説です。
第1話目のおまけショートストーリー。今から百年以上あとの時代で、人類は飢餓と戦争で人口を減らし、生き残った人々が穏やかな社会を再構成しつつある、という設定です。
ミクは音声合成プログラムとして作品の中に登場します。1話1曲の形でシリーズを通して同一の世界でのVOCALOIDと人のかかわりを描いていきます。
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BPM=156
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苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
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Messenger-メッセンジャー-
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もうここにいる必要ないでしょう。」
って(笑)
私の全てを咀嚼をできたなら
忘れずに教えてください
私の欲しいものがいつしか
異常性でなくなるような時
私が嫌いだと言う物事を
忘れずに教えてください
廃れた音楽性で私に...ホワイトテーゼを透かして
わらべ
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