初音ミクとか鏡音リンとかが平和的にドタバタ暮らす的な二次創作小説を読み飽きた僕はそろそろボーカロイドのキャラクター化の気持ち悪さについて考える。
そもそも音楽において、とくにバンドなどにおいて、その演奏者やらのキャラクターとかヴィジュアルというのはある程度重要で、人によってはそれで選ぶ人もいることだろうと思う。
もっとさかのぼれば、たとえばクラシックの世界なんかでは――僕は詳しくないが――もはや、「曲は知らないが、曲を作った人は知識として知っている」なんていう不思議な現象がまかり通っている。モーツァルトとかベートーベンとか、ろくに聴いたこともないが、とにかく名前と説話だけは知っている。
まあ、もっとも最近では、そのクラシック関連の人々にまつわる「伝説」は、たいていが嘘っぱちだということがわかってきてしまったわけなのだけど。
で、その「伝説」がなぜ作られたのかを僕は考える。
それは間違いなく――「こんな曲を作る人は人となりもすばらしいに違いない」みたいな、そういう偏見に基づいているに違いないと思われる。それは過剰な想像力で、ひとつのものが素晴らしいなら、それに関連するものもすべてすばらしいと人は思いたいのだ。そのために人々は、作曲家たちを異様にリスペクトして謎の説話、尾ひれのついた伝説を作り出す。
人の想像力は現実を歪める。
けれど現実は現実でそこには現実が存在しているのだ。
いくら人が妄想しても想像しても最終的に、冷徹で冷静な現実がそこにあるのは間違いがない。だから人々はいつしか、その妄想が嘘っぱちだったと悟るし、それを反省する。だからこそ人の想像は悪いものとしてはとらえられない。
けれどボーカロイドに「現実」はない。
ボーカロイドは結局、音楽を作るための一つの部品であり、そのパッケージにキャラクターをはっつけて世に出しただけものにすぎないからだ。
僕は道具としてのボーカロイドを愛している。けれどキャラクターとしてのボーカロイドに気持ち悪さを覚えずにいられない。なぜならそれは、「妄想」でしかないからだ。
現実をあたかも抱えたように見せながら堂々と存在し、タイアップ商品などで人々に笑顔を振りまく初音ミクをはじめとしたボーカロイドたちには、じつはキャラクターという「現実」は存在しない。存在することができないと言い換えてもいい。
だからこそ、その笑顔に人々は勝手な自分の妄想を投影し、そしてそれを正当化することができる。
けれどそれに意味はあるのだろうか? もはやボーカロイドは音楽から逸脱して、単にキャラクターとして独立していってしまっているではないか。そしてその独立を支えるのは、人々の都合のいい、自分勝手な妄想で、そこに確固たるキャラクターはない。
――例えばその人が、「初音ミクは天然キャラ」と思えば天然キャラに早変わりし、ツンデレだと思えばツンデレになり、メガネだと思えばメガネをかけさせることができる。
そして、そのようなことは「実在の人間のキャラクター化」ならば、あくまで「妄想」として処理されるが、けれど「現実」「実在」を持たないボーカロイドは、その「妄想」こそが「現実」であり、誰からもとがめられることがない。
そんな自分勝手なままに、人間の傲慢さとかの象徴っぽくボーカロイドは存在してしまう。――
しかも、そこでのキャラクターは実は楽曲とは全く関係がない。たとえばツンデレだと思っていた初音ミクがツンデレでも何でもない、純粋なラブソング(「メルト」とか)を歌っていたとしても、それはそれで、また「自分勝手」に、頭の中で処理されるのだ。「これはこれ、それはそれ」だ。そんなものは実在の人間ではありえない。
つまりボーカロイドにキャラクターを見る人々は、自分の中に確固たるなにかの「初音ミク」「鏡音リン・レン」やらなにやらが存在している。それはもしかしたらメガネかもしれないしスクール水着かもしれないしブルマーかも知れないし天然かもしれない。しっかりものかもしれない。だが、楽曲において扱われるボーカロイドのキャラクターは、あくまで「それはそれ」で許容されてしまう。そんなの、要するに「なんでもあり」ではないか。
現に、それを具体的にあらわすものとして、初音ミクは「マスター」に対して無数に存在するかのような扱われ方をする二次創作小説は少なくない。それはわりと現実に即しているだろう。楽曲を作る上での遣いかたは人それぞれだからである。だが、それだけではなくそれは「妄想」にも即している。一人一人が心の中に初音ミクを持っていて、それぞれが好きなようにできるのだ。たとえば凌辱できるしたとえば緊縛できるという風に。だから、「妄想をする人間」=「マスター」に対して初音ミクは無数にいる。
僕が初音ミクをキャラクター化するなら、彼女は被害者だ。
人々のありとあらゆる妄想を押し付けられ、もはや本業であるはずの「道具」としてみてくれるのは、実際に楽曲を作る作曲師だけである。小説ではその書く人間の好きなように扱われ、コミックマーケットなどでは、彼女を性的目線からとらえた18禁の同人誌などが乱売されている。「現実」である「本業」はおろそかにされ、「人々の勝手な妄想」である「キャラクター」だけが増幅していく。
しかし一方で、ボーカロイドがこれほどまでに発展した理由もその「キャラクター性」がゆえである。
誰もが知っているが、KAITOやMEIKOは初音ミクよりさきに発売されていた。しかしそのときはまったく日の目を浴びていなかった。なぜならイラストがダサかったからである。より正確に言うなら「オタク向きではなかった」からである。
そして「初音ミク」では、「緑っぽい髪の毛のツインテール、露出度の高いアニメタッチな、さわやかなイラスト」を付随させることで、爆発的人気を得たわけだ。もしその「イラスト」≒「キャラクター」がなかったら、やっぱりボーカロイドは今ほど注目されなかったであろう。純粋な音楽制作ソフトはコアな人々にしか注目されえない。
ボーカロイドは今でもどんどん巨大化していっている。しかしその巨大化とは、いくらボーカロイドが人の声にちかい歌い方や発音ができるようになったとしても、そんなことは関係なく、結局のところは「キャラクター」としての発展である。ようは「ゆっくり」の発展形でしかないのだ、ボーカロイドは。発音がいくらつたなくてもかわいいキャラクターがいればそれで人々は満足するのだから。
しかしそこの「キャラクター」は、やはり繰り返す通り、実際には存在しない、人々のそれぞれの妄想によって形成されている。
つまりボーカロイドは人々の自分勝手な妄想を吸収し、それを内部に蓄えることで巨大化していくのだ。
そんなものが気持ち悪くないわけが、ない。
もしかすると、ボーカロイドはもはや人々の上に立っているのではないか。そんなことすら思ってしまうわけである。
僕はそんなことを思いながら今日もボーカロイドに歌ってもらうべく、拙い詩を書く。
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