作り方の本を見ながら、私はパン作りを始めた。作るパンは、どれがいいのかよくわからなかったので、とりあえず一番最初のページに載っていた「テーブルロール」にする。まず、材料を全部量る。それからバターと牛乳を温めておき、ぬるま湯でイーストと砂糖を溶かす……変な匂い。大丈夫だろうか、これで。
 溶き卵、溶かしたバターと牛乳を入れて、粉を入れて、全部混ざったら板の上でこねる。ベタベタして手にくっつくけど、我慢してこねる。本に書いてあったとおり、十五分ぐらいこねる。そうしたら、手にはくっつかなくなった。これでいいのよね。
 カエさんがやっていたみたいに、別のボールに入れて、布巾をかけておく。後は膨らむまで待つだけ……。カエさんは待つ間に、空になったボールを洗っていた。じゃあ、洗おう。ボールを他の道具と一緒に、洗う。食器洗いなんて、家庭科の授業以来だ。やり方はなんとなく憶えてるけど。……このボールの縁にくっついた小麦粉、どうして落ちないんだろう。
 汚れがなかなか落ちてくれなくていらいらする。汚れのくせに、私をバカにしているのだろうか。力任せにこすってみたら、何とか落ちた。
 パン生地が膨らむのに、思っていたのより時間がかかった。カエさんがやっていたのを思い出しながら、重量を量って切り分けてから、丸める。……変ね、丸めているはずなのに、丸くならない。何がいけないのよ。私はパン生地を、力いっぱいこね板に押しつけた。
 どうにかこうにか丸めて、二次発酵させる。膨らんだら、温めておいたオーブンに入れて、焼く。十分ぐらいすると、いい匂いがしてきた。いびつな形をしているけれど、焼けたみたい。
 私は焼けたパンをオーブンから取り出して、食べてみた。……固いし、なんだかパサパサしている。全然ふかふかじゃない。これ……何?
 天板を調理台の上に置いて、私はパンを眺めた。触ってみると、どれもかなり固い感触がする。
 カエさんが焼いたパンは、もっとふわふわしてた。この本にも「ふわふわのパン」と書かれている。それなのに、どうして焼きあがったものがふわふわじゃないの? 私は、思わず焼きあがったパンを睨んだ。
 こんなもの、いらないわ。捨ててしまおう。見たくもない。
 私がパンをまとめてゴミ箱に入れようとしていると、玄関のドアが開く音がした。……あ。
「ただいま」
 ……カエさんだ。時計を見ると、二時半。予定より早めに帰って来てしまったようだ。
 私がぼんやりと立ち尽くしていると、カエさんがドアを開けて部屋に入ってきた。
「ルカ、どうしたの? ……あら」
 カエさんはびっくりした表情で、調理台の上にあるパンを見ている。私は困ってしまった。
「すごいわね、全部自分一人で焼いたの?」
 カエさんは、何があったのかは察したようだった。……仕方ないので、頷く。
「大変だったでしょうに……いい色に焼けているわ。今まで全然やったことがないのに、ここまでできるなんて、ルカはすごいわね」
 カエさんは本当に感心しているようだった。でも、これは……。私が困っていると、カエさんは荷物を床に置いた。そして近づいてきて、パンを一つ手に取る。
「食べてもいい?」
 駄目、と言いたかった。それは、きちんとできなかったものなんだから。存在していては、いけないものなんだから。でも、それは口答えだ。やっていいことじゃないはず。
「ルカ、どうなの?」
「あ……えーと……」
 カエさんはパンを持ったまま、こっちを見ている。私が返事をしない限り、食べるつもりはないらしい。
「食べないで」
 私は、何とかそれだけを言った。言ってから、カエさんの表情を伺う。もしかしたら、怒られるかもしれない。
「そのパン、変だから……だから、食べないで」
「変って?」
「だから……変なの」
 ふわふわのパンが焼けるはずだったのに、できたのは固くてパサパサしたパンだった。だから、いらないのよ。なんでこんなにタイミング悪く帰って来るんだろう。
 カエさんは私が黙ってしまったせいか、パンの端っこを千切って、口に入れてしまった。
「ああ、そうか、今日は乾燥しているから……」
 食べた後、カエさんはそんなことを言った。乾燥している? それが何なの?
「ちゃんと、その本に書いてあるとおりにやったのよ。分量だってちゃんと量ったし……」
 それなのに、どうしてこんなものができてしまったのだろう。
「あ……あのね、ルカ。パン作りってね、すごく難しいの。誰がやっても、いきなり上手には焼けないわ」
 私は調理台の上にまだ置きっぱなしになっていた、『誰にもできるパンの焼き方』を睨んだ。
「それには『誰にでもできる』って書いてあるのに」
 この本は嘘つきだ。
「それは、経験を積めばの話なのよ。お母さんだって、何回も失敗したわ。一番ひどい失敗は、こんなものじゃなかった。オーブンに入れたのに出すのを忘れてしまって、気がついたらオーブンの中には真っ黒な炭が入っていたわ」
 ……なんでそんな話をするの。
「でもそのことで学んだの。オーブンの中に生地を入れたら、出す時間は忘れないようにしないと、とんでもないことになるって」
 カエさんの言いたいことが、よくわからない。
「パン生地ってね、その日の気温や湿度に左右されるものなの。今日は乾いているから、水分が大目に必要なのよ。ベストの状態の生地を作るには、こねている時に、生地が固すぎたら水を、柔らかすぎたら粉を少し入れて、加減を調整してあげないといけないの。手がかかるのよ……本当に」
 そんなこと……書いてあったっけ?
「最初の何回かは、失敗を覚悟で作ってみることが大事なの。そのうちに、わかるようになるわ……頭じゃなくて、手が憶えることだから」
 カエさんの言うことは、やっぱりよくわからなかった。とにかく、このパンはカエさんから見ても失敗作らしい。
「次はもっと上手に焼けるわよ。初めてなんだし、これでも上出来だと思うわ」
「……わかった」
 全然わかってなかったけど、私はとりあえず頷いて、パンをまとめてゴミ箱に入れようとした。瞬間、カエさんが叫ぶ。
「ルカ! 何をやっているの!」
 びっくりして、私はパンを乗せた天板を持ったまま固まった。カエさんがすごい勢いで、私の手から天板をひったくる。
「失敗したものなんかいらないの!」
 思わずそう叫ぶ。だから捨てたっていいじゃない。どうして捨てさせてくれないの。こんなもの見たくないんだから。
「失敗といっても、炭になったわけじゃないでしょう? これならまだ食べられるわ」
 美味しくないのに? 私が黙ったままそこに突っ立っていると、カエさんは天板を調理台の上に置いた。それから流しの方に行って、パン切りナイフとまな板を取ってくる。
「…………」
 私は、目の前に置かれたパン切りナイフとまな板を、黙って見つめた。これをどうしろというのだろうか。
「ルカ、そのパン、全部薄く切って」
 突然、そんなことを言うカエさん。私はよくわからなかったけど、言われたとおりにすることにする。そんなにしないうちに、パンは全部薄切りになった。
 私がパンを切っている間に、カエさんは何やら取り出していた。パンを切り終えた私が顔をあげると、調理台の上に、道具と材料が並んでいる。卵、牛乳、砂糖、洋酒の瓶、それにボールと泡立て器と計量カップだ。
「卵を二個割ってかき混ぜて。泡立てなくていいから、そうしたら砂糖を……」
 カエさんに言われるとおり、卵を割ってボールに入れる。かき混ぜてから砂糖を入れ、牛乳を量って入れる。それに洋酒を少し加えてから、さっきのパンを浸す。……なんだか、さっきよりももっと不味そうに見える。
 カエさんは、パンの浸かり具合を確認している。……ぐしょぐしょだ。
「もう良さそうね。ルカ、フライパン火にかけて、中火より少し弱いぐらいで」
 なんで……と思いながら、言われたことに従う。フライパンをコンロに置いて、ガスの火をつける。中火より少し弱い……これぐらいだろうか? 私の隣にカエさんが来て、火を確認している。
「それぐらいでいいわ」
 これでいいらしい。……フライパンが温まって、うっすらと煙のようなものがでてきた。
「バターを一切れ切って、フライパンで溶かして」
 手渡されたバターケース。バターナイフで削って、フライパンに入れる。すぐに溶けて、薄黄色の液体になる。
「じゃ、これを焼いてちょうだい」
 手渡されたのは、さっきの卵とパンが入ったボールだ。ボールの中身をフライパンに流し込もうとすると、止められた。
「違う違う、言い方が悪かったわ。パンだけつまんで落とすの」
 お菜箸を渡された。パンだけつまんで、フライパンに入れる。じゅっという音がして、香ばしい匂いが漂ってきた。
 カエさんが焼き方の指示をしてくれたので、いい色の焦げ目がつくまでパンを全部焼いていく。お皿に取り出したところで、ようやく何なのかわかった。これ、フレンチトーストだ。子供の頃、カエさんが朝ごはんに作ってくれたことがあった。
 全部焼き終わると、カエさんが二人分の紅茶を準備していてくれた。二人で、フレンチトーストを食べる。……さっきの固くてパサパサしたパンと同じものとは思えない。ちゃんとしたフレンチトースト。
「……美味しいわよ」
 カエさんがそう言う。私は、何を答えたらいいのかがよくわからなかった。
「……カエさん」
「なに?」
「子供の頃、フレンチトーストを作ってくれたことがあったけど、あれって、もしかして……」
「バレちゃったわね。二回に一回ぐらいは、パンを焼くのに失敗した時の奴よ。こうすると、固くなったパンでも美味しく食べられるから」
 捨てたらもったいないでしょう? と、カエさんは笑顔で続けた。どういう表情で、どんな返事をしたらいいんだろう。
「失敗したからといってね、全部放り出さなくてもいいの。炭になってしまったらさすがに捨てるしかないけど、これくらいなら、まだ取り返しがつくから」


 私は、多分、失敗したんだと思う。
 どうしてそうなったのか、どんな失敗をしたのか、まだちょっとよくわからないけど、とにかく失敗したのだと思う。
 自分が失敗に気づくのは、気持ちのいいものじゃない。失敗したのだと認識するのは、すごく嫌なことだ。
 どこで失敗したんだろう。そもそも、どこが失敗だったんだろう。カエさんは「取り返しのつく失敗だってある」って言うけれど、私の失敗は、取り返しがつくのだろうか。私は炭になってしまったのか、それともただ、固いだけなのだろうか。
 わからない。やっぱり、カエさんの言うことはわからない。


 カエさんと一緒にフレンチトーストを食べた日から、私は不思議なぐらい、感情の制御が効かなくなった。
 ちょっとしたことでひどくイライラしてしまうようになり、物や周りに当たるようになった。泣き叫んだり、暴れたり。いい年の大人のやることではない。
 なんでなの。私、こんなことをしたいわけじゃないのに。でも、荒れる感情は、どうしようもなかった。お皿を投げて割ってしまったこともある。その後には、決まって空しい気持ちが襲ってきた。私は座り込んで、子供みたいに泣きじゃくった。
 カエさんは、いつも何も言わず、部屋を片づけていた。そんなこと、しなくていいのに。部屋ぐらい、私にだって片づけられるのに。


「ずいぶん上手になったわね」
 ある日、私が焼いたパンを食べたカエさんは、笑顔でそう言った。
「……まだまだよ」
 形が綺麗じゃないし、焼きムラだってある。完璧には程遠い。
「美味しく食べることができればいいのよ。こういうものはね。少しくらい形がいびつでも、美味しければいいの」
 なんでも綺麗に作ってしまえる人に言われても、説得力がない。
「お母さんのケーキは形が揃ってるわ。クッキーだって」
「年季が違うだけ。ルカだって、続けていけば、これくらい作れるようになるわ。ううん……もしかしたら、もっと上手に作れるようになるかも」
 そういうものだろうか。よくわからない。
「お母さんとしては、ルカがこれをお母さん以外の人に食べさせてあげられるようになってほしいわ」
 少し淋しそうな表情で、カエさんはそう言った。


 パンが綺麗に焼けるようになってきた頃、私の感情は少し落ち着いた。今でもイライラしてしまうけど、前ほど当たらなくて済むようになった。
 二人の時間が、ときどき波風を立てながらも、ゆっくり過ぎて行く。
 時間に色があるとしたら、この色はきっときつね色だろう。綺麗に焼けたパンの色。
 この、きつね色の時間が、ずっと続くといい。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その四十四【きつね色の時間】後編

 最初に載っていたのがクロワッサンとかじゃなくて良かったなあ、なんてちょっと思ったり。いきなりあれにトライしたら、絶対焼きあがる前にぐちゃぐちゃになります。
 ま、いきなりクロワッサンが載ってるようなパン作りの本、さすがに無いと思いますが。

閲覧数:790

投稿日:2012/12/02 23:50:07

文字数:5,216文字

カテゴリ:小説

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