「一秒でも早く」ハクの病院へとデルは走った。

病院とデルの働く会社は同じ市内にあると言えど、走るとなるとかなりの距離がある。
デルは複雑に交差する道を何度も曲がり、時につまずいた。だがそれでも痛みを感じている暇などない。というより、今のデルの心は「早くハクの病院に着く事」。ただそれだけだった。

空には灰色の雲が依然として漂っている。今日は一日中曇りだけのはずだが、この分じゃあ夜は雨が降る、なんて事もあるかもしれない。実際、場所によっては雨も降る、と新聞紙には書いてあったはずだ。

デルの体力は、病院に就く前についに限界に達し、近くの電柱にもたれかかってしまった。
虫のような息で呼吸しながら、ポケットから携帯電話を取り出して、今が何時なのか確認する。

「12時10分……。」

会社を出てからもう約10分が経った。それなのに、ハクの病院はまだまだ着かない。
ここで立ち止まっていては駄目だと分かってはいるのだが、走り出そうとしてもどうにも身体が言う事を聞かない。
それでも『一歩だけでも」という思いがあり、デルはよろめきながら歩き出した。

突然、ポツリと、何かがデルの頬を伝った。どうやら空から落ちてきたものみたいだ。

「雨か……。クソっ……。」

やはり降るだろうとは予測していたのだが、まさか一分一秒を争うこの大事な時に降るなんて……。
雨が降れば気温も低くなる。だが今日はもともと気温が低いのだ。そこに雨が降ってしまったら、わずか数度の気温も氷点下にまで達するのではないか。
今まで走ってきて、デルの体はすごくヒートアップしているはずなのに、徐々にそれは下がっていった。

『どうして貴方は……こんな私を助けてくれるの……?』

突然、脳裏にその声が響いた。声は……、今より少し若いハクのものだった。
その声が響いたと同時に、デルは不意に過去の事を思い出した。ちょうど、デルとハクが出会った時のことである。



――――……。



「あっと、学校に忘れ物しちまった……。」

「はぁ?またかよ、デル。お前どんだけ忘れ物してるんだよ。」

「悪いな。ちょっと取ってくるから、神威は先に帰っててくれ。」

「はいはい、言われなくても。次忘れたら、もう一緒に帰ってやらないからな~?」

「わ、悪い。んじゃあちょっと、行ってくる。」

デルはついさっきまで学校から帰ってきた道を、ショルダーバッグを提げて引き返し始めた。
軽い小走り、かというとそうでもない速い走りで、デルは学校へと走った。
もうほとんど家の方まで帰ってきてしまっていたから、取ってくるのはもう面倒だし、それに明日持って帰ってくればいいじゃないか、と思うのだが、何せ忘れ物は明日提出しなければならない宿題のプリントだったからだ。

学校に着いた頃には、デルは軽く息を切らしていた。それでも「軽く」だったから、少し休憩すると教室の方へと向かって走って行った。
教室の前の方まで着き、いざ入ろうとしたその時、中から何やら声がするのを聞いてデルは立ち止った。

「ん?何だ?」

耳をそばだてると、何やら男子の声と、女子の声が両方聞こえる。
少しだけ中をうかがってみると、奥の方に三人の男子に囲まれている女子の姿を、デルの目は捉えた。

「おい、ハク。お前今月の金どうしたんだよ?」

「え、えっと……、あの……。今月ばかりは……とても払いきれなくて……。」

「あぁ?お前、そんな言い訳が許されるとでも思ってるのか?」

突然、男子の一人が、ぐいとその女子の後ろ髪の根元あたりを掴む。

「い、痛い……。」

目をつぶって痛みに歪む女子を、無視して男子は続けた。

「今月はなぁ、俺らも大変なわけよ。金もらいたいんだけどなぁ?」

「む、無理です……。まだ両親の給料日も……、もう少し先だし……。」

「あぁ!?」

男子が怒鳴ったことに凄く怯えたのか、その女子は「ひっ」と小さい悲鳴を上げると、今までの恐怖に耐えかねて、涙を流し始めてしまった。

「おい、お前ら。」

デルは冷静にその教室に入った。
その突然の声にびくりとしたのか、その場にいた男子三人と女子一人は硬直する。
だが、男子たちの硬直は一瞬だけだった。

「嬉し涙ならともかくとして、男子が女の子泣かせるってのは感心しねえな。」

「んだよてめえは!!何か文句でもあるのか!?」

そう言って、男子の一人がデルに詰め寄り、デルの胸ぐらを力強くつかむ。
だがデルはそれでも冷静とした表情で言った。

「ある。大ありだな。」

「てめぇ、こいつをかばうってんなら、お前も殺すぞ!」

そう言って、男子が振り上げた拳をデルはいとも簡単によけると、その男子にデルは顔面にパンチを食らわせた。途端、男子の表情が歪む。その隙を突いて、デルは更にみぞおちを食らわせる。

「ゴホッ……!てめぇ……。」

「お前らは最低な人間だな。女の子を泣かせるなんて、それでも男かよ。」

「ちっ!うるせーな、覚えてやがれ!!行くぞお前ら!」

リーダーらしき男子がそう言って教室を出て行くと、他の男子たちも渋々と教室を出て行った。
本当は逆らいたい気持ちでいっぱいだったのだろうが、今のデルの攻撃を見たら、二人でも到底立ち向かえないだろうと思ったのだろう。

「おい、大丈夫か?」

デルは女子に方に寄って、声をかけた。

「…………。」

女子はまだ泣きやまずに、床にペタンと座りこんでいる。

「立てるか?ほら。」

と言って、デルはその女子に手を差し伸べた。だが女子はそれでも泣きやまずに、その白く長い髪の毛で顔を覆って隠している。

「参ったな……。あ、そうだ。とりあえず涙拭けよ。ハンカチ貸してやるから。」

そう言って、懐からハンカチを取り出したが、女子はふるふると首を振るだけで受取ろうとはしない。

「もう……、なんだってんだよ。俺は今みたいな卑怯で無駄に暴力をふるう男子じゃねえぞ?……だから、ほら、ご厚意は素直に受け取りな。」


デルはそう言って、その女子の手をとると、無理矢理立ち上がらせた。
そして次にハンカチを渡す。

「あ、ありがとう……。」

女子のか細い声が小さくて一瞬だったけど、聞こえた。

「どういたしまして。それよりお前、歩けるか?」

「え、えっと……。駄目みたい……。足がまだすくんでる……。」

思えばついさっきまで男子に恐喝させられていたのだ。女子のか弱い心なら、まだ整理がついていないに違いない。

「そっか……。じゃあほら、おぶってやるから。乗りな。」

デルはその女子に背を向けて、おんぶをする体勢にしゃがみこんだ。

「む、無理だよ……。恥ずかしいし……。放課後って言っても、人がまだ残ってるんだよ?見られたら誤解される……。」

「俺はそんなの全然気にしないけどな。ほら、早く乗れよ。」

「わ、私が気にするの!」

「もう……、わがままな奴だな。それじゃあ、これならどうだ?」

そう言うと、デルはしゃがみこんだ状態から再び立って、そして女子の右手を握った。
あまりに突然のことだったので、女子は「ひゃっ」と軽い悲鳴をあげ、次に見る見るうちに顔が赤くなっていった。

「手をつないでなら、歩けるか?」

「む、無理……。」

「はいはい、じゃあ歩くぞ?」

「えっ、ちょっ、待って!!」

デルは女子の言う事を無視して、そのまま歩きだした。女子もそれに引きずられて、最初はぎこちない動きだったが、学校を出たところで徐々に歩幅もあってきた。という事は少しは精神も安定してきたのだろう。

「そう言えば、お前、名前なんて言うんだ?同じクラスだってことは知ってるんだけどさ、どうにも俺、他人の名前覚えるのが苦手だからさ……。」

その女子は俯くと、恥ずかしげに小さい声で言った。

「……ハク。弱音ハク、です。」

「ハクか……。心配するな。誰もお前を守る人がいなくたって、俺だけはずっとそばにいてやるから……。」


――――――……。


いつの間にかデルは走っていた。心臓も肺も疲れ果てて、身体が悲鳴をあげている。おまけに身体は雨でずぶぬれ。そんな状態でもデルは走っていた。

2分ほど走ると、ハクの病院が見えてきた。全速力で、一階のフロントデスクに駆け寄る。

「カイト先生は!カイト先生は今どこにいらっしゃいますか!?」

受付係も、デルの真剣な表情に少し戸惑ったが、冷静さを取り戻して「15階の弱音ハクさんの病室ですが……」と言った。
それを聞くと、デルはそこから向き直り、エレベーターではなく階段を使って15階を目指して走って行った。
エレベーターなんて待ってられない。走って行った方が早いと、デルは確信していた。
実際、いつも待たされる時が多いからよく分かる。

ようやく15階の病室に就いた時、デルは深く深く深呼吸をして病室の扉を開けた。

「ハク!!」

そこにいたのは、カイト、それとハクの変わり果てた姿だった。

「あ、デルさん……。ついさっき、8時間に及ぶ集中治療室での治療が終わったところですが……。」

8時間、つまり今朝の4時のあたりでハクは倒れていたという事か……。
デルはハクに駆け寄った。だがハクは目をかすかに閉じて、半分意識がもうどこかに言ってしまっているのではないかと思うほどだ。

だがそれでもハクの意識はちゃんとあったようだ。

「で、デル……?デルなの……?」

「は、ハク!?」

「あぁ、その声、確かにデルだ……。死ぬ前にデルの声が聞けてよかった……。」

「死ぬとか言うな!ハクはまだ死なねえよ!死なせるもんか!!」

「もう、デルったら熱いんだから……。でもデルのそういうところが…………好き。昔からずっと好きだよ…………。」

そこでハクの言葉は途絶えた。
途端、呼吸器からハクの呼吸が止まったことを知らせる『ピー』という無慈悲な音が、病室内に響いた。

「ハク!?おい、ハク!!!!」

そんな事を呼び掛けても、返事を返さないと分かっているのだがデルはたまらず叫んでいた。頬に触れてみると、まるで氷のように冷たい。今まで生きてきたのが、本当に奇跡だったように。

「ハク!!返事しろよ!?ハク!!」

だが悲しいくらいにハクは何の反応も示さない。デルはハクが死んだことを認める事が出来なかった。
やがて数分後、デルはようやく現実を受け止めた。

「デルさん、ご愁傷様です……。」

「カイト先生……。」

「ハクさんの体はもう本当に限界でした。私が手術をしたところで、寿命は伸びなかった……。」

「いえ、でも手当をしない事には、ハクは倒れた時に死んでいましたよ。カイト先生には本当に感謝しています。俺も、ハクの声を最後に聞けてよかった。」

「そうですか……。そう言っていただけると、私も少しは気分が晴れます。」

「……少し、ハクと二人きりにさせてくれませんか……。」

「構いませんよ。では、私はこれで。30分くらいしたら、また来ます。ハクさんの遺体の処置をしなくてはいけないので……。」

そう言うと、カイトは足早にツカツカと病室を出て行った。

「はぁ……。」

デルはため息をついた。寂しいほどに何の物音もしないこの病室で。
ハクが元気だった時は、俺はこんなんじゃなかったのに。いつもハクが弱気な時は、強がって助けてやっていたのに。
ハクがいなくなってしまったら、途端に心が崩れ去ってしまいそうだった。
一人きりになると、ハクみたいなネガティブ思考がどうしても働いてしまう。
誰も話す相手がいないから。気を紛らわせてくれる者がいないから。
俺って、本当はこんなにさびしがり屋だったっけか?こんなに、ひ弱な奴だったっけか?

この気持ちを誰にぶつければいいのか分からず、デルは窓の外の方に目を向けた。
その途端、デルは何かの違和感に気付いた。

「あれ……?」

さっきまで降っていた雨が消えている。そのおまけに、10年間もの間ずっと姿を現さなかったそれが街を白く染めていた。……まるでハクの死を哀れむように。



「何で今頃……。」

雨の代わりにしんしんと降っているその白い結晶。それは紛れもなく“雪”だった。
デルは思わず窓を開けた。その瞬間に、冷たい風が病室内へと吹き込む。

空を見ると、相変わらずの白い雲がその真っ白な雪を降らせていた。

その白い雲の中に、幼かった自分とハクが一緒に雪合戦をして笑い合っている時の光景を、デルは一瞬だけ垣間見た気がした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

三月の雪 6 【終】

三月の10日くらいに、東京で雪が降りました。

病院に入院していた人は、雪が降ったことにどう思ったのだろう・・・?
そんなことを色々考えていたら、こんな小説ができました。

ていうかただの妄想w

この小説で伝えたいことは特にございません。スイマセン

閲覧数:245

投稿日:2010/03/23 13:18:05

文字数:5,158文字

カテゴリ:小説

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