そうして、何日が経過しただろうか。よく憶えていない。ミカを生んでからは、時間の経過が自分でもよくわからなくなっている。ミカに煩わされるだけで、一日が過ぎていくからだ。
 ミカは学習能力があまりないようで、相変わらず私を困らせてばかりいる。いつになったらいい子になることを学ぶのだろう。いつもお行儀よくしてればいいだけなのに。
「なあルカ、変じゃないか?」
 そんなある日、ガクトさんが私にそう言ってきた。
「変って、何が?」
 ガクトさんの手には、ページが破れた絵本があった。ああ昨日、性懲りもなくまた私に「読んでくれ」って言いに来たんだっけ。
「ミカのことだ。いくらなんでも、イタズラが過ぎるんじゃないかと思うんだが」
「ええ、困ったものね」
 だから、もう絵本を買うのはやめてちょうだい。そうしたら、もう絵本のページを破らなくても済むんだから。
「……ルカ、何か俺に言いたいことはないか?」
 真面目な表情で、ガクトさんは私にそう訊いてきた。言いたいこと? 絵本やぬいぐるみをミカに買い与えるのはやめてほしい。
 反射的に心に浮かんだ言葉を、私は押し殺した。これは、言うべきことじゃない。
「別に何も……もしかしたら、ミカにまだ絵本は早すぎるのかもしれないわ」
「そうか?」
 ガクトさんは、首をかしげながら行ってしまった。絵本を買うのが無駄だということは、わかってくれたのかしら。
 そう期待したのだけれど、わかってはもらえなかった。また新しい絵本とぬいぐるみを買ってきたのだ。さすがにミカに「破ったり汚したりしないで、大事にするんだぞ」とは言ったけど。
 ……その次の日、ミカは新しいぬいぐるみを床に放りっぱなしにしたので、私はそれを踏んで転ぶところだった。あれだけ置きっぱなしにするなって、言ったのに。私はミカを呼びつけてしかりつけた。でも、ミカは「しらない」と言い出す。この子は、自分が何をしたのかもわかってないの!?
 私は、目の前でぬいぐるみの耳を切ってみた。ミカがショックを受けた表情になり、すごい声で泣き喚きだす。
「みーちゃんっ! みーちゃあんっ!」
 みーちゃんというのが、このぬいぐるみの名前らしい。こんなものにいちいち名前が必要というのが、どうにもよくわからない。
「言うことをきかないと、ミカの耳も切るわよ」
「みーちゃんっ! けがさしちゃやあっ! いたいいたいやだあっ!」
「黙りなさいっ! また、ロフトに入れるわよっ!」
 泣き止まなかったので、またミカをロフトに入れる。ぬいぐるみを片付け、居間のソファに座ってぼんやりしていると、玄関のドアが開く音がした。ああ、買い物に行ったお手伝いさんが帰って来たのか。
「ただいま」
 帰って来たのは、ガクトさんだった。私は驚いて立ち上がってしまう。帰宅は、もっと遅い時間のはずだ。
「あなた、仕事は……」
「今日は土曜日だ。予定が一つなくなったので、早めに切り上げたんだが……」
 ガクトさんは部屋をぐるっと見回した。どうしよう。
「ミカはどこだ?」
「えっと、その……」
 どうしよう。どうしたらいいの? ミカはロフトだ。悪いことをしたから、お仕置きで入れた。悪いのはあの子だ。
「ロフトにいるわ」
「ロフト!?」
 ガクトさんの声が大きくなった。そしてガクトさんはすごい勢いで、走って行ってしまった。
「ミカ!」
 ガクトさんはロフトのドアを開けると、中からミカを引きずり出した。ミカはまだ泣き喚いている。
「ああ、よしよしミカ。泣くんじゃない。お父さんがついてるからな」
 泣きながらガクトさんにしがみついているミカを見て、私はイライラしてきた。何なのあの子は。まるでいじめられているみたいじゃないの。私がやっているのは躾で、いじめじゃないわ。
「ルカ、どうしてミカをロフトに入れたりしたんだ」
「いうことをきかないのよ。いうことをきかない子は、ロフトに入れるの」
「……何を言っているんだ!?」
 ガクトさんが大声で私を怒鳴った。私は、反射的に首をすくめた。……怒鳴られるのは、慣れてない。妹たちが怒鳴られるところは何度も見てきたけど。
「ミカはまだ二歳だぞ!」
「仕方ないの。言うことをきかないのは悪い子。悪い子にはお仕置きが必要なのよ」
 ガクトさんは泣き続けるミカを椅子に下ろすと、難しい表情で棚に手を伸ばした。手に取ったのは、デジタルの置時計。昨日、ガクトさんがぬいぐるみや絵本と一緒に買いこんできたものだ。時計なんか、どうしたんだろう。
 ガクトさんは時計をしばらくいじっていたけれど、やがて、私に向けて時計を差し出した。
「……これが、躾か?」
 私は時計だと思っていた画面を見て、驚いた。我が家の居間が映っている。映っているのは居間だけじゃない。私とミカもだ。
「これ……いったい……」
「どうも変だと思って、カメラを仕掛けておいた。……こんな結果になるとはな」
 時計の形をしたカメラだったらしい。映像だけでなく、音声までしっかり記録されている。
「だから、ミカが言うことを……」
 悪いのは私じゃない。ミカの方だ。
「ぬいぐるみの耳を切って、怒鳴りつけて、泣き喚くミカをロフトに放り込んで、どこが躾だ! 絵本も、ミカが破っていたんじゃないだろう!」
 ガクトさんの怒鳴り声とミカの泣き声が、頭の中で反響する。私を責めるかのように。私、責められるようなことなんてしてないのに……。
「言うことをきかないミカが悪いのよ」
「目の前で大事にしているぬいぐるみを傷つけられて、ミカがどれだけ傷ついたのかわからないのか!? ルカ、それでもお前は母親か!?」
「ぬいぐるみなんて、所詮は玩具よ。生きてすらいないわ。傷つくんじゃなくて、壊れるだけ」
 ガクトさんは、私の前で目を見開いた。それから、深いため息をつく。
「……そうか、わかった」
「わかってくれたの?」
「ああ。……これ以上話しても、無駄だということが」
 ガクトさんは部屋を出て行ってしまった。しばらくして戻ってくると、さっきの時計と、耳を切られたぬいぐるみを鞄に入れた。鞄を肩にかけ、ミカを抱き上げる。
「あなた、どうするの?」
「答える必要はない」
 ガクトさんは、そのまま部屋を出て行った。玄関のドアが開いて、閉まる音が聞こえる。……出て行って、しまったの?
 私には、何が起きたのかよくわからなかった。立ち上がって、家の中をうろうろと歩き回ってみる。……当たり前だけど、誰もいない。
 置いて行かれたのだ。ガクトさんはミカを連れて、行ってしまった。私はこれから何をしたらいいのだろうか。
 しばらく家の中を無目的に歩き回った後、私は自分の部屋に戻った。……私は置いて行かれた。それはつまり、私は必要ないということなのか。間違ったことはしていないはずなのに。どうしてそんな判断を下されてしまったのだろう。
 なんだかよくわからないけれど、ひどく疲れた感じがする。私はベッドに座った。……少しだけ横になろう。昼から寝るのはいいことじゃないけれど。
 ガクトさんがなんであんなに怒ったのか、私にはわからない。私はただ、ミカに泣くのをやめてほしかった。物を散らかしたり、食事をこぼしたり、そういうことも一切やめてほしかった。それだけなのに。
 泣き喚く子はロフトへ。それが我が家のルールだった。そうよ、私は悪くないの。そんなことを思いながら、私は目を閉じた。なんだか眠たい……。


「わたしもつれてって」
「うるさいわね、あんたはお留守番よ」
「どうして? わたしもいきたい! おそとにいきたい!」
「あんたを連れていく余裕なんてないの。ハク一人で手一杯なんだから」
「ハクがおるすばんじゃだめなの!?」
「あんたはあたしの子じゃないもの。わかったらおとなしくしてなさい。全く、なんでこれの面倒みなくちゃならないんだか……これもルミさんのせいだわ」
「ルミさんって?」
「あんたの本当のママよ。あんたを置いて出て行ったの」
「どうして?」
「ああもうあれこれうるさい! あっち行ってなさいっ!」


「どうしてシンデレラのお母さんは、シンデレラをいじめるの?」
「ルカちゃん、それは、シンデレラのお母さんが本当のお母さんじゃないからよ。自分の子供じゃないから、いじめるの」
「本当の子じゃなかったら、いじめるの?」
「きっと、本当の子じゃないと可愛くないからでしょう」
「かわいくないの?」
「だってほら、シンデレラだって、白雪姫だって、継母にいじめられるでしょう? お母さんが子供を可愛がるのは自分の生んだ子だからであって、そうじゃないと可愛がれないから、あんなお話がいっぱいあるんだと思うのね」
「……じゃあ、本当の子ならかわいいの?」
「たぶん、ね」
「じゃあなんで、わたしのママはわたしをすてていったの?」
「え? ちょっとルカちゃん、それは……先生にもわからないわ。た、たぶん……ルカちゃんのおうちには、何か事情があるんじゃないかしら。きっとそうよ」


 ……わからない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その三十八【こわれゆくもの】後編

 今回の話はなかなか納得のいく形にならず、何度も書き直すはめになりました。
 我ながら、難しい領域に踏み込んでしまったなと思います。

閲覧数:1,123

投稿日:2012/08/25 23:55:41

文字数:3,721文字

カテゴリ:小説

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  • 水乃

    水乃

    ご意見・ご感想

    こんにちは、水乃です。

    がっくん、家出ですか!?
    ルカは失敗をしたことが無いから、「これが悪くて、あれが悪くない」みたいな感覚が無いんでしょうか。今回の話だと、「子育て教室で教えられたとおりにやったから私は悪くない」という感じで。全部、「私は正しいから、向こうが悪いんだ」という考えになっているような気がします。それに、よく「虐待を受けていた親は、自分の子にも虐待をする」とききますが、それに似たような感じに思えます。がっくんがミカを連れ出したことはいい事ではないかって思ってしまいました。

    2012/08/27 13:00:38

    • 目白皐月

      目白皐月

       こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。

       がっくんのこれは、家出というより「実家に帰らせていただきます」の方が近いかも……。行き先は違うところになりますが。この次はがっくんの話になります。
       あ、後、育児教室ではさすがに「ぬいぐるみの耳を切れ」とは教えてません。まあ「私は間違ったことをしていないから、向こうが悪い」とは思ってはいますが。それに、派手な挫折も経験していないので、そっちも厄介ですね。失敗や挫折から学ぶところも多いわけですが、そっちの経験がゼロなわけですから……(全ての人が失敗から何かを学べるわけではない。何事も程ほどが肝心)
       このまま一緒にしてはおけませんが、かといって簡単に別居ともいかないのが難しいところです。いや、別居しようと思えばできるんですが。その辺りは次の話ですね。

      2012/08/27 23:56:18

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