「……十年近く前の話よ」
淡々とした声で、ルカさんが言う。だから何なんだよ。忘れろってのか? 他の人ならともかく、あんたに言われても困る。
「あんたたちは、それよりずっと前のことをぐちゃぐちゃ言ってるだろ! 大体あんた、リンのどこが気に入らないんだ!? リンの本当のお母さんが、あんたにひどいことをしたからか!? それとリンに、何の関係がある!?」
「リン、あなたそんな話をしたの?」
ルカさんはひっくり返った声で、リンに向かってそう訊いた。……あのなあ。あんたが今話してる相手は俺なんだよ!
「勘違いしないでくれ。俺がしつこく聞いたんだ。リンが辛そうな顔、してたから」
全く何なんだこの人は……。
「レン君、やめて」
リンが俺の服の袖を引っ張った。見ると涙ぐんでいる。その状態で、リンは首を横に振っていた。
「喧嘩は駄目。お母さんに聞こえてしまう」
「けど……」
俺はまだ言い足りない。それに、聞こえているんだとしたら、その前の喧嘩の時点から、リンのお母さんには聞こえてしまっていると思う。
俺の目の前で、リンはもう一度、首を横に振った。そして、俺の唇を指で静かに押さえる。俺はまだかっかきてたが、こうなるとさすがに喋れない。
そうしてから、リンはルカさんの方を向いた。
「ルカ姉さん。もう、あの時のことはいい。わたし、全部忘れることにする。ルカ姉さんのしたこと、みんな忘れる。もうなかったことにする。許すことがわたしの復讐なんだって、そう、思うことにするから」
……『チェネレントラ』か。王子と結ばれたチェネレントラが、二人の姉と義理の父に言う台詞だ。もうひどい目にあわされたことは忘れることにするって。リンは『チェネレントラ』が好きだけど、まさかこんなことを言い出すとは思っていなかった。
「リン、本当にそれでいいのか?」
「うん……わたし、そうしたい」
これ以上俺が怒ってルカさんとやりあうと、リンが嫌がる。だから、俺はもう口を挟まないことにした。
「わたし、上でお母さんが起きるまで待ってるね」
リンは俺の手を取ると、部屋を出た。リンに手を取られたまま、廊下を歩く。途中でリンは、お手伝いさんを呼び止めた。
「二階の一番奥の部屋、今、何かに使っている?」
「いいえ。あの部屋は空き部屋のままです」
「ありがとう。もし誰かわたしの居場所を聞いたら、そこにいるって答えておいて。それと、お母さんが起きたら、教えてちょうだい」
「わかりました」
リンはまた俺の手を引いて、歩き始めた。階段を昇って、二階に行く。やがて、リンは一番奥にある部屋の前で、足を止めた。その部屋のドアを開けて、中に入る。
「ここは……」
その部屋には、見覚えがあった。以前、リンが閉じ込められていた部屋だ。
「うん。……前に、わたしが閉じ込められていた部屋。レン君、憶えてたのね」
「忘れるわけないだろ」
向こうに行く前の日、俺はこの部屋に忍び込んで、リンと会った。そして……初めて、リンと結ばれたんだ。忘れられるわけがない。
リンはすたすたと部屋の中に入って、ベッドに座った。俺は少し考えてから、リンの隣に腰を下ろす。椅子じゃなくてベッドに座ったということは、リンは俺に隣にいてほしいんだろう。
「……リン、本当にいいの? お姉さんのこと」
リンは「許すことにする」って言ったけど、俺としては納得がいかない。いくらリンが『チェネレントラ』が好きとはいえ。
「いいの。わたしがあれこれ言ったら、余計収拾がつかなくなってしまうわ」
「俺は納得がいかないけどなあ」
俺の言葉を聞いたリンは、自分の頭を俺の肩に乗せた。反射的に、俺はリンの肩を抱く。
「あのね……ああいうのって、いつまでもじくじくじくじく、心の中で疼くの。それって、すごく苦しいし辛いのよ。わたしもそうだから……今でも昔お父さんに言われたことを思い出して、辛くてたまらなくなる時があるから……だから、ルカ姉さんは、もっと辛いと思う」
何もそこまで相手を思いやってやらんでも。リンのことを嫌ってる人なのに。
「辛い思いをしてるのは、ルカさんだけじゃないだろ。リンだって、ハクさんだってそうだ」
「わたしがあれこれ言い出したら、ルカ姉さん、きっと先に進めない。それに……ルカ姉さん、わたしのことをはっきり『嫌い』って言った。だから前より、状態はいい方向に向かっていると思うの。前はずっと、わたしのことを嫌いじゃない振りをしていたから」
リンの言いたいことは理解できたが、やっぱり納得がいかない。リンがルカさんのことを嫌いで、お互い距離を置くってのならまだわかる。でも。
「どうしてリンが我慢しなくちゃならないんだ」
リンだけが、犠牲にならなければならない理由なんてないんだ。今までだって、ずっと色々と耐えて来たっていうのに。けど、リンは静かに微笑んで、俺の顔を見た。
「わたしにはミクちゃんやレン君がいてくれた。でも、ルカ姉さんには誰もいなかった。わたしは恵まれていたの。姉妹の中で、誰よりも。お母さんはすごくわたしを可愛がってくれた。ミクちゃんはわたしの家庭がこんなでも、何も言わずに家にあげて遊んでくれた。……知ってる? わたし、ミクちゃんを自分の家に呼べなかったのよ。お父さん、子供が遊びに来るのは嫌だって言った。それがミクちゃんでも」
……その辺りはなんとなく見当がついていた。確かにあのお父さんなら、子供が家の中を走り回るだけで罵声を浴びせそうだ。
「ミクちゃんのお父さんとお母さんは、わたしが遊びに行くといつも歓迎してくれた。嬉しかったけど、同時に淋しかった。わたしだってミクちゃんを、お招きしたかったのに」
初音さんは、その辺りのことを気にしてなかっただろう。
「レン君にだって会えたわ。レン君がいてくれたから、わたしは色んなことに気づくことができた。わたし、レン君に会えたことで、一生分の幸運を使い切ってしまったかもしれない……そう思う時があるの」
それは大げさだよ。俺がしたことは、そこまでのことじゃない。
「わたし、レン君に会えて、レン君のことを好きになって、本当に良かった」
そう言ってくれるのはものすごく嬉しいが……。どう言葉をかけようか考えている俺の前で、リンは少し背伸びすると、俺の唇を自分の唇で塞いだ。反射的に、俺はリンを抱きしめる。
「リン……」
「だから、わたしなら大丈夫。レン君がついててくれるから」
……俺は、それ以上何も言えなかった。リンがこうまで言っている以上、俺にできることは、リンを支えることだけだ。
何があっても、俺は君の味方でいるよ。
それからしばらくすると、お手伝いさんが俺たちを呼びに来た。リンのお母さんが起きて、リンに会いたがっているという。俺とリンは一緒に、リンのお母さんに会いに行った。
「お母さん!」
リンのお母さんは、不自然に痩せ、顔色がひどく悪くなってしまっていた。誰が見ても、病人だとわかるぐらいに。辛そうにベッドから身体を起こし、それでもリンのお母さんは、リンを見て微笑んだ。
「すぐ出迎えてあげられなくてごめんね。思っていたのよりもずっと副作用がきつくて。本当は何か作ってあげたいんだけど……」
「やめて! お母さん、病気なんだから! 無理しないで!」
リンが半泣きになる。俺はリンの肩をぎゅっと抱きしめ、リンが倒れたりしないように身体を支えた。
「レン君も久しぶり。向こうの生活はどう?」
「順調に行っています。……一番新しい舞台の映像を持ってきました。良かったら見てください」
最初に上演した時とは、少し演出を変えてみた。演出が変わると、舞台はかなり印象が変わる。
……本当は、リンのお母さんに直接舞台を見てほしかった。俺の母さんは、アメリカまで舞台を見に来てくれたけど、リンのお母さんは色々と不都合があって、それができなかった。リンと「いつかリンのお母さんを客席に呼ぼう」という話をしていたけど、もうそんな機会は来ないのかもしれない。
「ありがとう。お母さん、二人が成功して嬉しいわ。いつか、ブロードウェイも手がけることができるようになるわね」
リンがまた泣きそうになる。……その時にはリンのお母さんは、この世にいないかもしれないのか。
「お母さん、具合、どうなの?」
「大丈夫よ。治療はちゃんとしているし、ガクトさんもルカも回復するまで面倒みるって言ってくれてるから、お母さんなら本当に大丈夫。リンは、自分の仕事と家庭を大事にをしなさい」
俺は部屋を見回した。綺麗に片付いていて、整理整頓が行き届いており、必要なものはざっと揃っている。リンのお母さんが着ている服もちゃんとしている。面倒はしっかり見てもらえているようだ。
「リンは今、どうなの?」
リンはお母さんに訊かれるまま、自分のことを話した。仕事のことや生活のことについてだ。リンのお母さんは、娘の話を嬉しそうに聞いている。
「お母さん、本当に大丈夫なの?」
話が一区切りついたところで、リンは改めて尋ねた。
「ええ」
「お父さんが戻ってきて、出て行けって言われたりしない?」
それは俺も気になっていた。あのお父さんのことだから――直接会ったのは俺が殴られた時だけだが、どんな人かなんて簡単に想像がつく――離婚した配偶者に「なんでここにいる! とっとと出てけ!」とか言ったりしないんだろうか。
「ここはもうルカの家だし、ガクトさんとルカは、そんなことになっても追い出させたりしないって言ってくれているの。ちょっと心苦しいけど、ハクにも『前の家で一人暮らしするなんて言ったら、強制入院させてやるから』って言われてしまったし、ここにいるわ」
リンがずっと心配していた、ハクさんとリンのお母さんの関係は、完全に修復できたようだった。……そもそも、結婚式の時も、ちゃんとリンのお母さんいたしな。
「ハク姉さんだってお母さんのことが心配なのよ」
「ええ、そうね……これで『カエさん』って呼ぶのを止めてくれたら嬉しいけど、さすがにそれは高望みかしら」
言ってから、リンのお母さんはしまったという表情になった。つい本音が出たらしい。というか、ハクさんまだその呼び方なのか。俺が言うのもなんだが、素直にお母さんって呼べばいいのに。
リンのお母さんのお見舞いを終え、俺たちが帰宅しようとしていると、ハクさんがやってきた。
「あ、リン。今からレン君の実家に戻るの?」
「ええ。……ハク姉さん、ちょっといい?」
リンはハクさんを引き止めた。……多分さっきのことだろうな。実際、覚悟を決めた表情をしている。
「何?」
「あのね……ハク姉さん、お母さんのことを『お母さん』って呼ぶの、絶対に無理?」
ハクさんは渋い表情になった。
「リン……あんた、いきなり何を言い出すのよ?」
「ハク姉さん、一生のお願い。お母さんのこと、名前で呼ぶのは止めて、『お母さん』って呼んであげて」
ハクさんは渋い表情のまま、ため息をついた。そして天井を見上げている。リンはというと、唇を引き結び、一歩も動かない構えを見せていた。
「……あたしにそんな資格ないわ」
やがて、ハクさんは吐き出すようにそう言った。そんな意地は張らなくていいと思う。
「お母さんは、ハク姉さんに『お母さん』って呼んでほしがっていると思うわ。資格なんて関係ない」
「今更、よ。今更どんな顔して『お母さん』なんて呼べばいいわけ?」
駄目だこりゃ、このままじゃ堂々巡りになる。
「そうやってリンのお母さんが死ぬまで、そうする気?」
気がつくと、俺は口を挟んでいた。……言ってから、この言葉はまずかったことに気がつく。リンにショックを与えるじゃないか、こんなことを言ったら。実際、ショックを受けた表情でこっちを見ている。
「あ……リン、ごめん。俺、別にリンのお母さんが死ぬと思ってるわけじゃなくて……」
リンは手を伸ばして俺の口を押さえると、ハクさんの方を向いた。ついでに言うと、ハクさんもショックを受けた表情をしている。
「ハク姉さん、レン君の言うとおりよ。お母さんが死んでからじゃ遅いの。気持ちがあるのなら、今呼んであげて。わたしからの、一生のお願い」
「俺からも頼みます。呼んであげてください」
それがリンの願いなら、叶えてやりたい。一緒に頼むことぐらいしかできないけれど。
二人してそうやって必死になって頼んだのが功を奏したのか、最終的にハクさんは「わかった、わかったわよ」と言ってくれた。リンが見るからに安心した表情になる。
「ハク姉さん、絶対よ。絶対、お母さんのこと『お母さんって』呼んで」
まだ生きているうちに。リンが口には出さなかった言葉が、聞こえたような気がした。
「ハク姉さん、お母さんのこと『お母さん』って呼んでくれるかな?」
帰り道、リンは少し不安そうにそう呟いた。
「大丈夫だと思う」
姉貴から多少の話は聞いている。ハクさんは、別にリンのお母さんを嫌ってたりはしないし、自分にしてくれたことに、ちゃんと感謝している。ただ、そういう感情を素直に出すのが恥ずかしいんだろう。さっきの「そんな資格ない」という台詞からも、その辺が伺える。
「一度呼んでしまえば、後はすんなり行く。ハクさんだって、それくらいわかってるよ」
「うん……そうよね。きっと、そう」
リンはそう言って、俺の手を静かに握った。
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