考え事をしていると時間というのはすぐに経ってしまうようで、いつの間にか彼女さんの作業は終わりを迎えていた。指をポキポキ鳴らしながら「さぁ…いくわよ」なんて意気込む姿はなんだかかわいい。僕は、今の僕の持てる最高の技術で応えたいと素直に思った。
曲は、やはり時期的に出てきやすいのか、奇しくもさっきまで僕が歌っていたあの歌だった。いつも歌っているよりも少しだけ力を入れて音符をなぞる。マスターの持っているクセとはまた違うクセを彼女さんは持っているようだったから、音符をなぞるだけでなく、そのクセも間違えないように慎重につたう。つたうことに集中しているとピッチが疎かになってしまうから、それにも気を使う。僕の中で「0」と「1」がスピードを上げてゆく。ただ歌うといっても、人間の前で歌うにはそれなりの動力が必要なのだ。
そして久しぶりの完唱。
最後の一音を出し終わって彼女さんの顔を見てみると、なんだかポカンとしている。なんだろう。いつもマスターが見せる「まずい」という顔ではない。僕は人間のそんな顔をこんな場面で初めて見た。感情を測れないことは本当に不安だから、何でもいいから何か喋ってほしい。
「……KAITO君」
しばらくして、彼女さんはようやっとという感じで声を絞り出した。なんだか少し掠れている。
「あなた、人間なの?」
は?
今度は僕がポカンとしてしまった。彼女さんは何を言っているのだろう。僕の歌があまりにも酷すぎて壊れてしまったのだろうか。……人間も壊れることがあれば、の話だけど。
「……やだ、天才がこんなところにいた! KAITO君! あなた、失敗作だなんて大嘘よ! やだやだ、もう一回歌って! なにこれやだ! 凄すぎるじゃない!」
突然の興奮と共に「やだやだ」と繰り返しながら、彼女さんがもう一度再生ボタンを押し、それに合わせて僕はまた歌いだす。どうやら「やだ」はただの感嘆詞だったようで、歌は相当気に入ってもらえたらしい。僕は生まれて初めて人に褒められた。しかも、たぶん褒め言葉としては最高な方の部類で。
素直に嬉しくなってしまう。これで、僕はマスターにもう少し仕事がもらえるようになるだろうか。言葉だけでなく歌唱能力も、もう少しMEIKOさんに近づくことができるだろうか。
そんなことを考えながら何回目かの歌を歌い終えたとき、その声は突然耳に飛び込んできた。どうしてこの瞬間だったのか、運が悪かったとしか言いようがない。曲中はさすがの僕でもオケに集中しているから、遠くにいるマスターの声は聞こえなかったのに。よりにもよって、曲が終わって、彼女さんが僕の声に酔いしれてくれていて、こちらも向こうも部屋の中に静寂が訪れたその瞬間に。
マスターは間違いなく電話口でこう言った。
「もう、アンインストールするしかないな」
体中から血の気が引くとはまさしくこのことを言うのだろう。覚悟はしていた。でも、実感として伴っていたわけじゃない。しかも、今、たった今、僕は生まれて初めて人間に自分の歌を認められて、生まれて初めて「自信」というものを見つけられた気がしていたのだ。これからだ、と思ったのだ。
思ったのに。
突然、奈落の底に突き落とされた気分だった。ひどい。マスターも彼女さんも僕に何の恨みがあるんだ。何で今なんだ。褒められた嬉しさを知らなければ、もう少し素直に受け入れられたかもしれないのに。ひどすぎるだろう。もう、何も聞きたくない。何も言いたくない。何も考えたくない。無意識のうちに僕は自分のヘッドホンを耳から外し、マイクから離れてしまった。本当だったら、VOCALOIDとしてそれは絶対にやってはならないことだった。人間の指示がないのに、勝手な行動をとってはならない。でも、今の僕の頭の中でその規定は完全に吹っ飛んでいる。窓の向こうで彼女さんが僕の異変に気づいて何かを叫んでいたけれど、ヘッドホンを外してしまった僕には何も聞こえない。必死に、向こう側からパソコンのキーを叩いたり窓を叩いたりしていた。そのうちに彼女さんの様子に気付いたマスターが、電話を切ってこっちに駆け寄ってくる。
マスターが、僕を消しにやってくる。
嫌だ。
来ないで。
僕を、消さないで。
お願いだから……!
突発的に、両足は動き出していた。分厚い扉のロックをこじ開けて外に飛び出ると、僕は夢中になって走り出す。少しでも、スタジオから離れたかった。というよりも、聞いた現実をなかったことにしたかった。僕がどれだけこの小さい箱庭の中を走り回っても、マスターが向こう側で一つボタンを押せばこの存在が消えてしまうことは知っている。でも、それでも僕は走らずにはいられなかった。だってそうじゃなかったら、このやり場のない感情は一体どこにどう吐き出せばいい。
外は雨が降っていた。一瞬で体中が濡れてしまうほどの雨だった。雨というよりも嵐。風が強い。すぐに雷が鳴り響きだす。夜だというのに雲が低い位置を猛スピードで流れていく。冷たい空気が、僕の体から熱を奪う。そのうちに、叩きつける暴風雨で僕は目を開けていられなくなった。走ることも、歩くことも、立っていることもできなくなってしまい、大地の真ん中で蹲るしかなくなった。着ていたコートとマフラーが、大量の水を吸い込んで土の中に沈んでゆく。もう、帰ることすらできなくなった。
そうだ。MEIKOさん。MEIKOさんは、濡れずに家にたどり着けたかな。
本当は、帰ったら話したいことがいっぱいあったのに。
ねぇ、MEIKOさん。今日、お肉買い忘れたでしょう?
ねぇ、MEIKOさん。「親愛の証」って知ってる? 相手の名前を短縮形で呼ぶんだよ。「リョウちゃん」って呼ぶ彼女さんはかわいかったなあ。
ねぇ、MEIKOさん。だから僕も「めーちゃん」って、呼んでもいい?
ねぇ、MEIKOさん。僕、今日生まれて初めて人間に褒められたよ。
ねぇ、MEIKOさん。いつか、僕と、いっしょに、ウタッテ……kuremasuka?
「……TO!KAITO!……ッ!カイトッ!」
体を激しく揺さぶられ、僕の頭は唐突に覚醒した。耳を劈くような叫び声とともに、一気に視界に情報が流れ込んでくる。
この声は。
「……めーちゃん?」
思わずそう呟いてから、僕はしまったと口を押えた。僕が彼女をそう呼んでいい権利はまだ与えられていない。
チラリとMEIKOさんの表情を見ると、揺さぶることをやめた彼女が、これまたポカンとした顔をしている。たぶんずっと泣いていたのだろう。顔中むくんでいる上に涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃだったけれど、僕が変なことを口走ってしまったせいで新しい涙は引っ込んだようだった。まぁ、泣くのをやめてくれただけでも嬉しい。
「MEIKOさん」
改めて言い直して、僕は起き上がった。体中が痛い。あの雨の中で蹲っていて、木の枝かなんかぶつけたのだろうか。でも、僕の周りには、それらしき物体は何も見当たらない。
と、いうよりも、「何も存在していない」というのが正しかった。慌てて遠くを見回してみても、いくら目を細めてみても、それは一切変わらなかった。
世界が、真っ白になっている。
空も、大地も、僕たちの家も、スタジオも。森も木も花も、街まで続く小さな道も。何もかもが消えてしまって、あたりはただひたすらに「白」一色だった。
「……アンインストール?」
僕の知らぬ間にマスターが実行キーを押したのかとも思ったけれど、それにしては、僕は今ここに意志を持って存在している。隣にはMEIKOさんが座っている。
一体何が起きたのだろう?
「アンインストールの訳、ないじゃない!」
唐突にMEIKOさんはそう叫び、僕の頭を一発殴った。痛い。
「バカじゃないの! あんた一体何やってんのよ! あれほど、VOCALOIDの規定に背いた行動を取ったらいけないって、私、あんたが生まれたその瞬間からずっと言ってたわよね! なんでそれを破ったりなんかしたの! おかげでパソコンはフリーズするわ、中のデータは飛んでいっちゃうわ、大変なことになってるじゃない!」
僕の胸ぐらを掴んで、またMEIKOさんの目から涙があふれ出す。あぁ、そうか。僕は、僕自身の手であの世界を壊してしまったのか。
「バカ! カイトのバカ! 挙句の果てにはあんた、自分のデータまで消しちゃったかと思ったんだから!」
掴んでいた手は、そのうち「縋り付く」に変わっていた。よっぽど心配してくれたのだろう。こんなに怒っているMEIKOさんは見たことがない。そしてその体はずっと小さく震えていた。意識のない僕に向かって、何もかもが吹っ飛んだこの世界で、一体何時間あんな風に呼びかけ続けてくれていたのだろう。
「……ごめん。ごめんなさい、MEIKOさん」
認めずにはいられなかった。僕は、今まで間違っていた。長い間、自分の不幸ばかりを恨んで悔やんで悩み続けていた。自分ばかりが嫌な目に遭って、MEIKOさんばかりが光を浴びていると、心のどこかで思っていたのだ。
でも、そうじゃない。僕がそうやって自分のことだけ考えて生きていけたのは、MEIKOさんが、ずっといつでも僕のことを考え続けてくれていたからだ。僕の恨みも、悔やみも、悩みも、それは全てMEIKOさんに対する「甘え」の上に成り立っていた。証拠に僕は、今まで彼女が何かに対してそんな負の感情を抱えている場面を見たことがない。
自然と、僕の手は抱きしめるべき存在を認識していた。震える肩をそっと寄せて、自分の中にすっぽりとおさめてしまう。こんなに小さい体で、今までどれだけの気持ちを受けとめてくれていたのだろう。
「心配してくれて、ありがとう」
しっかりとその心に届くように、MEIKOさんの耳元でそう言うと、彼女は耳まで真っ赤にして「もうっ!」と答えた。
「MEIKO! KAITO! 聞こえるか?」
それから何時間か経って、ようやく世界は人間と繋がったようだった。久々にマスターの声が空間に響き渡る。何もないところに突然風が吹いて、僕たちの、いつも見慣れたスタジオへの扉が現れた。
「ったく、あいつの遊びのせいで散々な目に遭った。知り合いのアンインストどころか、自分のパソコン初期化しなきゃいけなくなるところだった!」
声が相当怒っている。彼女さんが僕を呼び出したせいでパソコンがおかしくなったと思っているようだ。本当に、申し訳ない。でも、僕はそれより何より聞き捨てならない台詞を聞いて、思わず問い返してしまった。
「知り合いの……アンインストール?」
「そうだよ。知り合いのVOCALOIDが不具合を起こしたらしくてな……って、なんでお前にそんなこと話さなきゃならないんだ」
なんと。
僕のことじゃなかったのか。
大変だ……。
事の詳細は、さっきMEIKOさんに話したばかりだった。心配をかけたお詫びにと、それはもう懺悔のつもりで何一つ包み隠さず話していた。MEIKOさんは僕の気持ちになって、怒ったり悲しんだり、慰めたりしてくれていたのだ。
僕の腕の中でMEIKOさんがモゾリと動いた。気配が、相当怒っている。別の意味で震えだしている。
「とにかく、いろいろテストしたいから、二人ともスタジオに来てくれ」
マスターが言い終わると同時、MEIKOさんは僕の胸板を思いっきり叩いて離れてしまった。痛い。さっきよりも、相当痛い。
「あとは、テストが終わってからゆっくり話し合いさせてもらうからね」
「待ってよ、めーちゃん!」
「めーちゃんなんて呼んでいいって言ってない!」
真っ赤になったMEIKOさんがスタジオの重い扉を開けようとするので、僕が慌ててその役を変わる。その先に見える窓の向こうでは、恐らくこちらも泣きすぎて赤い顔をした彼女さんと、疲労のために青い顔をげっそりさせたマスターが、僕たちを待っていた。
「お二人とも、本当にすみませんでした……」
僕は、いの一番に頭を下げた。
大丈夫。僕もちゃんと、愛されている。
次は、その愛をみんなに返す番だ。
僕の声が、ようやっと世間の耳に届くようになったのは、それから少し先の話。
そして、念願叶ってMEIKOさんと一緒に公の場で歌えるようになったのも、そんなに遠い未来の話ではない。
あ、あともう一つあった。
きっかけになったあの歌も、二人用にこっそり編曲してもらって、僕たちは今でもシチューを作るたびに歌っている。
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