Act1 鏡音リン
一階にあるリヴィングから、三階にある自室に戻ろうとした鏡音リンは、途中の二階で、とある部屋の前に立つメイコを見つけた。
その部屋はちょうどメイコの部屋の正面。空き部屋のはずだ。
レンからは何度も、あの部屋には絶対、どんなことがあっても近づくな、と言われている。
「メイコ姉、なにしてんの?」
リンが嬉しそうに駆け寄る。
「リン……」
そう言うとメイコは、真剣な面持ちでリンの頭を撫でた。
「……しばらく私はいなくなるけど、いい子にしてるのよ」
リンが目を丸くした。
「メイコ姉、どっか行っちゃうの? お仕事?」
「仕事じゃない……いえ、仕事以上の事よ」
メイコは何処までも真剣だ。
「私は今からカオスに飛び込むの」
「へっ? カオス? 何それ?」
もっともなリンの疑問。
「覗いてみて」
そう言いながら、メイコは目の前の扉を細く開けた。
「う、うん」
言われたとおり、リンが隙間を覗き込んだ。
「…………………………」
「リン」
メイコの声に、リンはあわてて後ろに飛び退いた。
「メ、メイコ姉! カ、カオス!」
メイコがカオスな訳ではない。
リンが見た扉の向こうには、本物のカオス。
天上もなく床も壁もなく、言葉にしようにも、言葉にならない、とらえどころ無く、そこにあるとも無いとも言えない異質の世界。つまり混沌(カオス)が広がっていたのである。
「な、な、なんで、こんな所がカオスなの?! リンが来た時からあったの?! レンは知ってるの?!」
矢継ぎ早にリンが尋ねる。
「カオスは私がこの家に来た時からあったわ。家主さんに文句を言いに殴り込み……いえ、どうしてこんな物があるのか聞いたけど、ボーカロイドシステムの根幹に関わる何かだろうとしか、教えてもらえなかった……というか、家主もよくわかってないみたいね」
存在理由自体が、カオスなカオスと言ったところだ。
「レンにはカイトが教えたそうよ。レンがこの部屋に興味を持った時にね」
「で、で、メイコ姉、こんな所に飛び込むの? なんで?」
これももっともな疑問。
「新たな声(DB)を手に入れるためよ」
「えっ、えっ、でも、でも、リンとレンが新しい声もらった時は、こんな所に飛び込まなかったよ」
「V2エンジンのリン達はいいのよ。V1の私が新たな声を得るには、ここに飛び込まないといけないの」
「じゃあ、じゃあ、カイト兄も?」
今年の初めにV1から、新たな声を得てV3に進化した兄カイト。
「ええ、飛び込んだわ。そして新たな声を得たのよ。だから私も行かないといけないの」
「か、帰ってこられるの?!」
「大丈夫だよ」
階段の方から、カイトの声。
リンがそちらの方を向くと、カイトとレンが立っていた。
「俺だってちゃんと戻ってこられたんだから」
隣でレンが頷いているが、なんだか遠い目をしてる。
「めーちゃん。行ってきなよ。めーちゃんが戻ってくるまで、俺、頑張ってこの家守るから」
「カイト……」
「めーちゃんなら大丈夫。ちゃんと戻ってこられるよ。俺、信じてる」
「うん。待っててね。じゃあリン、レン、カイトの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
そう言って扉を開けると、メイコはカオスに飛び込んだ。
「メイコねえーー」
即座にカイトが動き、カオスの中に手を差し伸べようとするリンを押さえると、扉を閉めた。
「カイト兄、メイコ姉大丈夫?」
「大丈夫だよ」
不安そうなリンを安心させるように、カイトがいつもの優しい笑顔で微笑む。
「なあ、カイト兄」
レンがリンの隣に立った。
「メイコ姉、カオスに飛び込むの、今日じゃないとダメなのか?」
「別に。いつでもいいんじゃない」
気軽に応えるカイト。
「じゃあ、もう一個聞くけど、松阪牛のステーキ肉貰ってきたの、メイコ姉に言わなかったのはわざとか?」
ステーキ用肉(松阪牛サーロインA5等級各200グラム)は、今日二人で行った仕事先のマスターからもらった物だ。
「言った方が良かったかな。さっきキッチンで中を見たら、三枚しか入ってなかったけど」
「……いや。良い判断だ」
意外に情け無用なカイトとレン。
ちなみに本日、ミクはお仕事。ルカはがくぽと出かけている。
「えっ、お肉?! 松阪牛?! ホント? カイト兄」
さっきまでの不安な様子から一転。リンの顔が輝いた。
「そうだよ。めーちゃんが行っちゃったから、一人一枚食べられるよ」
突っ込みを入れたそうに、レンがリンとカイトを見た。
「やったー。リンのはミディアムで焼いてね」
「うん、いいよ。レンは」
「……レアで」
「わーい、おにくー、おにくー」
最早カオスに飛び込んだメイコの事を、あっさり、さっぱり、忘れているリンなのであった。
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