−ガシャンー

 私が通過した後、その鉄板は剥がれかけたメッキと乾いた錆を磨耗させながら出入口を封鎖した。それを見届けると私は再び歩みを進めた。眼前に広がる大きな園庭の外縁に沿ってコンクリートが敷かれており、それで設けられた道の両脇には紫陽花の低木が等間隔で整列している。二ヶ月前までは紫陽花の花冠がこちらを伺っていたのだが、今ではもうその面影はどこかへ消えてしまっている。
 しばらく歩いていると、奥に警備員さんが見張っている金属製の門が見えた。目を凝らしてみると警備員さんの他にもう一人いることがわかる。ある程度進んだ後にその人の正体がわかった。お母さんだった。

「え、お母さん迎えに来てくれたの?」

 前もって手紙等を貰っていたわけでもなく予想だにしていなかったため、驚きのあまり間抜けな声を出してしまった。

「そうよ。」

 お母さんはそう言いながら私の背中に両手を回して強く抱きしめた。

「紗季、退院おめでとう。」

「ありがとう。」

 私は久しぶりに感じとれた体温とそれによって醸し出される香りを存分に堪能した。
 久しぶりの再会の余韻に浸りながらも私達は最寄りの駅へと足を進めた。ただ、私はこの余韻をもう少し楽しみたかったため気持ち遅めに歩くことにした。お母さんも同じ気持ちだったのか、急かすこともなくその歩速に合わせてくれた。最寄り駅までの距離は意外と長く、入院時の思い出を沢山話すことができた。お母さんは基本的に静かに頷きながら話を聞いていたが、新たな人物が登場したときには私との関係性や他の登場人物との関係性を聞いてきたりしていた。
 どうやら話をすることに熱中しすぎていたらしく、話がひと段落して辺りを見回した時には既に最寄り駅のロータリーを歩いていた。

「あそこにタピオカ屋さんあるから買って帰ろうか。」

 そう言いながら、お母さんはロータリー脇にある建物を指さした。どうやらその建物の中にあるらしい。しかし、一つ気になることがある。

「『たぴおかやさん』ってなに?」

 私には耳馴染みのない言葉だった。「やさん」と言うくらいだからおそらく何か物を売っているのだろう。お母さんの言い方的には食べ物っぽい印象を受けた。

「えっとね、タピオカっていうモチモチした粒の入ったミルクティーとかを売ってるお店のことだよ。ここ半年くらいですごく流行ったの。だから最近は駅前とかでよく見るようになったわね。」

「へぇ。」

 私が入院している間に不思議なものが流行っていたようだ。説明を聞いてもいまいちピンとこなかったが、おそらく美味しいのだろう。
 せっかくの機会なので買って帰ることにした。





《ご乗車ありがとうございました。まもなく獨協大学前、獨協大学前、お出口は右側です。》

 そのアナウンスで私は目を覚ました。半年間も電車に乗っていなかったが、身体は「このアナウンスで目を覚ます」というルーティンを忘れてはいなかったようだ。まぶたを持ち上げて首を左へ回すと本を読んでいるお母さんがいた。お母さんの読書好きは今も健在だった。

「あ、ちょうど起きたね。そろそろ荷物持とうか。」

 私が頷くとお母さんは網棚から鞄を下ろした。私もスーツケースの取手を伸ばして立ち上がった。
 電車から降りて西口ロータリーへ出ると、お母さんは奥の方を一瞥した後に東口ロータリーのタクシー乗り場へと向かった。その行動が気になって西口の奥の方を見てみると、公園の一部がパチパチと音を立てながら赤や黄に照らされていることがわかった。その正体に気づいた私はいても経ってもいられなくなり、お母さんを引き留めた。そして、帰る前に公園を散歩したいと伝えると少し戸惑った表情をしつつも「退院したんだし、まあ大丈夫か。」と呟いて了承してくれた。
 公園の正面に着くと先ほどの光だけでは想像もできないような美しい光景が広がっていた。幼い子供達やその親御さん達が何人もいて、子供達の手には先端から火花が流れ出す魔法のステッキが携えられていた。子供によって、そのステッキで地面に絵を描いている子やその辺を飛んでいる虫に火花を当てがう子もいた。今でこそ虫に火を当てることはしなくなったが、私も昔はよく虫を見つけては動かなくなるまで火を当て続けていた。
 しばらくそれらの光景に見惚れていると、風向きが変わったせいか火薬の焦げた芳しい香りが鼻腔を撫でた。私はこの「焦げ臭い」だけでは形容しきれないような独特な香りが昔から好きだ。加えて、ハッカの香りもほのかに漂っていた。おそらく虫除けスプレーの香りだろう。この二つの香りが混ざるとそれはもうなんとも言えない香ばしい香りとなり、私の鼻から脳裏へと駆け抜けた。

「紗季、どうしたの?」

 その一声でふと我に帰った。

「あ、ごめん。つい見惚れちゃってた。」

「え、花火に?」

「うん。」

 私が気持ち高めのトーンで頷くとお母さんは少し眉を顰めたように見えたが、すぐにいつもの表情に戻り一つ提案をしてきた。

「そっか。じゃあ、まだ退院したばっかりだし来年にやろうか。来年は家の庭で手持ち花火をやったり、お祭りに行って打ち上げ花火を見たりしよう。」

 どうやらお母さんはまだ私が入院していたことが気がかりらしい。私に気づかれまいとしているようだが、娘なだけあってなんとなく立ち振る舞いから感じ取れる。すぐにステッキに触れられないのは残念だが今回はその提案を受け入れることにした。
 その後、数分間その景色を眺めて公園を後にした。私的にはもう少し眺めていたかったが、お母さんが心配そうな顔でこちらを見つめていたので撤退することにした。





 タクシーを降りると目の前には懐かしの我が家があった。玄関の脇にこじんまりと佇むサボテン、若干錆びた庭の蛇口、そして大きな白樺の木。ほとんどが半年前の記憶と同じように配置されていた。唯一、私の記憶と違っているところは花壇の花がパンジーからマリーゴールドに変わっていることだった。
 しかし、家の中はだいぶ変わっていた。リビングの隅にあった大きなストーブは姿を消し、代わりに天井付近にエアコンが設置されていた。壁紙も全体的に交換されている上、キッチンのコンロもIHへと進化を遂げていた。

「リフォームしたの?」

「リフォームってほどのものじゃないけど、ある程度新しくしてみたの。今時エアコンがない家とかほとんど見当たらないでしょ? そういったことも含めて、全体的に時代に遅れてるような家だったから。」

 お母さんは苦笑しながらそう答えると、駅前で買った「たぴおかドリンク」を紙袋から出した。今、初めて全容を見たがカップの底に黒い粒々がいくつも入っていて、お世辞にも好んで呑みたいと思えるような見た目ではなかった。しかしせっかく買ったし、流行りの商品なので飲んでみようとは思った。
 席に着くとお母さんは私の前にそのゲテモノを置いて、それに太い棒を挿した。どうやらストローらしい。濃厚なミルクティーを絡めながら「たぴおか」というダークマターを楽しむことができるように太めに設計されたようだ。なんてありがた迷惑な設計だろう。
 そんなことを思いながら恐る恐るストローを咥え、吸い込んだ。すると当然、ミルクティーと一緒にダークマターも口内へと侵入してきた。「これはやばい」と思った瞬間、私の舌先を程よい弾力質が滑った。思いの外悪くない食感だったので、しばらく口の中で転がしてみることにした。
 タピオカは非常にモチモチしていた。お母さんから聞いた時は蒟蒻ゼリーのようなものを想像していたのだが、どちらかというと小さいお餅に近いような食感だった。好きか嫌いかでいえば割と好きな部類に入る食べ物だ。

「どう、悪くないでしょ?」

 頷くと、お母さんも飲み始めた。
 その後、私達はタピオカを楽しみながらこの半年間の出来事を振り返った。半年間といっても、私とお母さんは別々の半年間を歩んでいたので実質一年間分に相当しただろう。そんな中で私が最も気になった話は、お母さんがフランス料理を極めたという話だった。

「え、ビスクも自分で作ったの?」

「そうよ、ほぼ全部作れるようにしたわ。」

 お母さんがフランス料理を好きなことは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。でも、そうすると一つ気になることがあった。

「ハンバーグが入ったものとかも作ったの?」

「作ったよ。そういえば紗季はハンバーグ好きだったね。今度作ってあげるね。」

「ありがとう。でも、IHだと炎でないからフランベとか難しくない?」

「え、あぁ、まあフランベしなくてもハンバーグは作れるから。」

 嘘だ。確かにフランベはしなくてもハンバーグを焼くことはできる。でも凝り性なお母さんのことだ。フランベをやってるに違いない。多分、別途にガスコンロは用意してあるのだろう。
 もう少し言及しようか考えたが怪しまれても困るし、お母さんが話題をそらしてきたので今回はスルーすることにした。
 ふと時計を見ると、短針が「1」と「2」の間を示していた。私につられてお母さんも時計を見上げたらしい。

「あら、もうこんな時間じゃない。遅いしお風呂は起きてから入る?」

「うん、そうする。」

「じゃあ、今日はもう寝ちゃいなさい。お母さんはお風呂入ってから寝ようかな。」

「わかった。おやすみ、お母さん。」

「おやすみ。」

 そして私は二階へと上がった。
 久しぶりの自室へと入ろうとした時、お母さんの部屋の扉が半開きになっていることに気づいた。お母さんの部屋を見るのも半年ぶりだったので入ってみることにした。
 中に入るとドルチェ&ガッパーナの香水の香りが漂っていた。お母さん愛用の香水だ。周りを見渡すとゴルフクラブを入れたバッグや猟銃などが立て掛けてあった。どうやら趣味は以前から変わっていないようだ。ただ一つ、以前はデスクの上にあった灰皿が消えていた。帰り道でもお母さんから聞いていたが本当にタバコをやめたらしい。いや、どうだろう。ドルチェ&ガッパーナの香りの中に微かに脂の香りが混じっている。もしかすると私に隠しているだけで本当はまだ続けてるのではないだろうか。
 そう思い少し部屋の中を物色していると、デスクの上から三段目の引き出しから灰皿とライターが出てきた。

「やっぱりあった。」

 あの日以来、火元類を隠すようにしているのだろう。それらをデスクの上に置くと、隣に新聞紙があった。

「これ燃やそっかな。」

 それにライターを近づけると紙面の記事が目に入った。


《埼玉県 性的衝動放火事件》
 一月二十八日午前二時頃、埼玉県草加市のそうか公園にてテニスコート脇の物置小屋から出火した火災。利用者の学生の女性(17)が非現住建造物放火で逮捕された。管理者は物置小屋が木造建築であったため、発火原因になりうる物資を除いていたという。消火器や消火栓等が備わっており、草加市消防局には違法で危険な施設という認識はなかった。容疑者は出火した物置小屋の前で自慰行為を行っており、警察が到着した後に放火を認めたため逮捕された。その後、家庭裁判所にて精神的に著しい障害があるとして医療少年院へと送致する処分を決定した。





 紗季は置いてあったライターを付けて、それに近づけた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

ピロラグニア

 歴史を知ることによって、同じ世界が違って見える。
 大切なことですよね。

閲覧数:81

投稿日:2020/11/12 14:14:53

文字数:4,681文字

カテゴリ:小説

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