好きという言葉を真っ黒に塗り潰して―――それでもまだ、私は。
<造花の薔薇.10>
「人々に噂をばらまいたのね、ウィリアム」
「と、おっしゃると」
「レンが尋ねてきたわ。私が…カイト、さんに恋をしているのかと」
もう今更あがこうとは思わない。
最も、私の「恋人」候補のその男性、カイトさんに私がどれだけ執心なのかと根も葉も無い噂を立てられたところでどうなるというのだろう。
別に他に想い人がいるわけでもなし、困ることなんてない。
「あなたの狙いは何なのかしら。良く考えれば、他国のお坊ちゃんに恋しているという噂を立てて何か得るものがあるの?是非伺いたいわ」
―――く。
視線を逸らしていたから、という訳ではないだろう。
く。
初め、私はそれが何の音なのかわからなかった。
く、くくっ。
笑い声。
初めて聞いた、ウィリアムの笑い声。
この笑顔の仮面を被った男が初めて声をあげて笑っている―――その事実に気付いたとき、私は一瞬で鳥肌が立った。
笑った?この男が、何故!?
理由なんてわからない。
でも嫌な予感がする。それは肌を這い、じわじわと体を侵食する毒のように濃度を増していく。
「王女、間もなく臣下の者がここへ参るでしょう」
「そうらしいわね。何を言わされるのかまだ聞いていないけれど」
「今申し上げます」
堪え切れない、そんな笑いを響かせながら彼は口を開く。
「貴女は、緑の国との戦争を宣言なさるのです」
―――な、に、を…
「…何を、」
喉に何かがつかえたような気がした。
戦争?何故?
この男は、そんなことを命令しろと!?
「カイト様には恋人がいらっしゃる。それは緑の国の女性です。ですから彼は貴女の求婚を退けた」
「…それに怒った私は、緑の国を滅ぼす…そういう事にしたいのね」
「違いますか?」
「…」
ぐっ、と唇を噛む。
と、そこにウィリアムの声が掛かった。
「王女、ご安心ください。私はもう長くありません」
突然の話の転換に驚いた私はウィリアムを見上げる。
そもそもそんな話は知らない。と言うより、そう言われた所で何の冗談かと思うだけだろう。
このウィリアムが、私が物心ついたときからずっと変わらずに笑顔で佇んでいた彼が、もう長くない?
でも今のウィリアムの言葉は何故か信じることが出来た。何処となく切羽詰まった様な響きを感じ取ったからかもしれない。
ウィリアムは、表情を笑顔に固定したまま続けた。
「ですから、今のうちに復讐を果たしておきたいのです」
―――復讐。
私の頭脳は冷静にその言葉を受け止めた。
予感はしていた。何故なら、ウィリアムが私を憎んでいる事等一目瞭然だったのだから。
そして、私が彼から復讐を受けるような事と言えば一つしかない。
「…お父様の、復讐」
「はい」
ウィリアムは飽くまでその慇懃な態度を崩さずに続ける。
「貴女がレン様を守ろうとするように、私は国王陛下が何よりも大切でした。ええ、何よりも、誰よりも。他の何より、私自身より、それこそ世界よりずっとずっと大切な方だったのです」
私には良く分かる感覚。
そう、それは私がレンに対して感じるのとそっくりな思いだ。
だから私は口を挟むことも出来ずに、じっと彼の言葉を聞いていた。
ほんの微かにではあるけれど、ウィリアムの声に決意の響きが混じる。
「だから、陛下が貴女に殺されたあの日、私は誓った―――陛下の想いを成就させると」
「待って!」
思わず私は声を上げる。
だって、私はお父様を嫌っても憎んでもいなかった。怖くはあったけれど、親子の情が欲しかった。
だから、私が意図してお父様を殺した様な言い方は聞き過ごせない。
「でも私はお父様を殺すつもりなんか…!」
「ええ、確かに貴女の行為は正当防衛。私は貴女に殺意があったとは思っていません」
「なら、どうして!」
ならどうして、復讐なんて。
叫んだ声の後に沈黙が広がる。
言葉の息の根を止めるような静けさ。
じっとウィリアムを見詰めていた私は、彼が一瞬無表情になるのを確かに見た。
それは果たして何故の事なのか。私が判断する前に言葉は続きを得た。
「これは陛下の、黄の国への復讐です。そして、貴女達への復讐でもある」
――――え?
流石に予想を超えた言葉に、私は頭が真っ白になるのを感じた。
だって…え?『黄の国への』?『貴女達への』?
私一人に対してではなく?
「陛下はこの国に纏わる全てを嫌っておられた。特に王室を憎んでおられた。リン様、ここまでの道筋は陛下がお付けしたものなのですよ―――私ではなく」
呆然と私は彼を見た。
それはつまり…
「…で、でも、お父様は国王だったわ…」
「だからこの国を愛して当たり前だと?リン様ご自身もさほどこの国に愛着はございませんでしょうに」
「でもっ!」
反論しなければ。
私の頭の中で、その言葉がぐるぐる回る。
「でも、でもお父様はもう亡くなられたわ。なのに何故続けるの?望んだ人はもう居ないのよ!?」
「いますとも」
何を言うのやら、とでも言いたげな驚きの表情を浮かべてウィリアムは答えた。
「私が望んでいます。残念ながら、私は自分の望まぬ事は出来ない性質ですから」
苦笑混じりの言葉。
つまりそれは、彼が自分の意志で全てを行って来たということだ。
頭に血が上る。
―――何よ。
私の中で、私が叫ぶ。
―――お父様がどうのだなんて、結局体の良い自己弁護にすぎないじゃない…!
心の叫びは奔流となり、その水飛沫は口を衝いて飛び出す。
「ならばそれは唯の自己中心的な暴挙だわ!誰からも許されはしないのよ!」
「ええ、でしょうね」
私の言葉に彼は満面の笑みを浮かべた。
まるで、我が意を得たとでも言いたいかのような、晴れ晴れとした笑みを。
何故笑えるの。
まるで場違いに思えるそれは、私の背筋を粟立てた。
「では王女、お尋ねします」
微かな笑顔を浮かばせたまま、ウィリアムは優しく私に問う。
「もしもレン様が何かを望んだまま亡くなったとしたら。そして貴女は彼が何を望んでいたのか知っていたとしたら、貴女はそれを叶えずにいられますか?」
「そして今貴女がなさっていることと私がしていること、そのどこが違うとおっしゃるのでしょう?」
―――返せる言葉なんて見つからなかった。
彼と私は、その点に於いては完全に同罪なのだ。
どちらも、自分の思いに我が儘に従っているだけなのだ。
そして、誰からも許されはしない。
自分自身からも許されはしない。
「王女ッ!」
音を立てて扉が開けられる。
レン、だ。
彼は肩で息をして、必死な顔で私を見ている。
私は麻痺したような頭のまま、声を上げた。声帯を震わせて言葉を紡ぐ。ただ、自分でもその内容は把握できなかったけれど。
皮肉にも程がある。この十年間王女として身につけていた仮面が、私の心と関係なく「リン王女」として完璧な受け答えをさせる。
そう、考えてみれば私とウィリアムは本当に似ている。
仮面で隠した本心がいつだって自己中心的な願望に塗れているところまで、そっくり。
泣きたい。
泣いてしまいたい。
今すぐ命を下した臣下全てを呼び戻し、今のは嘘、ただの気まぐれだったの、と言いたい。
でも、私の中で囁く声がする。
例え誰が死のうが、レンさえ無事ならいいじゃない、と。
顔も知らない百人の命より、傍で笑う一人の方がずっと大切でしょう、と。
そして私は、その誘惑に逆らえないのだ。
もう気付いていた。
私は、どうやって弁護することも出来ない悪の娘だ。
レンを死なせたくなくて、必死になった。護っているつもりだった。でも、本当に守っていたのは、私自身だった。―――最初から、分かっていたことだったけど。
レンだけが私に笑いかけてくれた。私を好きになってくれた。
レンだけが。
だから私はレンに生きていてほしいと願った。彼だけが、私に生きる意味をくれたから。生きていても良いんだと思わせてくれたから。私が死んだとしても、私の生きていた意味を持っていてくれるだろう唯一の人だから。
好きだ、なんて全然綺麗な言葉じゃない。
少なくとも私の「好き」は、こんなに澱んでいる。
そして私はその醜く濁った感情のまま、貴方を救おうと走るのだ。
―――ごめんなさい。
―――ごめんなさい。
―――ごめんなさい。
―――ごめんなさい、レン…!
貴方を大切に思わなければよかった。
そうすればきっと今よりましな世界になっていただろうに。
でも、どこまでも身勝手な私は、レンに囁くのだ。微笑みながら。
「でね、レン。さっきも言ったけれど、お願いがあるの」
私の言葉でレンの心が刔られて行く。
段々血の気が引いていく顔。凍り付いたように見開かれた目。
彼にとっては、絶対に辛い要求のはず。
それを知りながら、私はレンに「お願い」する。
「あの女を、消して頂戴」
彼の返事が何であるか、知りながら。
そう、私の願いであればレンの答えは一つだけ。昔から、いつだってそうだった。
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