注意書き
 これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 外伝三十九『家族の定義』の、ガクト視点の続きとなっています。
 なるべくなら、『好きという気持ち、嫌いという気持ち』まで関連の外伝を読んでから、読むことを推奨します。


 【いつか道の開ける時が】


 ルカの様子がおかしくなった、次の日。ちなみにこの日は夫婦の寝室で寝る気になれなかったので、俺は毛布を持ち出してソファで寝た。そのせいで、少し首が痛い。
 ルカはというと、相変わらず様子がおかしい。叫び続けるのはしばらくするとやめてくれたが、今度はぼんやりと座ったままで、何も反応しなくなってしまった。食事の時間になっても部屋から出てこなかったので、俺とお手伝いさんの二人で食卓まで連れて行くと、さすがに食事はしてくれた。だがそれも心ここにあらずといった様子で、何を食べているのか理解しているのかすらあやしい。最初のうちは言葉をかけてみたりもしたが、返事が返って来ないので、空しくなってやめてしまった。
 今日は確か、義母が来るはずだ。起き上がって、寝室に行ってみる。ルカは目は覚ましていたが、ベッドに座って壁を眺めているだけだった。おはようと言ってみたが、返事はない。着替えをさせて、居間へ連れて行き、食事をさせる。……お手伝いさんも心配そうだ。
「旦那様、今日はこの後はどのように」
「……とりあえず、普段どおりの家事をしていてくれ。ルカは俺が見ているから。それとお義母さんが来るはずだから、昼食は四人分頼む」
「わかりました」
 お手伝いさんは、家のことをしに行ってしまった。……さて、どうしたものか。ルカは相変わらず無反応だ。そうだ、明日は病院に連れて行こうと思っていたが、今までこの手の病院になど行ったことがない。少し情報収集をしておこう。
 俺はノートPCを持ってくると、この手の診療所の情報を探し始めた。……思いの他こういうことで悩む人はいるようで、検索をかけるとたくさん引っかかる。病院のサイトはもちろん、闘病記なども。
 ついうっかり闘病記の一つを開いて読みふけってしまい、俺は気分が悪くなってしまった。いや、気分が悪いというのはおかしいか。落ち着かないというか、いたたまれないというか、心をねじあげられるような感覚だ。自分の身に、こういうことが起きるとは思っていなかったが……。
 俺はPCを閉じ、天井を見上げて息を吐いた。果たして俺はこの先、ルカとやっていけるのだろうか。それとも、今のうちに離婚する? ルカがこの状態なら、ミカの親権は俺の方に来るだろう。ルカと離婚するということは、巡音の家を出るということだから、俺はここを出なくてはならなくなる。つまり出戻りということで……。実家の両親の反応が怖いが、ミカのためならわかってくれるかもしれない。
 離婚しても、ミカのことはなんとかなる。だが、ルカはどうなる? この家で一人で暮らすというのは無理があるから、実家に帰ることになるだろう。実家には、サトミさんと、ルカの腹違いの弟のカズキ君がいる。……どう考えてもルカにいい空気ではない。それに義父のことだ。新しい家族の邪魔になるからと、ルカを追い出すことだってやりかねない。
 俺はますます憂鬱な気分になった。一体、どうするのがいいのだ? ルカを今の状態の実家になど、戻したくない。妙なことになっているが、ルカは俺の妻で、ミカの母親であることには変わりないのだ。
 悩んでいると、インターフォンが鳴る音がした。義母が来たようだ。オートロックのマンションなので、出入り口を開けて義母が入れるようにする。やがて入ってきた義母は、挨拶もそこそこに、ルカの様子を尋ねた。
「変わりない……というか、ずっと妙です」
 俺の答えを聞いた義母は心配そうな表情で、靴を脱いで家にあがった。義母を連れて居間に戻る。ルカはさっきと同じ姿勢で、椅子に座っていた。
「ルカ!」
 義母はルカに駆け寄った。ルカがゆっくりとそっちを見る。そして、強張った表情になった。
「ガクトさんから話は聞いたわ。一体どうしてしまったの?」
「……別に」
 ルカはふいと横を向いた。義母がその視線の先に回りこむ。
「別にじゃないでしょう。ミカちゃんをロフトに入れたりして……」
「悪い子はロフトに入れるの」
「お父さんのしたことは忘れてちょうだい!」
 義母が叫び、俺は呆気に取られて二人を見つめた。義父は、そんなことをやっていたのか?
「ロフトに入れたら、ハクもリンも大人しくなったわ」
「ルカ、あなたは恐怖に怯えて大人しくなるのを、いいことだと思うの? ハクもリンも、あの件で心に深い傷を作ったわ」
「……うるさいのは悪いことよ」
 また平行線になってきた。果たして、収拾がつくのだろうか。……ついてほしい。
「ミカちゃんはまだ二歳よ。うるさくても、多少は仕方がないの。憶えてないかもしれないけど、きっとルカだって……」
 義母はそこで言葉を詰まらせた。……義母は、ルカが二歳の時を知らない。だから、断言することができない。
「とにかく、ロフトに入れて放っておくなんて良くないわ。ぬいぐるみの耳を切ったり、絵本を破ったりなんてもっと良くない。どうしてそんなことをしたの?」
 義母は強引に言葉を続けた。ルカが目をそらし、黙り込む。
「ルカ? ちゃんと思ったこと、口に出して言ってちょうだい」
 ルカは相変わらず答えない。義母はルカの手を握り、間近から顔を見つめた。ルカが下を向く。
「……今さら、口出ししないで。出て行ったくせに」
 やがて、ルカは消え入りそうな声で、それだけを言った。義母が、わずかに身を引く。その顔にはショックを受けた表情が浮かんでいた。
「ルカ、お義母さんにそんな口を利くもんじゃない」
 思わず、俺は口を挟んでしまった。ルカがこっちを見る。
「……私は悪くない」
「お前はそれしか言えないのか!?」
 さすがに、俺も激昂してしまった。どうしてこう「悪くない」ばかりなんだ? そんなことを言われたところで、同意などできない。ルカのやったことは、どう考えても問題だ。
「だって悪いことはしてないもの! そもそもカエさん、何しに来たのよ!? 私のことなんかどうでもいいんでしょう!? もう放っておいてよ! 構わないで!」
 ルカがすごい勢いで叫ぶ。俺は思わず耳を押さえかけた。
「おいルカ、お義母さんは心配して来てくれたんだぞ。なのに……」
「カエさんが本当に心配してるのはリンだけよ! 私のことなんてどうでもいい! いつだって、リンのことばっかりだったじゃない!」
 ……何がどうなっているんだ? どうしてここでリンちゃんの話がでてくる? わからないことだらけで、頭痛がしてくる。
「とにかく落ち着け! そんな叫んでいても何も……」
 ルカはまた叫び続けている。スイッチが入った、とでも言うのだろうか。どうしようもなくなったので、俺はルカを自室へと連れて行こうとした。このまま叫ばれ続けていても、対処のしようがない。しばらく一人にしておけば、昨日と同じように、いずれは叫ぶのをやめるはずだ。
 ルカを引きずって立ち上がらせようとする。と、不意に義母が俺を引き止めた。
「ガクトさん、待ってください。ルカ、話を聞いて」
「カエさんとする話なんかない!」
 義母は腕を伸ばすと、ルカの頭を自分の胸にぎゅっと抱え込んだ。ルカが義母の腕から抜け出そうともがく。
「ごめんね。……気づいてあげられなくて」
 不意に、ルカが静かになった。叫ぶのももがくのもやめて、大人しくしている。
「ルカは……ずっと、淋しかったのね。気づいてあげられなくて、ごめんね」
 そう言って、義母はルカの背を撫でた。


 義母の前でひとしきり泣きじゃくった後、ルカはまた心ここにあらずといった状態になってしまった。……残念ながら、治ったわけではないらしい。
「それでも、原因らしきものがわかっただけでもいいと思います」
 俺の目の前で、義母は思いつめた表情でそう言った。ルカは自室に戻らせたので、今ここにいるのは、俺と義母だけだ。
「俺には、まだぴんとこないんですが。淋しかったって、どういうことですか?」
「以前話したと思いますが、私が夫と結婚した時、ルカは九つ、ハクは六つ、リンは二つでした。当時からルカはお行儀のいい『いい子』で、なんというか、全くといっていいほど手がかからなかったんです。一方、ハクとリンはとにかく手がかかって、だから……ルカをあまり構ってやれなかったんです」
 その間、義父は何もしなかったのだろうか。……しなかったんだろう。それは、想像がつく。
「今思うと、未熟だった私はルカに甘えてしまっていたのかもしれません。そんなことを、してはいけなかったのに」
 義母は淋しげな口調でそう呟いた。言いたいことはなんとなくわかったが、それだけであんな風になってしまうものだろうか? 俺にはまだよくわからなかった。
「ですが、ルカはもう大人ですよ。俺と結婚したのだし、そんな昔のことにこだわらなくても……」
 それとも、俺は自分でもわからないうちに、ルカにストレスを与え続けていたのだろうか? さすがにショックだ。自分なりにいい家庭を作ろうと、できることは全部やってきたつもりなのに。
「ルカは俺に不満があるんでしょうか?」
「それは、わかりません……でも、不満があるとか、そういうのではないと思います。不満があるというより、不満がないからああなってしまったのかも」
 義母の言っていることがわからない。それが顔に出たのだろうか。義母は困った表情でまた俯いてしまった。
「すみません、私もどう説明したらいいのかよくわからなくて……ただ、ルカは昔のことを引きずっているのは確かだと思います。……ハクもそうでしたし」
 ハクさんか……ルカとはかなり確執があったようだが……。
「ハクさんは大丈夫ですか?」
「一応、連絡を取ってみますね」
 義母は携帯を取り出した。やがて向こうが出たらしく、そのまま話し始める。しばらく話すと、義母は通話を切った。
「今のところ大丈夫だそうです。ミカちゃんも元気だそうですよ」
 少しだけ、心の緊張が緩んだ。
「それでガクトさん、これからどうするつもりですか?」
「どう……とは?」
「ルカとのことです。もし重症と判断されたら入院なのか、通院なのか。その間ミカちゃんはどうするのか、そして……その、ルカと別れるつもりがあるのか、どうなのか」
 義母にそう訊かれて、俺は考え込んだ。さっきも考えたことだが、ルカと離婚したいかしたくないかと訊かれたら、まだ離婚はしたくない。ルカに対する自分の感情は、自分でもよくわからなくなってしまったが、それでも、俺はルカに対して責任を感じていた。ここで放り出すなんてことはできない。
「離婚は考えていません。こういった症状のことはよくわかりませんが、治療できるものなら、治療してやりたい」
 俺がそう言うと、義母は少し押し黙ってしまった。何か考えているようだ。
「でもガクトさん、そうなるとミカちゃんはどうするのですか?」
「えーと……申し訳ないのですが、その間はお義母さんに預かってもらえないかと……お手伝いさんがいるとはいえ、ルカとミカを一緒にしておくのは不安で……」
 メイコさんに言われたことも引っかかるし、今の状態のルカとミカを一緒にしておくのが、いいとは思えない。そうなると、結局こういうことになる。
「あの……そのことなんですけど」
 義母は思いつめた表情で、口を開いた。そのまま、静かだがきっぱりした口調で続ける。
「私のもとにずっとミカちゃんを置いておくのは、良くないと思うんです。ミカちゃんのことは可愛く思っていますけど、私は結局、ミカちゃんとは血が繋がっていないわけですし」
 ……そこまでへりくだる必要はないような気がする。
「それに、ミカちゃんにはやっぱり、親が必要だと思うんです。両親のどちらも身近にいないなんてよくありません。だから……ミカちゃんではなく、ルカの方を預からせてもらえませんか?」
 さすがに俺は驚いた。
「預かって……どうするんですか?」
「私は、ルカに母親らしいことをほとんどしてあげられませんでした。償いになるのかどうかわかりませんけど、ルカとやり直せるのなら、やり直したいんです」
 そこまで言ってから、義母は少し困った表情になった。
「あ、今、こう言いましたけど……ハクとは話し合いをしないと。あの子、ルカとは上手くいっていないから……」
 義母は唇を軽く噛んで、それからまた下を向いてしまった。
「ハクさんはどうして、あんなにルカを嫌うんです?」
 と、こんなことを訊いてしまっていいのだろうか。だが、言葉は既に口から出てしまっていた。それに、どうしてもわからない。
「……ルカは優等生のいい子で、ハクはいつも姉と比べられて、それでかなり辛い思いをしたんです。私がもっと上手にフォローしてあげられたら良かったんでしょうけど……」
 俺が知らなかっただけで、随分と色々あったようだ。正直に言ってしまうと、少し面白くない気分だった。誰も、何も話してくれなかったのだから。
 だが、そのことで目の前にいる人を責めても、きっと何も変わらない。俺のすべきことは、それじゃない。
「とにかく、明日、ルカを病院に連れて行ってから。全てはそれからです」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その四十二【いつか道の開ける時が】前編

閲覧数:601

投稿日:2012/11/22 23:20:43

文字数:5,506文字

カテゴリ:小説

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