その日の夜。夕飯が終わった後も、あたしは食堂に残っていた。リンが殴られてから、引きこもるのはやめたのだ。だから、食事はリンやカエさんと一緒に、食堂でとっている。お父さんがいない時限定だけど。
「ハク、どうかしたの?」
 リンはもう自分の部屋に引き上げてしまったので、食堂にいるのはあたしとカエさんだけだ。カエさんは、怪訝そうな表情であたしを見ている。
「……カエさん、話があるの。大事な話」
「話って? ああ、ちょっと待って。何か飲む?」
「じゃあ、紅茶を……後、何か甘い物ある?」
「今日焼いたクッキーならあるけど……」
 カエさんはためらいがちにそう言った。提案することに、不安があるんだろう。カエさんがこの家に来てからというもの、あたしがカエさんが焼いたお菓子を口にしたこと、なかったから。
「……それでいい」
「わかったわ。今持ってくるわね」
 カエさんは、キッチンに行ってしまった。しばらくして、二人分のティーセットと、クッキーを持った鉢をお盆に乗せて、戻ってくる。
「好きなだけ食べて」
 あたしはクッキーを手に取った。レーズンがたくさん入っていて、ほんのりとバニラの香りがする。
 我が家に来るお客さんの間でも、カエさんの作るお菓子は評判がいい。あたしは今まで食べたことがなかったから、わかってなかったけど……確かに美味しい。
 あたしが今まで拒絶し続けてきたにも関わらず、一言「食べたい」と言ったら、すぐにクッキーを出してきた。カエさんは、そういう人だ。
 なんで……なのかな。あたしにはわからない。
「カエさん、あのね……リンのことなんだけど。今のままいいと思う?」
 カエさんの表情が、さっと翳った。本気でリンのことが心配なんだ。……あたしたちを置いて行った、お母さんとは違って。
「今回は破談になったけど、お父さん、またリンにお見合いをさせようとするかも。お父さんのことだから、相手を肩書きでしか見ない。またろくでもない人だったら、今度こそリンは、立ち直れないぐらい傷つくんじゃないかって気がする」
 あたしはそういう世界に詳しいわけじゃないけど、ああいう人はたくさんいそうな気がする。お父さんは、とにかくリンをどこかに片付けたがってるし。相手の中身なんて気にしないだろう。
「リンのこと、あれでいいとは思ってないわ。お母さんだって、リンには幸せになってほしい。でも……」
 お父さんに逆らう気はないってこと? でも、カエさんには、お父さんに逆らってもらわなくちゃ。あたし一人では、限界がある。
「カエさん。リンが高校生の時につきあっていた相手のこと、憶えている?」
「……ええ。高校の同級生だったっていう男の子でしょう? ハク、リンから聞いたの?」
 あたしは頷いた。あたしが時々リンと話をしていたことを、カエさんは知っていたようだ。
「リンはね、まだ、その男の子のことが好きなの。ずっと忘れてない」
 カエさんの目が、大きく見開かれた。相当驚いたようだ。
「でも……その男の子は、リンを諦めて外国へ行ってしまったって……」
「カエさん。カエさんはリンの幸せを心から望んでるって信じるから、本当のことを話す。諦めたんじゃなくて、諦めたようにみせるために、外国に行ったの。二人の気持ちは変わってない。隠れてこっそり連絡を取り合ってる」
 カエさんは目を見開いたまま、固まってしまった。……どうかカエさんがあたしたちの味方になってくれますように。お父さんの側についたりなんか、しませんように。
「リンは今でもレン君のことを本気で想ってるし、レン君の方もそう。レン君は、リンが危ない目にあったって、ものすごく心配してるの」
 カエさんは黙って視線を伏せてしまった。いろんな情報をいきなり知らされて、混乱しているみたいだ。
「あたし、リンはもうこの家にはいない方がいいと思う。レン君もレン君の家族も、リンを預かりたいって、言ってくれているし。レン君のところに行かせてあげた方が、リンのためだと思うの」
 あたしは、カエさんに頭を下げた。
「一生のお願い。リンを、レン君のところに行かせてあげて。この家にこれ以上、縛り付けるんじゃなくて、自由にしてあげて」
 あたしの一生のお願いに、どれだけ効果があるのかはわからない。でも、あたしは本気で、なんでもする気だった。リンの為に。
「……今の話は、全部本当なのね?」
 やがて、カエさんが消え入りそうな声でそう訊いてきた。疑っているというより、確認するような口調で。
「本当よ。疑うんなら、レン君のお姉さんに会って話することだってできるわ。あたしの話を、裏付けてくれるから」
 カエさんは難しい表情をしていたけど、やがて瞳を拭って、一つ頷いた。
「じゃあ、そのお姉さんとやらに会わせてもらえる?」


 あたしはメイコ先輩と連絡を取り、数日のうちに、二人が会えるように手はずを整えた。まだ、バラすわけにはいかないから、秘密裏に。お父さんに知られてはいけないのはもちろんだけど、リンにも教えたくない。先走って教えて、途中で話が駄目になったりしようものなら、リンは今度こそ寝込んでしまう。レン君が確実に迎えに来れるようになるまで、黙っていた方がいい。
 メイコ先輩と会ったカエさんは、あれこれ尋ねた。そのほとんどは、リンとレン君のことだった。メイコ先輩は一つ一つの疑問に丁寧に答え、それからレン君の現状も話してくれた。
「うちの母にも了解を取りました。リンちゃんを連れてきてもいいと言っています。レンにはまだ話をしてませんが、反対するはずはないでしょう。もともと三年前から、リンちゃんを連れて行きたがってましたから」
「……わかりました。リンを連れて行ってください。それがあの子のためです」
 カエさんは、メイコ先輩に頭を下げた。目に涙が浮かんでいる。メイコ先輩が、カエさんの手を握る。
「大丈夫です。レンを、好きになった子を不幸にするような、そんな男に育てたつもりはないですから」
 カエさんは何度も何度も頭を下げて、メイコ先輩にリンのことを頼んだ。
「……辛いですよね。大事に育ててきた娘さんを手放すんですから。レンにはリンちゃんを絶対幸せにするよう、強く言っておきます」
 お願いしますと言って、カエさんは目を拭った。淋しそうだけど、同時に安心もしているみたい。あたしも胸を撫で下ろした。
「レン君は、いつ迎えに来れますか?」
「リンちゃんのためだって言えば、すぐに飛んで来ますよ」
 カエさんは考え込む表情になった。それから、あたしの方を向く。
「ハクは、どうするの?」
「あたし?」
 カエさんはためらいがちに、少し視線を伏せ気味にしている。言いにくいみたい。
「……ハクはこれから、どうするの? 部屋に引きこもるのはやめたにしても、ずっと今の状態というわけにもいかないでしょう?」
「あ……うん」
 確かに今のところ、あたしは基本的に一日家にいる。マイコ先生のところのバイトは、事情を話して休ませてもらってる……というか、もともと、あたしはいなくても構わないのよね。多分このバイトは、あたしの状態を知ったメイコ先輩が、ボスのマイコ先生に頼み込んだんだろう。いつまでも家の中にいてはいけないって。
 メイコ先輩も、マイコ先生も、あたしのことを心配してくれている。マイコ先生なんて、本当はあたしの世話を焼く理由なんてないはずの人なのに。そして多分……カエさんも。
「あたし……できることなら、学校に行って勉強のやり直しをしたい」
 何か、自分にできることを見つけたかった。そうして、あの家を出たい。いつまでも、あんな家にいたくない。
「あの家で、お父さんの機嫌を伺うのはもう嫌。リンもいなくなっちゃうし……。だから、あたしは、家を出たい」
「そう……わかったわ。じゃあ、ハクも家を出るのね?」
「……うん」
 あたしが頷くと、カエさんはまた淋しそうな表情になった。
「メイコさん。しばらく、レン君を呼ぶのを待って貰えますか。準備したいことがあるんです」
「それは構いませんが……差し支えなければ、何の準備なのか聞かせてもらえますか?」
「夫と離婚しようと思うんです」
 あたしは呆気に取られてカエさんを見た。
「カエさん、離婚するんなら、何も……」
 リンはもう二十歳だ。カエさんについていきたいといえば、お父さんだって多分引き止められない。二人が離婚したら、リンは確実にカエさんを選ぶだろう。離婚できるのなら、どうしてお父さんがリンをお見合いさせようとした時に「リンを連れて出て行きます」って言わなかったの? そうしたらもっと簡単にリンを守れたのに。
 まさか……あたしのため? あたしが引きこもっているから、離婚を思いとどまってたの? カエさんとお父さんの間に、いわゆる愛情がないのにはずっと前から気づいていた。お父さんにとってカエさんは、子供の面倒を見て家を整理してくれる人に過ぎないってこと。カエさんにとってのお父さんは……何なんだろう?
「離婚……なさるんですか」
 さすがにメイコ先輩も驚いていた。いきなり離婚話になったんだもの。
「ええ。初対面のメイコさんにこんな話をするのは何ですけど、私と夫は愛情があって結婚したわけじゃありません。結婚したのは、お互いの利害が一致したからです。ですがルカは結婚しましたし、ハクも家を出ると言いました。あの家に、私はもう必要ないんです」
 淡々とカエさんは言った。やっぱり……あたしのことを考えて、家に残ろうとしていたんだ。あたしって、本当にバカだ。
「準備ができたら、こちらから連絡します。そうしたら、レン君を呼んで下さい」


 帰宅したカエさんは、どこかに電話をかけていた。離婚のために、弁護士さんを探すんだろう。
 あたしは自分の部屋に戻る前に、リンの部屋を覗いてみた。リンは相変わらず、ぬいぐるみを抱いてぼんやりしている。
 もうしばらくだけ我慢して。そうしたら、あんたの王子様が、ちゃんと迎えに来てくれるから。

ライセンス

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  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その三十【一歩踏み出す時】後編

 今回はハクの話です。

 それにしても、マイコ先生といい、カエさんといい、尋常じゃなく忍耐強い人が多い話になってしまった。

閲覧数:886

投稿日:2012/06/30 18:43:59

文字数:4,120文字

カテゴリ:小説

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  • 水乃

    水乃

    ご意見・ご感想

    こんにちは、水乃です。

    ハク、結構好きなキャラです。あたしキャラ可愛い……(笑)ハクはいつも私キャライメージなので。
    リンとレンとお父さんの知らないところでこんなやり取りがあったとは…!
    あの二人の幸せって、この人たちのおかげで成り立ってるんですね。ハクも、やり直しを決めてやっていくこと、応援したいですね。

    2012/07/01 05:36:57

    • 目白皐月

      目白皐月

       こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。

       ハクは成人している設定が多いので、どちらかというと大人びたキャラクターの描写が多いですね。この作品のハクはやさぐれているキャラクターなので、こんな性格になってしまいましたが。

       ハクがカエさんと話をすることができていたら、三年前に状況は変わっていた可能性もあったんです。でも過ぎたことばかり悔やんでも仕方がない。少しでも、ベクトルを変えて歩いて行く。それに気づけただけ、ハクは幸運だったと思います。

      2012/07/01 21:25:07

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