あれから、リンは毎日のようにあの広場へと足を運んでいた。
もちろん手にはあの本がある。しかし、前のように物語の世界へと入り込むことは出来なかった。
ちょっとした木々の音や風の音に敏感に反応して、つい辺りを見渡してしまう。
「……はぁ…」
リンは開いていた本を閉じると、頭上を見上げた。
紺色の空と煌く星々、そして下弦の月がリンの空色の瞳に飛び込んでくる。
「何やってるのかな…私。わざわざ瞳の色まで変えて…」
ふと自嘲気味に呟くと大きくまたため息をついた。
ヒトは自分達の論理から外れたモノを嫌う傾向がある。その為にまず真紅の瞳を隠すことが、ヒトに近づくために一番最初にすべきことだった。
警戒心を持たれないよう―――それがヒトの血を糧とするために必要なことだからだ。
この林の中には滅多にヒトは訪れることはない。だからこそ今まで瞳の色を変えずにこの場所に来ていた。
そう、この前の出来事は完全なイレギュラーなのだ。それは頭では理解している。
けれど瞳に焼き付いて離れない紫色の髪を持つ青年の顔を思い出すと、つい『万が一』を期待している自分が居るのだ。
だが現実はこの手の中にある本とは違う。そうそう都合の良いことばかり起こるわけがない。
(―――忘れよう)
すぐには忘れられないかもしれない。でもリンには悠久とも呼べる時間がある。
きっといつか忘れられるはずだ――そう自分に言い聞かせながら、その場から立ち上がった。
―――――ブルルッ…
その瞬間、馬の鳴き声がリンの耳に届いてきた。
(え……!)
幻聴かもしれない、いや彼ではないのかもしれない。
それでもリンはその場から動けなかった。
ゆっくりと林の中から炎の明かりが徐々に大きくなっていく。それと比例してリンの鼓動も速さを増していった。
「――あ……」
リンには一瞬目の前の光景を信じることが出来なかった。
栗毛の馬に跨り、片手にはランタンを持った紫色の髪を持つ青年の姿がそこにあったのだ。
青年はリンの姿を見つけると驚いた表情を見せながら、馬上から軽やかに飛び降りた。
その仕草一つ一つが洗練されており、つい見惚れてしまうほどだ。
「あ……あの……」
リンはまだ事態が飲み込めずにいた。
何故ここに彼が再び訪れたのか、それよりもこれは現実なのか、それすらも分からなくなっている。
そのリンの様子に青年には「ああ…」と何故か納得したようで、にっこりと微笑みながらリンへとその頭を垂れる。
「失礼、お嬢さん。――私の名はカムイ。怪しい者では――と、あまり説得力が無いか」
自分の言葉に肩を竦める青年――カムイの様子についリンは笑みを零す。リンの笑顔に釣られるようにカムイも微笑みを浮かべていた。
リンが覚えている彼はただ眠っているだけだった。
心に響くような艶のあるバリトンの声に蒼色の瞳、気品のある笑顔と優しい心遣い。
想像していた彼よりもずっとカムイは魅力的な男性だった。
「あ、えっと…私の名前はリン……」
「リン……良い名だ」
「あ、あの―――貴方はどうしてここへ?」
話を誤魔化すかのようにリンは疑問を投げかけた。
ただの社交辞令だろうと思っていても、褒められると自分の意思とは関係なく鼓動が跳ねてしまう。
そんな自分が恥ずかしく感じてしまうのだ。
「それは……確かめたいことがあったからだ」
「確かめたいこと?」
「あぁ……――やっと分かった」
そう言うとカムイは所々血のついた布切れを取り出した。
「これは――君の物だろう?」
「えっ…!」
「この布…少し綻びてしまったが、元は上等な布だ。丁度今君が着ている白いドレスのように」
思わずリンは自分のドレスへと視線を向ける。
カムイが持っている布は間違いなくあの時のものだった。
もちろん裾を破いてしまった為、あれから袖を通したことはないが、捨てるに捨てられず箪笥の奥へと仕舞い込んだドレス。
それを大事に持っていてくれていたことに、嬉しさが込み上げてくる。
「――そう、私のよ。その…あれから傷の方は……」
「ああ、やはりそうだったか」
「え?」
カムイの言葉にリンは首を傾げた。
明らかに傷の手当てをしたのがリンだと分かって言っていたのではなかったのだろうか?とつい眉を潜める。
だが当のカムイ本人は微笑みを浮かべたまま「失礼…」と詫びる言葉を口にした。
「君を試してみたんだ。まさか本当にそうだとは…」
「え―――!」
どこか嬉しそうに微笑むカムイとは反対に、リンはまんまと計略にひっかかった自分の浅はかさを恥じた。
少し考えれば、いくらなんでも布だけで自分を特定出来るわけが無いことは明白だ。
けれど、完全にカムイのペースになってしまっているこの状況が心地よく感じるのもまた確かだった。
「騙した形になったが、感謝を告げるために来たのは確かだ」
「感謝?」
「あの時の処置がなかったら、今こうしてここに居なかっただろう…」
リンはあの時のむせ返るような甘い香りと弱っていく命の鼓動を思い出していた。
あのまま何もしなければ、カムイの言う通りになっていたことだろう。
「だからどうしても命の恩人に礼が言いたかった。―――ありがとう、リン」
真っ直ぐリンを見つめるカムイの真摯な瞳から、リンは目を離すことが出来なかった。
姿形だけではなく、カムイ自身そのものがリンにはとても眩しく見えていた。
(なんて……綺麗な生き物なんだろう……)
最初に見た時よりも、今の方がずっと輝いてみえる。
夜の住人であるリン達とは違い、太陽の下で笑うことが出来るヒトという存在そのものの魅力なのかもしれない。
「―――リン?」
不意にカムイから名を呼ばれ、リンは意識を現実へと戻された。目の前には不思議そうにリンを見つめるカムイの顔がある。
「え、あ、ごめんなさい。…あ、あの…」
どうにか誤魔化そうとしても二の句が告げられない。
まさか見惚れていた事実を正直に言うわけにもいかず、言葉を迷っているとカムイはにっこりとまた微笑みかけてきた。
「そういえば傷については心配無用だ」
「よかった…」
リンは思わず安堵のため息をついた。
自分の歌なのか、それともヒトの見様見真似で行ったあの処置がよかったのか分からないが、
とにかく自分のやったことは間違いではなかった。
「けど、どうしてあんな傷を……?」
そこまで言いかけて、リンは自分の口を咄嗟に押さえた。カムイにとって言いたくないことかもしれないと考えたからだ。
だが、カムイの表情は先程とは変わらない笑顔のままだった。
「…気になるか?」
けれどカムイはそれ以上言葉を続けなかった。
それは暗に言いたくないことだったと肯定しているようなものだった。
それが分かったからこそ、リンもこれ以上カムイに聞こうとは思わなかった。
「もう夜も遅い、引き留めてしまってすまかった。君も帰りなさい」
「わ、私なら大丈夫です! ……それに、夜じゃないと……」
リンの声が徐々に小さくなっていく。
自分をヒトと思っているカムイになんて説明すれば良いのか、リンには分からなかった。
ただ、もう少しだけカムイと一緒に居たい――その想いだけがリンの心を占めていた。
「………ならば、また夜に」
「え…?」
それは全く予想していない言葉だった。
リンが言葉の意味を理解するのに、一瞬だが時間を要した。
だが間違いなくそれはカムイもリンと同じ気持ちであるということに他ならない。
「は、はい!」
具体的なことはそれ以上お互いに話すことは無かった。ただお互いの間に流れる空気は、気持ちを伝えるには十分だった。
カムイはそのまま馬に跨ると、リンにもう一度微笑みかけてくる。
「では、また――」
「ええ、お気をつけて…」
前と同じようにリンはカムイを乗せた馬の姿が見えなくなるまでその場から動かなかった。
ただ違うことは、カムイが持っていたランタンの炎のように、リンの胸に熱い何かが芽生え始めたことだった。
部屋に戻っても、リンの胸に宿った小さな炎は消えることはなかった。
《では、また――》
不意に蘇るカムイの笑顔と声。それだけで自分の顔が綻んでくる。今にも大きな声で歌いだしたいほどに身体が高揚しているのを必死で抑えていた。
『リン、楽しそうね』
「や、やだメイちゃんったら、そんなことないよ!」
頭の中に響くメイコの声に、リンは言葉では否定しつつも声が完全に上ずってしまった。
クスクスとメイコの笑い声が聞こえてくる。
『誤魔化してもダメよ。――良かったわね、会えて』
「―――みっ、見てたの?」
『ふふっ、少しだけ…ね』
一体どこからどこまで見られていたのだろう。
いや、それよりもヒトと会ったことをメイコはどんな風に思っているのか。
先程までの高揚感はすっかり消え、リンの心に不安の影が広がっていった。
『大丈夫よ、リン。言ったでしょう?私はいつでも貴女の味方だって…』
「メイちゃん……」
『ずっと元気がなかったでしょう?――だから心配していたのよ』
リンの中に広がった影を掻き消すように、メイコの声が暖かく身体中に広がっていく。
それと同時に、自分を想ってくれる大事な人に心配をかけたことを深く反省した。
「ごめんね、心配かけて」
『リンが謝ることじゃないわ。私が勝手に心配していただけだもの』
「メイちゃん、ありがとう…大好きよ」
ふふっ、とお互い同時に笑い声を上げる。
それはお互いがお互いの気持ちに寄り添い理解し合えたことの合図でもあった。
先程感じた不安の影なすっかり消えてなくなり、あの高揚感が戻ってくる。
「あのね、メイちゃん―――」
昔からメイコには何でも話していた。
嬉しかったこと、楽しかったこと、もちろん悲しかったこともすべて。
それを全部受け止めてくれるメイコに、この新たに芽生えた感情も話さずにはいられなかった。
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