ネクタイは、やっぱり慣れない。
締めた時には丁度良いと思っていたのだが、いざ薄暗い店の中に入ると、急に息苦しさを覚え始めた。
さりげなくネクタイを緩めて、チラチラと今宵の獲物を伺う。
けれども、視界に入る女性は悉く、他の男と楽しそうに話をしている。
いつもなら、1人や2人はポツンと店の片隅で飲んでいるものなのだが、今日は一体どうしたのだろう。
思わず舌打ちが出そうになるのを、慌てて抑える。
心なしか、胸も苦しくなって来た。どうも、いつもと勝手が違っている様だ。
そんな事をツラツラ考えていると、背後からポンポンと肩を叩かれた。
驚いて振り向くと、ショートヘアの女性が立っていた。
薄暗い中でも、彼女が着ているスーツの紅が、いやでも目を引く。
女性は赤縁メガネの奥から、値踏みをする様に私を見ているのだが、一瞬だけ、その瞳に意外そうな光が宿った。けれども、それは直ぐに消えてしまったから、もしかすると私の気のせいだったのかも知れない。
「どうですか、一緒に?」
最初に声をかけたのは、私だった。但し、いつもの様に気障な仕草を付けるのを忘れていたから、半ば萌え袖の様になっているスーツと相俟って、甚だ滑稽な様子に見えただろう。
案の定、相手はクスリと笑った。
「面白いね。いつもは独りで飲むのだけれど、アナタとなら一緒に飲んでも良いかも知れない」
そう言って、彼女はソッと私の手を握った。
「あの端の席が良いかもね」
彼女の視線を辿ると、他のカップル達とは少しばかり離れた場所に、ちょうど二人分の席が空いている。
エスコートをするつもりが逆にエスコートされる側に回ったので、少しだけ面喰らったが、それも良いかと思い直し、彼女の言った通りの席に座った。
直ぐにウェイターがやって来たので、赤ワインを一瓶頼んだ。
「ご飯物は?」
「いいえ、まだ良いよ。それこそ、これからの流れによっていくらでも状況は変わるんじゃない?」
相手はそう言って微笑んだ。それは、今までに出会った女性達とは根本的に異なる、得体の知れぬ深みを帯びた笑みだった。
まるで、自分の全てを見透かされたかの様な不安を覚えて、私は無意識の内にネクタイを外していた。
「苦しかったの?」
「少しだけ」
「まるで、苦手な食べ物、そう、例えば、ニンニクでも食べさせられた様な顔だね」
「ははは、そうですか?」
何とか笑いに紛らせて誤魔化せたが、相手の何気ない一言が、ザワザワと自分の心を掻き乱すのが判る。
解いたネクタイをジャケットのポケットに捻じ込みつつ、私は凄まじい勢いで考えを巡らせ始めていた。
厭な予感はしたが、それを証明する根拠は全く無かった。そもそも、まだ出会ってから10分も経過していないのだ。こちらがボロを出すにしても、時間が少なすぎるし、何かをしくじった覚えも無い。
きっと、彼女には、私が女を口説いている優男にしか見えていない筈なのだ。そうだ、絶対にそうに違いない……。
自分の信じたいことを信じる事が、これ程大変だとは思いもしなかった。
かくして、密やかな不安に胸を掻き乱されて、私と目の前の奇妙な女性とのテイスティングは始まったのだった。
2杯目のワインを半分ほど飲み干した頃、女性はフゥッと溜息を吐いた。既に、彼女は名こそ言わなかったが、自分がとある出版社の社長をしている事をつらつらと述べていた。その区切りのつもりで、溜息は吐かれたのだった。
その息が、ふわりと顔に当たる。
「赤ワインを見ていると、紅の血を想像してしまうよね」
「血、ですか?」
わざととぼけてみたが、女性はジッと私の顔を見ている。まるで、こちらの反応を伺っているかの様な目力に負けて、思わず視線を逸らしてしまう。
「そうだよ」
女性がやっと言葉を繋ぐ。
「初めて赤ワインを飲んだ頃から、そんな事を思い始めてね」
「確かに、赤ワインは血に喩えられる事もありますし」
「でしょう?」
女性は楽しそうに言った。
「名のある小説家や詩人達は赤ワインと紅の血との相関性について、大分早くから理解していたのじゃないかな。それこそ、古代ギリシアやローマの時代から」
女性の声は、魔法の様で、私はついつい話しに引き込まれて頷いていた。もっとも、それが心地の良い状態とは決して言えなかったのだけれど。
「勿論、それは人間達が勝手に想像して語った言葉には違いないのだけれど、でも、確かに見た目はそっくり。良い赤ワインなら、本当に匂いまで鉄錆の様な物があるから、味さえ確かめなければ血と寸分も違わないだろうし」
言いながら、クイッとグラスを飲み干して、また丁寧にワインを注ぐ。
「赤ワインは、白ワインとは違って、夾雑物が沢山混じっている。でも、それが私は好きなんだよね。混じり気の無い白よりも、色々な要素が交じり合っている赤の方が、何だか自分の境遇に似通っている様な気がして……」
チラリと流し目を喰らい、うろたえてしまう。その拍子に、近くに置いてあったグラスを後ろに引っ掛けて倒してしまった。
中に入っていた赤ワインが、勢い良くこちらへと流れて来る。勿論、回避出来る筈もなく、着慣れないスーツの上に紅の雫がポタポタとかかる。最悪だ。
「大丈夫?」
女性は呆れた様な顔をしている。
「ええ、大丈夫です。少しかかっただけですから……」
私は萌え袖になっているスーツを出来るだけまくり、ハンカチを取り出すと、テーブルの上や自分の服を拭った。
異変に気付いたウェイターが小走りにやって来て、一緒になって拭いてくれたので、直ぐにテーブルは綺麗になったが、同時に、私は気持ちの悪さを感じていた。
色々なアクシデントが起こったので、いつも以上にストレスが溜まっているらしい。本当であれば、とっくに女性をモノにしている筈なのだが、今日は本当に無茶苦茶だ。
ウェイターが去った後も、私は恥かしさと苛立ちと気持ち悪さの綯い交ぜになった気分で暫く座っていた。顔から血の気が引いて行くのが判る。
「本当に大丈夫?」
女性の声と共に、グラリと視界が揺らいだ。
もう、限界だった。
「ちょっと……」
私はそう言って口に手をやると、立ち上がった。
店の構造は良く知っているので、尋ねないでもトイレの位置は判る。
トイレへと入る時に、チラリとウェイターの様子を確認したが、幸い誰もこちらに気を向けてはいない様だったので、そのままそそくさとトイレへと入った。たとえ見られていても、昨今は何も言われないのかも知れないけれど。
トイレで誰かと鉢合わせすると面倒だと思ったのだが、中には誰も居なかった。私は一番奥の個室まで行くと、扉を閉める余裕もなく、そのまま便器へ突っ伏した。
口からは、鮮血の様に先程から飲んでいた赤ワインが出て来る。
とても胸が苦しい。いつもはもっときつく潰しても大丈夫なのに、今日はどうしたのだろう。それに、必要以上に慣れない男物の香水を振りかけたのも、気持ち悪さに拍車をかけている様だった。
吐きながら、涙が溢れて来た。
一体、自分は何をしているのだろう……。
奇妙な女性に調子を狂わされて、気持ち悪くなり、こうして惨めにトイレで独り吐き続けている。
気付くと、私は声を殺しながら泣いていた。
吐き出す赤ワインと涙が入り混じって、口の中が訳の判らない事になる。
もう、全てが厭だった。
世の中、厭な事だらけだ。
「このまま死んでしまいたい……」
思わずそう呟いた時だった。
「死ぬには、まだ早すぎると思うけどね」
声と共に、パタリと扉が閉まった。
ハッとして、後ろを振り向くと、女性が立っていた。
赤縁メガネの奥の瞳は、今は涼やかに笑っている。
「ほら、ちょっと見せて。胸を潰してて気持ち悪くなったんでしょう」
女性はそう言ってしゃがむと、私のワイシャツのボタンを外し始めた。
その途端、私は彼女が全てを知っているのだと判った。
「ど、どうして……」
「どうして、アナタが男装しているのか判ったのかって?」
女性は楽しそうに尋ねて来た。余りにストレートに確信を突かれたので、私は言葉に詰まってしまう。
「第1に、男物のスーツをあまり上手く着こなせていない様だった。特に、ネクタイを締める習慣が無いのだろう事は容易に察しが付いた。スーツを着ている様な人間が、どうしてネクタイを締め慣れていないんだろうって疑問は当然湧くよね。後、スーツが萌え袖になってるのも凄く気になった。第2に、異様なまでに男物の香水がきつかった。まるで、元からある自分の匂いを消してしまおうと必死になったかの様だったからね。あるいは、男性物の香水を普段は付けていないので、その分量が判っていない、とも考えられるけど。第3に、今、こうしてアナタが女子トイレで泣きながら赤ワインを吐き続けているという事実、それに……」
ワイシャツのボタンを全て外し終えると、女性はグッと左右にワイシャツを開いてくれた。そこには、私がいつも使っているピンクの胸潰しが見えている。
「どうしてアナタがそんなに気持ち悪そうにしているのか、最初は全然判らなかったのだけど、私に調子を狂わされて、ストレスが溜まっている状態で、胸潰しを使っていたから、いつもは我慢できる息苦しさが我慢出来なくなってしまったのだろうね」
「さ、最初から判っていたんですね……。判っていて……」
思わず声が恨みがましくなる。
「ははは、ついね。それで、これは自分で外せるのかな?」
「は、外せます!」
私はそう言いながら、慌てて胸潰しを外す。既に、恥も外聞も無くなっていた。
思わぬ事態に、涙は既に止まっている。
「けれどもね……」
私が恥かしそうに顔を俯けていると、女性はまた語り始めた。
「アナタが女性だと判った、それだけだったら、ここまで入っては来なかった」
「え?」
思わず顔を上げてしまう。
「アナタが男物の香水を過度に振りまいていたのは、自分が女性だと思わせないためもあったのだろうけれど、他にも理由はある。そもそも、その香水では完全に匂いを消せていなかったし。だから、アナタと最初に面と向かった時には、とても驚いてしまった。まさか、私の仲間がこんな所にいるなんて思わなかったからね。試しにニンニクでかまをかけてみたら、案の定、様子がおかしくなったし、これは同族に違いないと、そこで完全に確信したよ」
「同族……」
私は耳を疑った。
「ま、まさか……。それじゃあ、貴女も?」
「ああ、そうだよ。私達の困った特質だけれど、これはどうしようもないからね。この、死の匂いだけは……」
女性はそう言うと、グッとこちらに顔を近づけて来た。端正な蝋細工の様に整った顔だった。綺麗だ。
「さあ、飲みなさい」
女性が囁く様に言った。途端に、私の身体は電流が走り抜けたかの様にビクリと動いた。
「で、でも……」
「禁忌を恐れてはいけないよ。それに、私のせいで調子が狂って、ご飯のアテも外してしまったとあっては、同族として申し訳ないからね……」
そう言ったかと思うと、女性はいきなりその鋭くしなやかな犬歯を見せて、私の首筋に被りついた。それと同時に、私の方へ白い首筋を差し出す様に向けた。その角度は、何度も何度もやって来た角度だったから、私は条件反射的に、その首筋に自分の犬歯を突き立てていた。
私が【同性同族】(ヴァンピール)の血を吸ったのは、これが初めての事だった……。
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