ずいぶんと時間が経過したように思えたけど、実際はそうでもなかったんだろう。とにかく警察がやってきて、ソウイチさんは連行された。もう大丈夫と言われたので、わたしとハク姉さんも部屋の外に出る。わたしの姿を見たお母さんは、蒼白になって駆け寄ってきた。
「リン!」
 わたし、きっと、ひどい姿なんだろう。鏡を見る余裕がなかったから、どんな姿なのかわからないけど。お母さんが、わたしを抱きしめようとする。瞬間、左の肩に激しい痛みが走った。思わず悲鳴をあげてしまう。
「リン、どうしたの!?」
「左肩が痛くて……」
 お母さんが、わたしの肩をそっと触る。それだけなのに、肩にはひどく痛んだ。
「……肩が外れたか、どこか折れたのかも。病院に行かないと」
 警察の人が、救急病院まで送って行きましょうと言ってくれた。外は寒いのでコートを羽織って、わたしはお母さん、ハク姉さんと一緒にパトカーに乗り込んだ。
「……お父さんは?」
 病院に向かうパトカーの中で、わたしはお母さんにそう訊いてみた。これだけの騒ぎなのに、出てこなかった。普段ならあれこれ言うのに。
「お酒を飲んで眠ってしまったの。朝まで起きないと思うわ」
 多分夕食の後で、お父さんはソウイチさんとお酒を飲んでいたんだ。それで、お父さんは潰れてしまったのか。……わたしは反応に困ってしまった。
「まさかとは思うけど、お父さん、リンを襲って来いってあいつに言ったの?」
 ハク姉さんが、お母さんに尋ねた。お母さんが、首を横に振る。
「わからないわ……途中でお母さんは席を外してしまったし。でも、幾らお父さんでも、そこまでは」
「そんなのわかるもんですか」
 吐き捨てるように、ハク姉さんは言った。お母さんが、肩を落とす。わたしは何を言えばいいのかわからなくて、黙っていた。実をいうと、まだ少し頭がくらくらする。
 病院に着くと、わたしは診察を受けた。証拠にするとかで、写真も撮られる。……正直、あまり嬉しくない。
 痛む肩はというと、脱臼していた。肩をはめてもらって、包帯で固定してもらう。帰ってからお風呂に入っていいかと訊くと、包帯を濡らさなければ大丈夫だけど、浸かるのはやめてシャワーだけにしておきなさいという答えが返ってきた。本音を言えば、一刻も早くお風呂に入って、全身を綺麗に洗いたかった。
 治療が終わると、警察に連れて行かれて、調書を取られた。とりあえずあったことを説明する。部屋で勉強していたら、ソウイチさんが部屋に来て、縁談を断ったら殴られて押し倒されたという話だ。引きずられたはずみで、肩が外れたことも。
 わたしの後で、お母さんとハク姉さんも取り調べを受けた。もう帰っていいですと言われたので、タクシーを呼んで帰宅する。帰宅した頃には、深夜になっていた。住み込みのお手伝いさんが、心配そうに出迎えてくれる。……お父さん以外は、皆この騒ぎで起きてしまったようだ。
「……お母さん、わたし、お風呂に入りたい」
「わかったわ。リン、ビニール袋出しておいてあげるから、脱いだ服はそれに入れておきなさい。どのみち、もう着れないし。ベッドのシーツとかも全部、交換しておきましょうね」
 ベッドのシーツ……多分、血とかついているんだろう。そのことを思い出し、わたしは胸が苦しくなった。自分の部屋で眠りたくない。ついさっき、あんな人に押し倒されたベッドの上でなんて。どこでもいいから、他の場所がいい。
「リンは、今夜はあたしの部屋で寝かせた方がいいと思う。あんなことがあった部屋じゃ、寝れないでしょ。あたしの部屋なら、中から鍵もかかるし」
 わたしの気持ちに気づいたのか、ハク姉さんがそう言ってくれた。
「……いいの?」
「ええ」
「じゃ、ハク姉さんの部屋で寝かせてもらうけど……ハク姉さんは?」
「……なんか考える。リンの部屋で寝るとか」
「わたし、ハク姉さんと一緒に寝たい」
 部屋のベッドはセミダブルだから、二人で寝ようと思えば寝られる。正直言うと、一人になりたくなかった。
「わかった。じゃ、一緒に寝ましょう」
「じゃあ、リンとハクはとりあえずお風呂に入ってきて。ハク、その間にベッドの寝具、取り替えてもいい?」
「うん……わかった。替えておいて」
 ハク姉さんがぶっきらぼうな様子で頷くと、わたしの背を押して、階上へと上がらせた。お母さんは、お手伝いさんに指示を出している。
 寝巻きを取りに、一度自分の部屋に入る。その瞬間、足がすくんだ。
「……リン?」
 ハク姉さんの気遣わしげな声が聞こえる。わたしは唇を噛んで、気分の悪いのを押し殺した。
「う、うん。平気」
 わたしはクローゼットから寝巻きとガウン、替えの下着を取り出した。それを抱えて、ハク姉さんと一緒にお風呂場へ向かう。服を脱ぐと、包帯を濡らさないようにタオルを巻いて、その上からビニールを巻いた。ちょっと動きづらい。
 脱衣所にある鏡を見ると、わたしは痣だらけになっていた。顔の半分は腫れ上がっているし、ところどころ、乾いた血がこびりついている。わたしは立ちすくみ、鏡の中の自分を見つめてしまった。……ひどい姿。
「リン、早いところ入ろう」
 ……そう、よね。鏡を見ていても、この痣が消えるわけじゃない。お風呂に入ろう。
 わたしは、ハク姉さんと一緒にお風呂に入った。入ったというか、介助してもらったという方が近いかも。左肩は固定されているからあまり動かせないし。ついでに言うと、切った部分はひどく沁みた。
 お風呂に入って、できるかぎり身体を綺麗に洗うと、ちょっとだけ気持ちが落ち着いてきた。お風呂からあがって、バスタオルで身体を拭いて寝巻きを着る。寝巻きの上からガウンを羽織って、わたしとハク姉さんは廊下に出た。
 廊下には、お母さんがいた。お風呂からあがってくるのを待っていたみたい。わたしを、心配そうな表情で見ている。
「ハク、ベッドの寝具は替えておいたから。……二人とも、何か温かいものでも飲む?」
「うん……そうする。わたしたち、ハク姉さんの部屋にいるから」
 わたしは、ハク姉さんと連れ立ってハク姉さんの部屋に行こうとした。でもその前に、あることを思い出した。そうだわ……あれ、持って行こう。
「ハク姉さん、わたし、ちょっと部屋に寄るね」
 わたしは自分の部屋に入ると、机の上の小物入れから、レン君に貰った指輪を取り出した。いつものように、チェーンに通して首にかける。少し考えてから、クローゼットに向かい、ミミを取り出した。
「リン、それは?」
 ミミを抱えてハク姉さんの部屋に入ると、ハク姉さんが訊いてきた。わたしは椅子に座り、ミミを膝に乗せて手で撫でた。柔らかい。
「……レン君がくれたの。つきあうことになったクリスマスの時に」
 ぎゅっと抱きしめてみる。そうしていると、不意に涙がこみあげてきた。なんでこんなことになってしまったんだろう。あの人に組み敷かれた時に感じた恐怖。こんな時間が続くのなら、その場で死んでしまいたいと思った。今でもちょっと頭を過ぎっただけで、頭の中が真っ白になって、身体が震えだしてしまう。
 最後までされなかったんだから、幸運といえば幸運なのかもしれない。もしそうなっていたら、わたしはルチアと同じ行動を取っていたかもしれないから。そう考えようとしてみたけど、震えは治まってくれなかった。
「リン?」
「わたしに……触っていいの……レン君だけなのに……」
 レン君のお姉さんは、わたしの身体はわたしのものだから、嫌なら触らせなくていいって言ってくれた。なのにどうして、こういうことになってしまったんだろう。
「……リン、あんまり思いつめないの。殴っていうこときかせようとする人間なんて、ろくなものじゃないんだから」
 ハク姉さんがそう言った時、ドアがノックされる音がした。ハク姉さんが「誰?」と、ドアに向かって訊いてる。
「飲み物を持ってきたわ」
 お母さんの声だ。ハク姉さんが立ち上がってドアを開ける。ふわっといい香りが漂って、お盆を手に持ったお母さんが部屋に入ってきた。お盆の上には、湯気を立てているカップが二つ乗っている。
 お母さんはお盆をテーブルの上に置くと、わたしの前にやってきて、しゃがんでわたしの顔を心配そうに覗き込んだ。
「リン、大丈夫?」
「……わからない」
 自分でもよくわからない。自分が今大丈夫かなんて。でも、大丈夫じゃないような気がする。お母さんの手が、わたしの頭を撫でた。
「リン、もしほしいのなら、リンの部屋に内鍵をつけてあげる。二度とこんなことが起きないように」
「……お父さんが嫌がるわ」
 わたしまで部屋に鍵をかけて閉じこもったりしたら、お父さんはひどく怒る。それは間違いない。
「お父さんのことは気にしなくていいから。リンは自分のことだけ考えなさい。ね?」
 お母さんに言われたので、わたしはとりあえず頷いた。
「蜂蜜入りのカモミールティーを淹れたから、今日はそれを飲んでゆっくり休んで。……ハク、リンをお願いね」
 ハク姉さんが頷いたので、お母さんは部屋を出て行った。わたしはティーカップを手に取って、口をつける。……温かい。
「カエさんは……」
 不意に、同じようにハーブティーを飲んでいたハク姉さんが、口を開いた。
「ハク姉さん? お母さんがどうかした?」
「……やっぱり、いい」
 何を言おうとしたんだろう。でも、それを追求する気力は、わたしには残っていなかった。ハーブティーを飲み干すと、わたしはミミを抱いて、ハク姉さんのベッドに横になった。……眠ろう。とりあえず、今は。

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  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第七十五話【生と死の狭間で】後編

 書いた人間が言うのもなんですが、とりあえずこのクズ男は死ねばいいと思う、うん。

 これで合意の上だとか、しかるべき抵抗がどうたらとか、されても仕方がないとかいう人がいたら、私はキレる。

閲覧数:1,572

投稿日:2012/05/27 19:05:49

文字数:3,946文字

カテゴリ:小説

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  • 水乃

    水乃

    ご意見・ご感想

    こんにちは、水乃です。

    リンが殴られた仕返しにあたしが殴ってやりたいです。目には目を、歯には歯を。いや、それ以上でないと気が済まないです。しかし…政治家の息子ですよね?警察沙汰になったら親が怒るし、もう政治家になんてなれないでしょうね。親のイメージも下がるでしょう。もしこれで何もなかったらあたしが怒鳴り込みに行きます。その人の家に。
    もしお父さんがこの件についてクレームをつけなかったらとてもビックリします。

    2012/05/28 02:40:05

    • 目白皐月

      目白皐月

       こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。

       今回はきついエピソードになってしまいましたが、話の流れを考えるとどうしても必要なんです。
       ん?この程度の事件だと、そんなに騒がれない可能性も高いと思います。実際、二年ぐらい前に以前首相をしていた人の息子が、酔っ払い(薬物という噂も)運転でどこかの建物に突っ込みましたが、そこまでの騒ぎにはなりませんでしたからね(しかもこいつは色々と黒い噂が前からあったという)被害者の頭を叩き割るぐらいしないと、ニュースにはならないのではないでしょうか。
       ……個人的にはとっととあの世にでも行ってほしいですけどね、こういう人。

       リンのお父さんは……厄介なことに、この人、格上には強く出れないんですよ。ミクのお父さんに、一度怒鳴られたら黙ってしまったのはそのせいです。
       それとこの場合、クレームではリンは救われないでしょうね。色々ややこしいんですよ、この話。

      2012/05/28 23:23:01

  • 凪猫

    凪猫

    ご意見・ご感想

    このクズ男死ねばいいのに…
    殴り続けるなんて本当に最低以下ですよ!

    2012/05/27 21:23:18

    • 目白皐月

      目白皐月

       こんにちは、凪猫さん。メッセージありがとうございます。

       実は、「カエさんに刺される」という展開も考えたんですけどね……。その後の展開に無理が生じるのでボツになってしまいました。
       余談ですが、このクズの行動は支配欲がベースになっています。

      2012/05/27 22:44:01

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