私が自分の感情の折り合いをつけようと必死になっている間に、実家はまた妙な局面を迎えていた。父が突然、隠居すると言い出したのだ。私が母の厄介になっている間に、父が失明したことは聞いていたけれど、そこまで日常に支障を来たすようになっているとは思っていなかった。
 ガクトさんと一緒に父に会って、名義の書き換えといったあれこれを行う。父とは、あまり話さなかった。何を話していいのかわからなかったから。ガクトさんと父が話しているのを黙って聞いて、必要なところにサインをしたり印鑑を押したりする。
 私が育った家が、私のものになる。もともとその予定だったはずだが、何だか奇妙な気がする。
 定期的にリフォームしているから古びては見えないが、実際のところ、かなり古い家だ。父もここで育ったのだから。更にその前のことは、よくわからない。物心ついた時には祖父母はいなかったから、この家の歴史を聞いたことはなかった。
 あの家でガクトさんやミカや母と一緒に暮らすのか。あまり、いい思い出はない。思い出すのは淋しかったことばかり。
「家は変わるものだよ。頑張って新しい風を入れよう」
 私の話を聞いたガクトさんは、力づけるようにそう言って、私の肩をぽんと叩いた。
 実家に戻り、新しい生活が始まった。お手伝いさんがいるので家事はしなくても良くなったが、私は憶えたことを忘れたくなかったので、母を見習ってキッチンにだけは立つことにした。
 母の闘病も始まった。ハクが様子を見にやってきて、私はものすごく久しぶりに、このすぐ下の妹と話をした。
「話、できるようになったんだ」
 ぶっきらぼうな口調で、ハクはそう切り出した。……考えてみたら、前に顔を見たのがいつかも思い出せない。私が母のところに行くのと引き換えにハクは家を出て、それきり戻って来なかった。しばらくして結婚したけれど、私は式には行かなかった。結婚した相手がガクトさんの親しい人だったので、ガクトさんは式に出席したそうだけど。
「……ええ」
「ロボットでも、なくなったんだ」
「……何それ」
「姉さんはずっと、いい子のロボットみたいだった」
 そこまで言って、ハクは黙った。なんだかむすっとしている。
「何を怒っているの?」
「……怒ってない。姉さんが嫌いなだけ」
「私があなたに何をしたというの?」
「いるだけでうっとうしいのよ!」
 ハクに怒鳴られ、私は困ってしまった。私は、ハクに何かした覚えなんてない。小さい時はハクを見るのも嫌だった時期があるのは確かだけど、今は別にそうでもないし。
 これはもしかしたら、私がリンに抱いている感情と同じなのかもしれない。私はリンを見るのが嫌だった。
「……私はリンが嫌い」
 気がつくと、私はハクに向かってそう言っていた。何か意図があったからというわけではなく、つい口をついて出てしまった、そんな感じだった。ハクが唖然とした表情になる。
「……なんで? リン、姉さんに何かした?」
「あなたと同じよ。いるだけでうっとうしいの」
「リンは姉さんに何もしてないじゃない!」
「私だって、あなたには何もしていないわ」
 答えた瞬間、ハクがものすごい目で私を睨んだ。ほんの少しだけ、目の前の妹を怖いと思う。
「何言ってんのよ! 姉さんのせいで、あたしがどれだけ苦労してきたと思っているの!? お父さんはいつも、姉さんとあたしを比べてばかりだった。あたしが姉さんほど勉強ができないし、行儀も悪いって、そればかり」
「比べたのはお父さんで、私じゃない」
 勉強をしていれば、怒られなかった。いい成績を取れば、父は私のことをいい子だと言って、褒めてくれた。だから私は、お父さんの言うことにはなんでも従って、余計なことは何もしないことにした。
「けど! 姉さんがリンのせいで、どんな被害を受けたっていうのよ!?」
 私の目の前で、ハクが喚く。目を吊り上げて、凄い形相で。
「あたしは少なくとも、姉さんのせいでいっぱい苦労をした。あたしだけじゃない、リンだってそうよ。姉さんさえいなければって、ずっと思ってたわ」
「だから何よ!? あなたとリンには、守ってくれる人がいたじゃない!」
 私にはそんな人がいなかった。だから、自分で自分を守るしかなかった。どこに出ても恥ずかしくない、ひたすら優秀ないい子になること。
「守ってくれるって言ったって、あのお父さんの前じゃどうしようもないわよ! それに、カエさんのことを言っているんなら、カエさんが守ろうとした中には、姉さんも入ってる! それもわからないっていうの!?」
「とにかく、私はリンが嫌いなの! 顔も見たくない!」
 私がそう叫んだ時だった。部屋の戸口の方から、物が落ちる音が聞こえた。驚いてそっちを見る。
 ……そこに立っていたのは、アメリカにいるはずのリンだった。後ろに、男の人が一人立っている。多分、リンの夫のレン君だろう。
 リンは足元に転がっているハンドバッグ――さっきの音はこれが落ちた音のようだ――を拾いもせず、蒼白な顔でこっちを見ている。いつからそこにいたのだろう。
 なんだか、決まりが悪い。私は無言でリンから視線をそらした。
「あ……リン……戻ってくるの、明日じゃなかったの?」
 ハクがリンに訊いている。
「え? 今日って言っておいたはずだけど……」
 リンが困ったような表情で、視線を彷徨わせ、背後のレン君を伺った。
「じゃ、あたしの勘違いか。……あれ、リン。荷物、それだけ?」
 リンが持っているのはハンドバッグだけで、スーツケースなどの大きい荷物がない。アメリカから戻って来たにしては、随分と身軽だ。
「レン君の実家に置いてきたの。あっちに泊めてもらう予定だから」
 リンはまだ青ざめていた。震えながら、私の方を見る。今にも泣きそうな顔だ。
「……ルカ姉さん。そんなに、わたしのことが嫌いなんだ」
 今まで、ずっと本当の気持ちを口にしたことがなかった。血の繋がった妹のリンのことが、嫌いだということ。嫌いだということを認めたくなかったから、私はリンごと無視してきた。
「リン、姉さんの言うことなんか気にしちゃ駄目よ」
「ハク、あなただって、さっきまで私のことが嫌い嫌いって言っていたじゃないの。あなたは私が嫌い、私はリンが嫌い」
「うるさいわね! 時と場所を考えたらどうなの!?」
 ハクが怒鳴る。
「……いい。なんとなく、わかってたから。ルカ姉さんがわたしのこと、嫌いなんだって」
 リンはそう言うと、瞳を拭った。そんなリンの肩を、レン君が抱きしめている。
「ハク姉さん、お母さんは?」
「カエさん、今は気分が悪いって、上で休んでるの。もうちょっとしたら下りてくると思うけど……」
「……そう。じゃあ、悪いけど、ちょっとだけこっちで待ってもいい? わたしがいるのが邪魔なら、どこか別の部屋に行くから……」
「いい加減にしろよ!」
 不意に、怒鳴り声が響いた。レン君だ。私は驚いて、この初めて見る義弟の顔を見た。彼はすごい目で私を睨んでいる。
「リンがそこまで遠慮する必要はないだろ! 大体あんた、何なんだよ。リンにあんなひどいことをしたのに、まだリンのことを責めるのか!?」
「レン君、その話は……」
「リン、悪いけど俺も黙ってられない。あんたは知らないだろうけど、あの頃のリンはずっとあんたを心配してたんだよ。姉さんの様子がおかしい、どうしたらいいんだろうって、夜も眠れないぐらい悩んでた。それなのに、あんたはそのリンに何をした!? 階段から突き落として病院送りにしておいて、よくそんなことが言えるよな!?」
「姉さん、リンを階段から突き落としたって……」
 ハクが呆気に取られた表情で私を見る。階段から突き落とした……そんなことあったっけ? ああ、そうだ。リンがまだ、高校生の時の話だ。リンの行動に苛立った私は、階段からリンを突き落として怪我をさせた。
「……十年近く前の話よ」
 乾いた声でそう言いながら、私は疼くものを感じていた。十年以上前……でも、私の心に引っかかっている棘は、もっと前のものだ。
「あんたたちは、それよりずっと前のことをぐちゃぐちゃ言ってるだろ! 大体あんた、リンのどこが気に入らないんだ!? リンの本当のお母さんが、あんたにひどいことをしたからか!? それとリンに、何の関係がある!?」
 私は、レン君が事情を知っていることに驚いた。……リンから聞いたのか。そんな話を、この人に。
「リン、あなたそんな話をしたの?」
「勘違いしないでくれ。俺がしつこく聞いたんだ。リンが辛そうな顔、してたから」
 ぴしゃっと叩きつけるような口調だった。
「レン君、やめて」
 リンが半泣きで、レン君の服を引っ張った。首を横に振っている。
「喧嘩は駄目。お母さんに聞こえてしまう」
「けど……」
 リンはもう一度、首を横に振って、レン君の唇を指で押さえた。それから、私の方を見る。
「ルカ姉さん。もう、あの時のことはいい。わたし、全部忘れることにする。ルカ姉さんのしたこと、みんな忘れる。もうなかったことにする。許すことがわたしの復讐なんだって、そう、思うことにするから」
 リンは、よくわからないことを言い出した。許すことが自分の復讐……? この子は一体、何が言いたいんだろう?
「リン、本当にそれでいいのか?」
「うん……わたし、そうしたい」
 リンとレン君は、勝手にわかりあっている。なんだか少し、面白くない。
「わたし、上でお母さんが起きるまで待ってるね」
 リンはレン君と一緒に、部屋を出て行ってしまった。私は取り残された気分だった。
 視線を向ける先に困って、残っているハクを見る。ハクは拍子抜けをした顔をしていた。リンが言い出したことは、ハクにとっても意外だったらしい。
 私がそうやってハクを見ていると、ハクがこっちを見た。それからため息をついて、首を横に振る。
「あ~、えーと、姉さん」
「なに」
「……さっきあれだけわあわあ言っといてなんだけど、あたしも姉さんとのいざこざは忘れることにするわ」
 すぐ下の妹の突然のこの変わりように、私は驚いて声も出せなかった。ハクが私を見て、妙な笑みを浮かべる。
「妹にあそこまで言われたら、あたしも考えないとね。許すことが復讐てのはよくわからないけど、あたしも姉さんを許せるよう、努力してみるから」
 ハクはぱんぱんっと手を叩くと、立ち上がった。
「妹に先を越されるのって、みっともないわよね。じゃ、あたしは他の部屋に行ってるから。カエさんが起きたら、リンと挨拶して、それから帰るね」
 ハクは部屋を出て行ってしまった。私は一人、居間に取り残される。なんだか面白くない。……何なんだろう、この気持ちは。
 私はそのまま、ぼんやりと居間の椅子に座っていた。そのまま、リンのことを考えてみる。
 ……私が、リンのことを好きになるのは無理だ。でも、私がリンへの気持ちを引きずっていたら、悲しむのは母だ。母のことを想うのなら、私はリンへの嫌悪を捨てた方がいい。でも……気持ちは、捨てようと思って、捨てられるものじゃない。そうした方がいいことがわかっていても、やっぱり私は、リンのことが嫌いだ。……母には時間が残されていないというのに。

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ロミオとシンデレラ 外伝その四十八【嫉妬は愛の子供】その三

閲覧数:587

投稿日:2013/01/06 20:46:58

文字数:4,622文字

カテゴリ:小説

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