これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
 外伝その四十七【うちへ帰ろう】のルカさん視点とその続きです。
 また、外伝その四十三【心安らかなる時を】からも続いていますので、そちらまでのエピソードを読了後、読むことを推奨します。


 【嫉妬は愛の子供】


 母と暮らすようになって、どれくらい時間が過ぎたのだろうか。平穏に過ぎたと言いたいところだけれど、実をいうと上がったり下がったりだった。よく衝突したし、私が衝動を抑え切れなくて、泣いたり喚いたりしたこともあった。
 母は決して「いい年をして、みっともない」などということは言わなかった。とてもみっともないことなのに。信じられないような辛抱強さで、黙って私の嵐が過ぎ去るのを待ってくれた。
「落ち着いた? もう、やっちゃ駄目よ」
 どうして、私はこんな風になってしまったのだろう。私は時折、苛立ちを家事にぶつけた。家の中をピカピカになるまで磨き、カーテンなども全部洗濯した。
「ルカ、大掃除は毎日やらなくてもいいのよ。でもすごいわね。こんなに綺麗にできるなんて」
 料理やお菓子の作り方も教えてもらった。教室が終わってから、二人きりで。料理は、パンを焼くより簡単だった。でも、パンの方が面白い。私は、色々なパンを焼いてみた。クロワッサンが綺麗に焼けた時は、ものすごく嬉しかった。とても難しいパンだと、言われていたから。実際、手間もかかるし、大変だった。
 そうして、時間が過ぎて行った。母は季節のあれこれを気にかける人だから、お正月にはお節とお雑煮を作り、三月にはちらし寿司を作った。十月にはカボチャのパイを焼き、十二月にはクリスマスケーキとローストチキンの準備をした。
 ……考えてみれば、それは実家にいる時からそうだった。いつの間にか当たり前になっていたけれど、今、私の目の前にいる母が来るまで、それは当たり前ではなかったのだ。
「どうして、お父さんと結婚したの?」
 そう尋ねると、母は困った表情になった。
「……成り行き、かしら。お母さんね、若い頃はパティシエをしていたの。仕事がすごく楽しくて、あまり他のことは考えられなかった。だからおつきあいする人もいないうちに、年を取ってしまって」
 パティシエをしていた、というのは、なんとなくわかる。うちに来た次の日に、ケーキを焼いていた。そうか、もともとプロだったんだ。
「どうして辞めたの?」
「病気になって、働けなくなったの。なんとか治ったけど、前の勤め先には新しい人が入っていたし、回復したばかりで、体力的にも前のように仕事ができる自信がなかった。困っている時に、お父さんとのお見合い話が来たの」
 そんな話は初めて聞いた。……今まで、気にしていなかったこと。その事実に、心がちくりと痛む。
「結婚して家庭に入るのも、いいかなって思えたの」
 父と母が再婚した時、私は小学校の三年生だった。ハクは幼稚園の年長。リンに至っては、まだ赤ちゃん同然だった。
「お父さんのこと、好きじゃなかったんだ」
 母はまた困った表情になって、頷いた。別にそれはいい。父と母が愛で結ばれた夫婦だなんて、誰も思っていないもの。私だって、ガクトさんのことが好きで、結婚したのではないし。
 ……妹たちのことが、頭を過ぎった。リンは父の薦めた縁談を蹴って、駆け落ちした。ハクも、自分で相手を選んだ。
「こんなこと言うのもなんだけど……お父さんがお母さんに求めていたのは、『娘たちの母親』だったから。その役割を果たしていれば、何も言われなかった」
「自分の子供、欲しくなかったの?」
 昔のことを思い出す。小さかった頃、私は、母はいつ子供を産むんだろうと思っていた。……そうしたら、きっと、リンに構わなくなるって。
「そのことだけど……お母さん、昔の病気のせいで、子供が産めなくなっていたの。お父さんと結婚したの、それもあったと思う」
 さすがに驚いた。そしてもう一つ、思い出す。離婚したばかりの時、母は私に「養子縁組は解消していないから」と言った。私だけとは考えられないから、ハクやリンとも養子縁組をしているはずだ。
「私たちとの養子縁組って、お父さんが言い出したの?」
「ううん、それは、お母さんから。お父さんに三人全員と養子縁組したいって言ったら、『好きにしろ』って言われたし」
 だから好きにしちゃった、と言って、母はくすっと笑った。


 そうやって過ぎて行った時間の中、少しずつ異変は起こって行った。母が疲れやすくなり、食欲が落ちた。「もう年かしら。ギリギリまで、お教室は続けたいけど」と苦笑いする母は、明らかにどこか具合が悪そうだった。
 私は病院に行ってくれと頼んだ。母はあまり病院には行きたくなさそうだったが、私が再度懇願すると、しぶしぶ、重い腰をあげてくれた。いわゆる「人間ドック」に連れて行き、出た結果は……癌だった。
 結果を教えてもらった時、私の頭の中は真っ白になった。癌。しかも、状態は芳しくないとのことだった。一体、どうしたらいい? どうしたらいいの?
 パニックになった私は、自分でも信じられないような行動に出た。ガクトさんに、電話をかけたのだ。長い間ずっと、連絡すら取らなかった、私の夫に。正確に言えば、連絡を取らなかったのは私だけで、ガクトさんからは、小まめに連絡がある。この家に来たこともある。でも私はどんな顔をして会えばいいのかわからなかったので、ガクトさんが来た時は、意図的に部屋にこもってしまっていた。そんな私に、母は「会えばいいのに」と少し悲しげに言うのだが、会うことを強制しようとはしなかった。
 こんな相談をもちかけるなんて、ものすごく虫のいい話だ。今まで放っておいたのに、困った時だけ、頼るの? どれだけ図々しいのだろう。でも、他に誰も、頼ることのできる人が思いつかなかったのだ。
 ガクトさんはパニックになった私を宥め、相談に乗り、母の治療のことも、力になると言ってくれた。話し終えて、電話を切った瞬間、瞳に涙がこみ上げる。……ガクトさんは、私があんな態度を取っていたのに、一言も私を責めなかった。私は、その好意に報いるようなことを、何一つできなかったのに。
 そしてその次の日、私はガクトさんと一緒に、母を病院に連れて行って、治療の方針を話し合った。母は入院はしたくないという。しばらくは通院での治療になりそうだった。
 癌の治療は、副作用が激しい。母はため息混じりに「お教室、かなり休まないとならないわね」と言った。……ひょっとして、お金のことが心配なのだろうか。私は仕事をしていないから、収入がない。何かしておくんだったと、今更ながらに悔やまれる。
「……ルカ、久しぶりに会ったんだし、ガクトさんと少し話をしてきたら」
 母に突然そう言われて、私は驚いてしまった。ガクトさんにはこんなに色々してもらったのだし、話をするべきなのかもしれない。でも、母は病気だ。
「お母さんなら一人で帰れるから。ね?」
「でも……」
 一人で帰らせていいとは思えない。でも当の母にこう言われてしまうと、それに異を唱えることもできない。私が迷っている間に、母はさっさとその場を去ってしまった。私とガクトさんだけがそこに残される。
 私はガクトさんに連れられて、病院の外に出た。外にあるベンチに、二人で座る。
「あ……えーっと……お義母さんのことで頭がいっぱいだったが、こうやってルカと話すのは、本当に久しぶりだな」
「え、ええ……」
 話すべきことがあるはずなのに、私の口からは、こんな曖昧な言葉しか出てこなかった。
「今は……どうしてるんだ」
「いろいろ。お母さんの手伝いとか……」
 手伝いといっても、仕事の手伝いはできないから、家のことをしているだけだ。洗濯、掃除、料理に皿洗い。どれも上達した。でも、自慢できるようなことでもない気がする。クロワッサン上手に焼けたの、なんて、言っていいのだろうか。
「……そっちは、どうなの?」
 困ってしまったので、私は訊き返してみた。ガクトさんとミカの近況自体は、知ってはいる。ガクトさんが母と連絡を取っているからだ。それを母は私に話す。私が返事をしなくても、とにかく話す。
 ……ミカのことを思うと、妙な気持ちになった。写真は見ているけれど、私にとってミカは、遠い世界の存在だった。自分が生んだということすら、馴染めない。
「ん……社長業には大分慣れた。周りも頑張ってくれてるし、やっていけていると思う」
 父は失明して、以前のように働けなくなったので、ガクトさんに社長の椅子を譲ってしまったのだった。今は会長という地位にいるようだけど、ほとんど何もしていない。
 私がこんなになってしまって、大きな責任を引き受けて、ミカもいて……でも、ガクトさんはどれも放り出さなかった。私のことも、見捨てようとしなかった。……見捨てられてもおかしくなかったのに
「ミカは今年、小学校に入った。写真、見るか?」
 私は、少しためらった。私の中のミカの存在はぼんやりとして手応えがないけれど、ガクトさんは写真を見せたがっているし……それに、ほんのわずかだけど、私の中にも「写真を見たい」という気持ちがあった。
 ガクトさんが携帯を取り出して、ミカの写真を見せてくれた。女の子らしいワンピースを着て、真新しいランドセルを背負っている。
 ……この写真、ガクトさんが撮ったのよね。自分の入学式のことが、頭に浮かぶ。……誰も来なかった。運転手さんが学校まで送り届けてくれて、私のことを、先生に言付けた。帰りは校門まで行くと運転手さんが待っていて、私はそのまま、家まで送り届けられた。ただいまって言ったのは、お手伝いさんだけ。学校で親が来ていないのは私ぐらいだったし、少し後のハクの幼稚園の入園式では、あの人が大騒ぎしていたから、余計淋しかった。
 その頃にはもう、私はあの人と私の間に血の繋がりが無いことを知っていた。だから、仕方ないんだって、必死で思った。本当の子供じゃないから、あの人は私を相手にしない。父は仕事が忙しいから、来るのは無理。
「……仕事、平気だったの?」
「おいおい、どれだけ忙しくても、娘の入学式ぐらい何とか都合をつけるさ」
 苦笑混じりの、そんな答えが返ってきた。……一度も来なかった、私のお父さん。
 リンが幼稚園に入ることになった時、母は当然のように付き添った。送り迎えまで毎日自分が率先してやっていた。……それだけじゃない。
 私が小学校を卒業する時、母は来てくれた。中学の入学式の時も。そういった節目だけじゃなく、授業参観や運動会、文化祭といったイベントの時も……。私が高校に入学する時「ハクと日がズレていてくれて助かったわ。これで両方に行ける」と言っていた。私の方が一日早いだけだったから、色々大変だったろうに。
「ミカは、普段、どうしてるの?」
 気がつくと、私はそう尋ねていた。
「元気にしてるぞ。色々考えたけど、やっぱり元気なのが一番だしな」
「……そう、元気にしているのね」
 病気になったり、問題行動を起こしたりはしていないのか。
「今のところは、まだ小さいからな。『お母さんは入院している』という言葉を、そのまま信じている」
 やや神妙な表情で、ガクトさんはそう続けた。私は、表向きは入院していることになっている。父やガクトさんの両親に、私がおかしくなってしまったことを、話さない方がいい、そう、ガクトさんと母が判断したのだ。
「ルカは……この先、どうするんだ?」
 訊かれて、私は思わずガクトさんの顔を見た。さっきと同じ、神妙な表情だ。
「これからどうするのか、ということだ。……どこで、どんなふうに、生活するのか」
 奇妙な話だが、私はそう訊かれるまで、この先のことを、全く考えていなかった。自分がどうするのかということを。母の家で生活するのか、それともガクトさんのところに戻るのか、はたまたハクのように一人で暮らそうとするのか。生活の糧はどうするのか。そういったことを、かけらも。
「……ルカ?」
 ガクトさんの声が心配そうな響きを帯びる。いつの間にか下を向いてしまっていた。顔を上げて、ガクトさんを見る。
「……ごめんなさい、考えたことがなかったの」
 どう言えばいいのだろう? どう説明すれば、あの家で流れる、ゆっくりした時間のことをわかってもらえる? 私は考えに集中しようと、視線を少しずらした。
「変な話だけど……今の生活、すごく楽だったから……終わる日が来るなんて、考えたこともなかった」
 ずっと、ずっと、このまま続いて行く……そんな風に、ぼんやりと思っていた。でも、もしかしたら、一年もしないうちに、この時間は終わってしまうのかもしれない。
 そう思った瞬間、寒気が走った。この時間が……きつね色の時間が、終わる? そうしたら、私はどうしたらいい?
「お義母さんは、まだ亡くなると決まったわけじゃない。気をしっかり持とう」
 ガクトさんがそう言ってくれた。でも、不安な気持ちは消えない。先生は、楽観視できる状態ではない、そう、言っていた。
「それでルカ、どうする?」
 ガクトさんにまた訊かれてしまった。どうする? ああ、物事を決断するのは苦手だ。
「……わからない。ただ……」
「ただ?」
「あなたに頼るのは、間違っている気がする……」
 こうして、母の病気のことを相談に乗ってもらっただけで、大きすぎるぐらいなのだ。私みたいな人間のために。
「俺は、離婚する気はないぞ」
 突然、きっぱりとそう言われ、私はまたガクトさんの方を見た。ガクトさんは、全く、迷っていなかった。
「なんで……?」
 私は離縁されてもおかしくないだけのことをした。妻としての務めも、母としての務めも放り出して。長い間、顔をあわせることも、安否を尋ねることもしなかった。そんな人間だ。私は巡音家の長女で、ガクトさんは娘婿だけど、社長としての実績を積みつつある今なら、私と別れても、ガクトさんを支持する人だって多いだろう。……お父さんだけは、わからないけれど。
「言っておくが、巡音の家の為じゃないし、お義父さんのご機嫌取りのためでもない。俺自身が、やっぱりルカとは別れたくないんだ」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その四十八【嫉妬は愛の子供】その一

 すいません、ちょっと変なところで切れています。
 字数の都合で仕方がなかったんです。

閲覧数:558

投稿日:2013/01/06 20:42:40

文字数:5,843文字

カテゴリ:小説

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