これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
ルカ視点で、【知らなくてもいいこと】から続いています。
従って、それまでの話を読んでから、読むことを推奨します。
【こわれゆくもの】
今日もミカが泣いている。ものすごくうるさい。赤ん坊というのは泣くようにできているらしい。
私は頭痛を感じながら、ミカを抱き上げる。お乳はさっき飲ませたから、おむつだろうか。でも、おむつを交換してみても、ミカは泣きやんでくれなかった。
「うるさいわ。泣かないで」
ベビーベッドに寝かせたミカに、私はそう言ってみた。当たり前だけど、ミカは泣きやまない。
どうしてこの子はこんなに泣くのだろう。私を困らせたいのだろうか。
……もういい。お乳は飲ませてあるし、身体も清潔だ。しばらく放っておいたところで、大丈夫だろう。どうせまだ寝てるだけなのだから。
私はミカの部屋を出て、自分の部屋に戻ると、ベビーモニターのスイッチを切った。これで、もう泣き声は聞こえない。
部屋に戻った私は、椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めた。頭の中に、昔のことが浮かぶ。下の妹、リンが生まれた時のこと。ハクが生まれた時のことは小さすぎて記憶に残っていないけれど、リンの時のことはさすがに憶えている。
皺だらけでうるさい生き物を、あの人が家に連れて帰って来た。あの人は特に何もしなくて、リンにミルクをあげたりおむつを換えたりお風呂に入れたりするのは、全部お手伝いさんの仕事だった。だから、私はずっと「そういうもの」だと思っていた。お手伝いさんに訊いてみても、「ええ、ルカお嬢様もハクお嬢様も、私どもがお世話をしましたよ」という答えが返って来たのだし。
「ルカ、育児はルカにやってほしい。俺は、子供は母親の手で育てられるのが一番だと思う」
だからミカが生まれることになった時、ガクトさんにそう言われて、私は混乱した。お手伝いさんがいるのだから、お手伝いさんに任せておくものじゃないの?
「何をすればいいの?」
「何をって……普通のことをすればいいじゃないか」
「普通って?」
「うん? ……そう言われると、俺もよくわからないな」
ガクトさんはその日は、話はそこまでで切り上げた。でも数日が経つと「育児教室」とやらのパンフレットを持ってきて、同じ話をまた始めた。
「とりあえずはここに通おう。夫婦で通えるコースというのがあるそうだし」
これは決定事項らしい。私は頷いた。要するに、またお勉強だ。それなら、何の問題もない。
私はガクトさんと教室に通い、出産や育児について学んだ。何も、難しいことはなかった。ただ、こんなことを言われてしまったけど。
「巡音さん、実際の育児というものは、教科書のようにはいかないものなんです。だから教科書と違うことが起きたからといって、あせったりいらだったりすることはないんですよ」
どうしてそんなことを言われてしまったのか、私にはよくわからなかった。私が何か失敗をすると思われているのだろうか。だとしたら心外だ。私は失敗なんてしない。今までずっと、すべてきちんとやってきたのだから。
そうして、時間が過ぎて、ミカが生まれた。「とても可愛い赤ちゃんですよ」と看護師さんに言われたけれど、目の前にいたのは皺だらけの生き物で、可愛いところなんて少しもなかった。ガクトさんはものすごく喜んで、写真を撮っていたけれど、こんなものを撮って何が楽しいのだろうか。
ミカは健康的には何の問題もなく、一週間もしないうちに私はミカと一緒に退院した。お手伝いさんがいるので、私が家事をする必要はない。だから私のすることはミカの世話だけだったが、これは想像していたのよりもずっと面倒だった。練習用の人形と触った感じが全然違うし、突然暴れだしたりする。人形だったらずっと楽なのにと、私は思わずにはいられなかった。
とはいえ、やらなくてはならない。私は育児教室で習ったとおりのことを、大体実行した。ミカは少しずつ大きくなり、皺だらけではなくなったが、うるさいことにはかわりなかった。何かあると、大声で泣き喚く。どうしてこんなに泣くのだろう。
確か、育児教室で習った。生まれてすぐの赤ちゃんは、「嫌」「不快」という感情を、泣くということで伝えるのだとか。つまりこの子は、そんなに嫌なことばかりなのか。
私だって不快だ。こんな頭の痛くなるような泣き声を、毎日聞かなければならないなんて。
「可愛いですねえ。奥様似? それとも旦那様似でしょうか?」
お手伝いさんは、そんなことを言ってくる。この泣いてばかりの生き物のどこが可愛いのだろう。
「お、笑ったぞ。ミカは本当に可愛いなあ」
帰宅すると、ガクトさんは着替えもそこそこに、ミカの部屋に入ってはミカを抱き上げてあやすようになった。どうしてそうするのかよくわからないけれど、ミカの相手をしていてくれるのはありがたい。その間、私がミカを構わずに済む。
……基本的にはそうなのだけれど、ガクトさんは何かと私にも一緒になって構わせようとする。一緒の写真を撮るといってカメラを持ち出したり。いくら乳児の成長が早いといっても、一日二日でそんなに変わらないのに。
「ハイハイは、いつ頃始めるんだろうな。初めての言葉は何だろうな」
「……何でしょうね」
何だっていいのに、そんなこと。
「俺としては、やっぱり『お父さん』『お母さん』と呼ばせたいな。ルカはどう思う?」
何の話? ああ、呼び方の話か。ガクトさんは『パパ』『ママ』という言葉は使わせたくないらしい。
「最近は『パパ』『ママが』主流らしいが、俺はどうも馴染めなくてな……」
別に呼び方なんてどうでもいい。
「『お父さん』『お母さん』にしましょう」
「そうか、やっぱりそうだよな」
ガクトさんはミカを膝に抱いて、額を寄せて話しかけている。まだ話しかけても返事なんてできないから、そんなことをしても無駄なのに。
……なんだか、面白くない感情が胸に広がった。
私はミカへの嫌な気持ちは我慢して、ミカの世話を続けた。きちんとお乳を飲ませ、生後半年を過ぎた辺りから、離乳食も始めた。おむつもちゃんと取り替えたし、毎日お風呂にも入れた。
でもミカは、やっぱり泣いてばかりだった。離乳食を始めた辺りから、夜中に泣き喚くようにまでなった。しかも一度夜泣きを始めると、抱いてゆすってもなかなか泣き止まない。本当に、可愛くない子だ。
やがて夜泣きは落ち着いたが、その頃には歩き出すようになっていた。そうなると、ミカはますます手に負えなくなった。あちこちうろついては、落ちているものを勝手に口に入れ、片端から触るものをひっくり返した。ティッシュの箱を空にされてしまったり、読みかけの雑誌を破られたりすることもあった。そんなことをして、一体何が楽しいのか。部屋を散らかして笑っているミカを見る度、私の気持ちはささくれ立った。
可愛くない生き物が、輪をかけて可愛くない生き物になっていく。うんざりした私は、紐を持ち出してミカをベッドに繋いでおくことにした。これで、勝手に動き回られることもなくなる。行動半径内に余計なものを置かなければ、煩わされることもない。ガクトさんにあれこれ言われたくないので、帰宅の前に紐は外しておくことにした。
これで部屋の中をかき回されることはなくなったが、食事の時はそうもいかない。何かを食べさせれば決まってこぼすし、食べ物で遊んだり投げたりすることもあった。掃除や洗濯はお手伝いさんに頼めるとはいえ、食べ物が無駄になるのを見ているのは気持ちのいいものではない。
子供なんて、ちっとも可愛くない。私の本当の母や、ハクとリンの母が家を出て行ったのも、きっと子供が可愛くなかったからだろう。そうに決まっている。
どう考えても可愛くない生き物なのに、ガクトさんはミカが可愛いようだった。一緒に玩具で遊んだり、おみやげを買って来たりしている。理解できない。会社で写真を見せて回って、呆れられたりもしたらしい。……当たり前だ。
笑い声が聞こえてきて、私はそっちを見た。ミカがガクトさんの買ってきた、クマのぬいぐるみで遊んでいる。ずいぶんと機嫌がいい。きゃっきゃとはしゃいでいる。私はミカから、ぬいぐるみを取り上げた。
「ああんっ! くーちゃんっ!」
くーちゃん、というのは、このぬいぐるみにミカがつけた名前だ。私は、ぬいぐるみをミカの手の届かない箪笥の上に置いた。
「駄目よ、これからごはんだから、ぬいぐるみは連れていけません」
「くーちゃん、くーちゃんっ!」
ぬいぐるみなんかのどこがいいの。綿のつまった玩具で、喋れも動けもしないのに。
「ごはんの最中にぬいぐるみと一緒なんて、汚すに決まってるから駄目よ」
料理で汚れたぬいぐるみなんて見たくない。ああ、リンもこんなふうに、ぬいぐるみをどこへ行くにも抱えていたっけ。当たり前だけど色んな何かでひどく汚れて、時々カエさんがお風呂に入れていた。
……ぬいぐるみをお風呂に入れるなんて、ごめんだわ。そんなバカみたいなこと。ミカですらもてあましているのに、ぬいぐるみの世話だなんて。
そうやって気をつけていたにも関わらず、ミカはある日、ぬいぐるみにジュースをかけてぐしゃぐしゃにしてしまった。
このジュースは、バナナとヨーグルトをミキサーにかけて作ったものだった。この年齢の子に最適の栄養が取れますとか、そんな風に育児書には紹介されていた。どろっとしたジュースにまみれたぬいぐるみを見ていると、何だかむかむかしてくる。なんて汚らしいの。
「くーちゃんも、じゅーしゅのみたいって。だからね、じゅーしゅあげたの」
なぜか胸を張るミカ。何よ偉そうに。ぬいぐるみがジュースなんかほしがるわけがない。頭がおかしいんじゃないの。私は、汚れたぬいぐるみをミカからひったくった。
「くーちゃんっ!」
「うるさいっ! ぬいぐるみぐらいでガタガタ言わないのっ!」
私はミカに向かって大声で叫んだ。ミカの顔がぐしゃぐしゃにゆがみ、次の瞬間、割れんばかりの大声で泣き叫び始める。ああもう、この子は。こんな泣き声聞かされたら、頭ががんがんしてきてしまう。
私は取り上げたぬいぐるみをゴミ袋に押し込み、口を縛った。最初からこうすれば良かったんだわ。こんなもの、見たくないのだから。
ミカはぎゃあぎゃあと泣き喚いている。私はミカを引きずり起こすと、ロフトに放り込んで、ドアを閉めた。これで、泣き声が多少は聞こえにくくなる。しばらく一人にしておけば、ミカも泣かなくなるだろう。ミカはまだ、ドアを一人で開けられるほど大きくないし。
「あの……奥様、いいのですか?」
お手伝いさんが訊いてきた。何を?
「甘やかすのはあの子のためにならないわ。それより、そこを掃除しておいて」
私は、汚れた床を指差した。お手伝いさんは何か言いたそうにしたけれど、私が譲らなかったので、掃除用具を取りに行った。
私は、なんだかすっきりした気分で、残りの時間を過ごした。二時間もするとミカは泣き止んだので、ロフトから出して着替えをさせる。顔も拭いておいた。ミカはぬいぐるみを探し回ってぐずぐず言っていたけれど、私がまたロフトに入れようとすると、途端に大人しくなった。いいことだ。
やがて夕方になって、ガクトさんが仕事から戻ってきた。いつものようにただいまを言った後、スーツから普段の服に着替えたガクトさんは、ミカを見て怪訝そうな声を出した。
「ミカ、くーちゃんはどうした?」
「くーちゃん……」
ミカはまた泣き出しそうになった。泣かないでよ、頼むから。
「どこかに置き忘れて来たのかな? お父さんが探してきてあげよう」
私が何か言う前に、ガクトさんはぬいぐるみを探し始めた。真面目にそんなものを探さなくてもいいのに。
「うーん、みつからないな……ミカ、どこに置いたんだ?」
ミカは首を横に振っている。このまま探されても困る。
「あなた、あのぬいぐるみだけど」
「公園にでも忘れてきたのか?」
「いいえ。ミカがひどく汚してしまって、洗っても綺麗にならないものだから……捨ててしまったの」
ガクトさんは、呆気に取られた顔になった。
「捨てたって……」
「とても汚かったの。不衛生なものをミカの周りに置いておきたくないのよ。ミカは触ったものをお構いなしに口に入れたりするし」
「おいおいルカ、あのぬいぐるみはミカのお気に入りだぞ」
だから何なの、バカバカしい。ぬいぐるみなんてたかが玩具で、必要のないものだわ。
「嫌な臭いもしていたし……とにかく、ひどく汚れてたの」
ガクトさんはしばらく私を見ていたが、やがてミカを抱き上げると、ソファに座った。
「ミカ、くーちゃんは旅に出てしまったようだ。だから、今度お父さんが、新しいぬいぐるみを買ってあげよう」
ミカの頭をぽんぽんと軽くたたきながら、ガクトさんが言う。……なんで。なんでぬいぐるみなんて買いたがるの。
「一緒にデパートまで選びに行こうな。というわけで、今日は代わりに……」
ガクトさんは鞄を開けて、紙袋を取り出した。紙袋の中から出てきたのは……何冊もの絵本。
「絵本を読んであげよう」
やめてよ。でも私の気持ちにはお構いなしに、ガクトさんはミカに絵本を読み始めた。ミカは絵本が気に入ったようで、ガクトさんが一冊読み終わると、もっと読んでくれとねだっている。ガクトさんは、別の絵本を手に取った。
……だからそういうことはやめてほしいのに。甘やかせば甘やかすほど、子供というのは図に乗るんだから。
そして実際、次の日ミカは、私のところに絵本を持ってきた。
「えほんっ! えほんっ!」
読んでくれ、ということらしい。ああ、こんなものを買うからだわ。
「自分で読みなさい」
ミカはまだ字が読めないけれど、この年齢の子の読む絵本だ。中身なんてないに等しい。絵だけ眺めてればいい。
「えほんっ! え~ほ~んっ!」
ミカが騒ぎ出す。ああ、うるさい。
私はミカの手から絵本を取り上げた。邪魔よ、こんなもの。いらない。私は絵本を開くと、ページを引きちぎった。ミカがまた、盛大に泣き出す。
絵本のページをずたずたに引き裂くと、私はミカをまたロフトに入れた。手に終えなくなったら、こうすればいい。ハクだってリンだって、これで大人しくなったんだから。いずれミカも学習するでしょう。
「奥様……」
お手伝いさんが声をかけてきた。私は、絵本をお手伝いさんに渡した。
「捨てておいて」
ロミオとシンデレラ 外伝その三十八【こわれゆくもの】前編
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