注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 ルカ視点で、外伝その四十三【いつか道の開ける時が】から続いています。
 よって、それまでの話を読んでから、お読みください。


 【きつね色の時間】


 朝起きたら、着替えて、顔を洗って、居間に行く。カエさんは大抵、もう朝食を準備してくれているので、それを食べる。食事が終わるとカエさんは教室の準備を始め、私は部屋に戻って、ずっとぼんやりしている。何もすることがないからだ。
 昼すぎまでそうすると、今度は昼ごはんを食べて、それが終わるとやっぱりぼんやりする。夜までそうしたら、夕食を食べて、お風呂に入って、寝る時間が来るまでぼんやりする。
 それが、今の、私の毎日。何かをしろとは言われない、そして、何もすることはない、ただゆっくりと、時間が、日々が過ぎていく。
 本当に、それだけの日々。
「ルカ、自分の部屋だけは自分で掃除してもらえないかしら。お母さんに触られたくないものもあるでしょう?」
 そのうちカエさんにそう言われたので、掃除だけはやり方を教えてもらって、やることになった。もっともろくに物のない部屋なので、掃除といってもすぐに終わってしまう。だから、残る時間は、やっぱりぼんやり。
 カエさんは掃除以外、何かしろとは言わなかった。何かした方がいいのかもしれない、でも、何をしたらいいのかわからない。だって何かをしろと言われないし……それに、何かしたいという気にもなれなかった。そもそも、自分がどうやってここに来たのかすら、よくわからない。
 だから私はいつも、それこそ本当にぼんやりとして、ただ窓の外の景色を眺めていた。窓からは、狭い庭が見える。小さな花壇と、小さなハーブ畑。ハーブはカエさんが料理に使っている。後は、たまに小さな鳥が飛んでくるぐらい。それぐらいで、何も変わったことはおきない。
 だからゆっくりと……本当にゆっくりと、時間が流れる。


 ある日、私がそうやって、やっぱり窓の外を眺めていると、下からドン、ドンというリズミカルな音が聞こえてきた。何かを打ちつけるような音。
 今日は……何曜日だっけ? わからない。よくわからない。そもそも、今はいつなの? 私はいつから、ここにいるの?
 窓の外をもう一度眺める。庭のハーブが緑に茂っていた。花壇には名前を知らない花が咲いている。冬じゃないことだけは確かだ。わかるのはそれだけ。
 音は相変わらず聞こえている。カエさんはこの家で、お菓子の教室を開いている。好きなことをしてていいけれど、お教室の時だけは邪魔はしないでねと言われている。今日はお教室の日だった?
 私は立ち上がって、階段を下りた。教室用の部屋は一階だ。仕切りのドアはガラスがはまってるから、そっと覗けばいい。一瞬なら、気づかれないだろう。
 覗いてみると、カエさんが一人で、何かをやっていた。今日はお教室の日ではなかったようだ。私は何となく、ドアを開けて、お教室の部屋に入った。
「ルカ? どうしたの?」
 ドアの開く音で、カエさんは私に気がついたようだ。振り向いて、こっちを見る。
「…………」
 私は何を言えばいいのかわからなくて、黙ってカエさんを見ていた。カエさんが少し困った表情になる。
「何か探し物?」
 別にそういうのじゃない。ただ……。私は、カエさんの手許を見た。調理台の上に板が乗っていて、カエさんは白っぽい塊――お菓子の生地?――をこねていた。
「……なに、してるの」
「ああ、これ? パンの生地よ。何だか久しぶりにパンを焼きたくなっちゃって。ルカ、ちょっと待っててね。これ、後五分ぐらいで終わりだから」
 カエさんは作業を再開した。パン生地を何度も台に叩きつけている。どうしてそうするのかわからないけれど、今話しかけるのは邪魔になりそうだったので、私は何も言わずにそれを眺めていた。
 カエさんの言うとおり、五分ぐらいで作業は終わった。カエさんはボールの中にパン生地を入れると、上に布巾をかけて窓辺に置いた。
「今日は気温が高いから、三十分もあれば発酵すると思うわ」
 カエさんの言うことが、よくわからなかった。お菓子にせよパンにせよ、どうやって作るのかなんて知らない。知りたいと思ったこともないし。中学までは家庭科の授業があったけど、パンの焼き方なんて習わなかったと思う。栄養価がどうとか、そういうことなら憶えているけれど。
「ちょっとここ、片づけるわね」
 カエさんは置きっぱなしになっていたボール――さっきとは別のもの――を流しに持って行って、洗い始めた。なんとなく、洗いものをするカエさんを眺める。……この家にはお手伝いさんがいないから、カエさんは家事を全部、一人でしている。
「それでルカ、どうかしたの?」
 洗いものを終わらせると、カエさんは戻ってきてそう訊いた。別に……用があるから来たわけじゃない。
「……別に」
 そう答えると、カエさんは黙ってしまった。私も言うことがないので、黙っている。
「……お昼はね、さっきのパンにしようと思って。焼きたてが一番美味しいのよ」
 話題を変えたいのか、カエさんはそんなことを言い出した。カエさん、いつもこんなことを言っているような気がする。
「今日焼くのはバターロールだけど……ルカはどんな風に食べるのが好き?」
 訊かれたけど、私は答えなかった。好き嫌いなんてないし。カエさんが、また困った表情で、私を見る。
 面白くない。私、カエさんを困らせるようなことはしてないはずなのに。
 ……ああ、ここにいるのが、困ったことなのかな。でも、この家に私を連れて来て、ここで暮らすように言ったのはカエさんじゃない。
「できたら呼ぶけど、部屋に戻ってる?」
「ううん……ここにいる」
 それから私たちは、カエさんが話しかけては、私が答え、そしてお互い黙り込むということを何度か繰り返した。そうするうちに時間が経った。
「そろそろいいわね」
 カエさんはボールを持って戻ってきて、布巾を外した。……さっきの白い塊が、大きくなっている。
「いい具合に発酵してるわ」
 何も訊いてないのに、カエさんは私に目の前で起きていることについて説明し始めた。イーストが砂糖を分解してガスが発生するから、膨らむのだとか、そういう話。……そう言えば、昔、発酵の仕組みについては習った。あくまで教科書で習っただけだから、こんな風に目の前で見るのは初めてだけど。
「イーストはね、生き物なのよ。具合良く発酵するためには、湿り気とか温度とか、いろいろ必要なの」
 目の前の白い塊が生きているというのは、ぴんとこなかった。見ていると、カエさんは塊の中央を叩いた。しゅっと音がして、塊がしぼむ。
「死んだの?」
「死んでないわ。ガスを抜いただけよ」
 カエさんは生地を台の上に戻すと、丸めてから重さを量った。それから包丁で生地を切り分けていく。切ったものをまた秤に乗せて重さを量るのは、どうしてなんだろう。
「なんで何度も量るの?」
「大きさを同じにしたいのよ。目分量だとどうしても狂ってきちゃうから」
 カエさんはその後も作業を続けた。切り分けた生地をバターロールの形にしてから、もう一度発酵させる。発酵が終わると、上に溶き卵を塗ってオーブンに入れた。十分もしないうちに、オーブンから香ばしい匂いがしてくる。
 ふっと、子供の時の記憶が甦った。学校から帰ってくると、カエさんがキッチンで作業をしている。オーブンの中には、クッキーかケーキか……とにかく、何かが入っていた。
「前の家にいた時も、パンを焼いていた?」
 クッキーやケーキの記憶はあるけど、パンの記憶はない。どうしてだろう。
「焼いていたわよ。でも、しょっちゅうじゃないわ。たまに……一ヶ月に一度焼けばいい方だったかしら。パンは時間がかかってしまうから」
 カエさんが焼いたパンを食べた記憶が、私にはなかった。そう言ってみると、カエさんは少し困った表情になった。
「自家製のパンじゃないパンが食卓に上がる時の方が、多かったからじゃないかしら。さっきも言ったけど、一月に一度、それ以上ということはなかったと思うし」
 そういうものだろうか。……よくわからない。
「さっきも言ったけど時間がかかるし、体力もいるのよ。正直、かなり疲れたわ。……私も年ね。あと何年、こんな風にパンを焼けるかしら」
 カエさんはそう言うと、少し淋しそうな表情でオーブンを覗き込んだ。そうする目の前のカエさんのこめかみに、白いものが混じっている。いつから、こんなものが混じるようになったんだろう。
 ……わからない。
 戸惑っている私の前で、カエさんはオーブンを開けて、きれいなきつね色に焼きあがったバターロールを取り出した。とてもいい匂いがする。
「こうやって、綺麗に焼けているのを見るとほっとするわ。パンを焼くのは久しぶりだし」
 焼きあがったバターロールに切れ込みを入れながら、カエさんはそう言った。それからバターロールにバターを塗って、ハムとチーズとサラダ菜を挟む。
「お昼ができたわ。飲み物は何にする? 紅茶? コーヒー?」
 どうして、二つ並べて訊くの?
「……なんでもいい」
 そして、どうして私が答える度、カエさんは困った表情をするの?


 カエさんがパンを焼いてから、何日か経った。一週間? 二週間? よくわからない。
 今日は、教室はお休みだ。そしてカエさんは、「用事があるから出かけてくるわ。三時ぐらいには帰ってくるわね」と言って、出かけて行った。だから、私は一人で家にいる。
 ふっと、何かが心をかすめた。……すごく小さかった時、私は、いつだってお留守番だった。ハクの手を引いてあの人がでかけるのを、階段の上からただ眺めていた。
 ――さびしいよ。
 どこかで、誰かがそんなことを言ったのが、聞こえたような気がした。
 嫌だ、誰かが何か言うはずなんてない。だって今、この家には私しかいないのだから。
 ――いっしょに行きたい。
 行くって、どこへ? ああ嫌だ。一人でただ座っているから、変なことが聞こえてくるのよ。何かしよう、何か……。
 本でも読もうか。今までは勉強するとか、本や新聞を読むとか、そういうことをしていた。本棚を眺める。この家には衣類以外の私物はほとんど持って来なかったから、ここにあるのはカエさんの本だ。本棚にぎっしりと詰まっているのは、ほとんどが料理やお菓子作りの本だった。仕事が仕事だからだろうか。
 私は手近にあった一冊の本を抜き出した。……『誰にもできるパンの焼き方』と書かれている。パン作りの本のようだ。ぱらぱらとページをめくってみる。そんなに難しくはなさそうだ。「誰にもできる」なのだし。
 ――やってみようか。
 どうせ、カエさんはいないのだ。好きにしていていいとも言われている。でも、こんなことをして、何になる?
 ――でも、もしかしたら、褒めてもらえるかも。
 私は本を調理台の上に置いて、冷蔵庫を開けた。卵とバターと牛乳は、すぐに目についた。それを取り出して本の隣に置いてから、別の戸棚を開ける。カエさん、一部の材料はここに仕舞っていたはずだ。……あった。小麦粉の入った大きな密閉容器が三つ。それぞれに「強力粉」「薄力粉(クッキー用)」「薄力粉(ケーキ用)」と書いたラベルが貼ってある。私は「強力粉」と書かれた容器を取り出した。
 後はお砂糖と、イースト。
 ここで私は困ってしまった。イーストって、どこにあるんだろう。そもそもどんなもの? 写真で見ると、茶色っぽい粉みたいだけど……。
 私はキッチンを探し回った。カエさんはこの前パンを焼いていたんだから、ここのどこかにあるはずだと考えて。戸棚と冷蔵庫の中のものを全部出してみたけれど、どこにもそれらしいものは見つからない。
 キッチン中ひっくり返すぐらいの勢いで探し回って、私はようやく、目当てのものを見つけ出した。「イースト」と書かれたラベルの貼ってある小さなタッパー。場所は冷凍庫の中だった。これは冷凍しておくものらしい。
 やる前から疲れてしまった。私は引っ張り出したあれこれを元の場所に戻すと、調理台の上に必要なものを並べた。使う道具類は、幸か不幸か、イーストを探す時に全部見つかってくれていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その四十四【きつね色の時間】前編

閲覧数:589

投稿日:2012/12/02 23:47:43

文字数:5,052文字

カテゴリ:小説

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