かび臭いにおい…。
まるで、『あのとき』に戻ったように不快なにおい…。
目に浮かぶ、灰色の天井とおりのような鉄格子。
「なんで…」
思わずつぶやいた自分の声で、レンは目を覚ました。勿論、天井は高く、灰色なんかじゃないし、鉄格子もない。しかし、ぼんやりとしたほの暗い、その雰囲気は妙に地下牢に似ている。
半身を起こして辺りを見回す。後頭部がずきずきと痛んだ。ベッドの上に長座するような体勢になっていた。ふと見ると、窓の月明かりとランプの光を頼りに、ミキが古びた大きな本を必死に読もうとしている。レンには背中を向けているか、後姿でもどうにか読み解こうとしているのがわかった。
「目が覚めました?」
振り返りもせず、ミキは言った。
「…何する気だよ」
感情を声に出さないように、レンは言った。
そこではじめて、ミキは振り返った。
「何が、ですか?」
かわいらしい笑顔で、ミキは問う。本当に何も知らない子供のような笑顔だ。
「人のこと殴っておいて、その笑顔はねぇだろ」
「すみません。この家の人たちは皆さん、こうでもしないとおとなしくしてくれない気がして」
「…。で、あんた、本当は何しようとしてんだ。こんな平然と人騙してまで…」
ミキをにらみつけた。そんなレンの目など気にも留めず、ミキは本を開いたまま机の上において、ゆっくりとレンのほうに歩いてきた。軽く身構えたと同時に、レンは息を止めた。息をすることすら無駄に思えるほど、不思議な緊張感があった。
そのとき、ミキはどこからかポケットナイフを取り出した。慣れた手つきですばやく刃を出した。
ミキはレンのすぐ後ろに回った。ギシッとベッドがきしみ、ミキの左腕がレンの肩にかけられた。肩にかけられた左手にはしっかりとポケットナイフが握られている。
「…何する気だ」
もう一度聞いた。
「悪魔の血と天使の血って、すごくハイレベルな魔法を使うのに必要なんですよ」
「…心臓でも突き刺す?」
「いいえ、あなたたちの体は捨てる部分がありません。臓器も呪いやまじないによくつかわれますから、なるべく傷つけることは避けたい」
「へえ。じゃあ、どうする? 傷つけないで殺すのは骨が折れるぜ?」
「でも、ひとつだけ、いらないところがあるんですよ」
「どこ?」
「…腕」
ミキがニィッと不気味な笑みを浮かべたのが、背中越しの声からも読み取れた。部屋の温度が一気に下がったような気がした。
ひやりと冷たいものがレンの手触れた。びくっとレンの体が反応を示し、とっさにそれを払いのけた。しかし、すぐにレンの手はミキに押さえられた。まるで生きていないような、氷のような冷たい手。
「…きれいな手ですねぇ」
舌なめずりをする音が聞こえた。
「この手から血があふれるなんて、想像しただけでゾクゾクしちゃう」
こっちはそんなことを想像する前から、違う意味でゾクゾクしている(悪寒的な意味で)。
「勿論、肉や骨、爪なんかは丁寧に解体しますけどね。肉はぐちゃぐちゃでも大丈夫ですし、爪や骨は手首を切ったくらいで跡形もなくなることはないでしょう?」
恐ろしいことを平気で言う。
「そうだ。今、のどは需要が減っちゃって、買ってくれる人がいないんですよね。だったらとっても無駄かなぁ。…じゃあ、のどつぶしても良いですかね? あぁ、ほら、口数減っちゃって。話さないなら、のどなんて必要ありませんもんね?」
ポケットナイフが首筋に当たって、ひやりとしたリアルな恐怖がレンを襲った。
まるで幼い子供が週末、何をして遊ぶか――そんな話をしているように、ミキは楽しそうに無邪気に言う。そのすべてが、恐怖を増幅させるのには十分すぎた。
「…ねえ、どこが良いですか? のどでも手首でも、お好きなところを切ってあげますよ」
今までになかったタイプの恐怖である。
静かに話しかけてくるだけなので、気を紛らわしてくれるものがない。だから、恐怖はいっそう強く思われるのだった。
「早くしてくださいよ。早くしてくれないと、『奴ら』が来ちゃう」
「や、奴ら…?」
「『キヨテルせんせー』ですよ。あいつらが着たら、私も仕事を中断せざるをえませんから」
よくわからないが、ミキにとってキヨテルは危険な人物なのだろうということは容易に想像ができた。
ガチャッ ガチャッ
ノブをまわす音がした。誰かが部屋に入ろうとしている。レンは内心、助かった、と喜んでいた。しかし、そのレンの期待を壊すようにミキが言った。
「ドアの前に、この部屋にあった家具を片っ端から積んでおきましたから、しばらくは開きませんよ。一応、魔法もかけてありますし。三分もあれば、あなたを殺してここから退散できます」
残念でしたね、と言うようにミキは不気味に笑った。
「――鏡音君、そこにいるんですかっ!?」
ドアの向こうから聞こえるらしいその声に、ミキは顔をしかめた。そして、
「ええ、いますよ、キヨテル先生。かわいいあなたの生徒さんはここに」
しばらく間があって、
「やはり君か、ミキ! 鏡音君を解放しなさい! これ以上何かあるともう見逃せなくなる!」
「あなたに見逃してほしいなんて思ってません。仕事をしてるだけですよ、私は? その何がいけないんですか?」
誰かを殺したらもう犯罪であって、犯罪はいけないことなんだよ、うん。レンはそんなことを説明してやりたくなった。しかし、そんなことをのんびり言っている場合ではない。
「でも、条件を飲むなら、彼を解放しても良いですよ」
「条件…?」
「ええ。簡単です。彼の代わりに、先生が殺されるんです」
あたりは、しんと静まり返っていた…。
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