安心させたところにこんな話をして、大丈夫だろうか……。でも仕方がない。もともと、この話をするために来たんだ。
「……家族と話し合って決めたんだけど、俺、しばらく母さんとニューヨークに行くことにした」
　俺の言葉を聞いたリンは、驚いた様子で顔を上げ、こっちを見つめた。
「そんなのおかしいわ。レン君は、何も間違ったことしてない。なのにどうして？　どうしてニューヨークに行かなくちゃならないの？」
　リンは、パニックになりかけているようだった。必死の表情で訴えかけてくる。
「嫌よ、レン君と離れるなんて！　レン君、ずっと一緒にいてって、言ったわよね。なのになんで、離れ離れにならないといけないの！？　わたし、レン君と一緒にいたい！」
　言いながら、リンは俺にぎゅっとしがみついた。その髪をそっと撫でる。俺だってリンと一緒にいたい。けど……ごめん、もう決めたんだ。
「リンのお父さん、俺たちを同じ学校に通わせるつもりはないんだ。俺がいつまでも学校に通い続けたら、きっとリンの方を転校させようとするだろう」
　リンは身体を離し、勢いよくかぶりを振った。瞳には涙がにじんでいる。
「だからってどうしてレン君がニューヨークに行くの！？　それならわたしが転校したって……」
「駄目だよ。お父さんのことだから、リンをものすごく遠くの、全寮制の学校とかに入れてしまうかもしれない。そうなったら、連絡も取れなくなってしまう。だから、俺が離れるよ。リンが、今の学校に通った方がいいんだ」
　ここに来る前に、大体の話は詰めてきた。初音さんにクオ、ついでグミヤとグミにも話をした。
「初音さんに頼んだんだ。俺が出す手紙を、リンにこっそり渡してくれって」
　リンのお父さんでも、初音さんは追い出せないだろう。そして初音さんは、喜んで協力すると言ってくれている。
　初音さんがいる。ハクさんもいる。姉貴もいるし、グミだって力になるって言ってくれた。少なくとも、リンは一人じゃない。
「ニューヨークの住所は知らせるから、リンからは直接手紙を出してくれればいい」
　俺の目の前で、リンは肩を落として下を向いている。辛いのを必死でこらえているんだろう。俺は手を伸ばして、リンの髪をくしゃくしゃと撫でてみた。
「向こうに行くって……どれぐらい？」
「……わからない。こうなったら向こうの大学に進学しようと思うし。だから、最低でも卒業するまでは、日本に戻ってこられないと思う」
　その頃には、いい加減お父さんの監視も緩んでいるだろう。けど、進む道によっては、独り立ちできるまでもっとかかるかもしれない。
「でも……レン君、以前に言ったわよね。ユイさんとは、別々の高校に進学したのが駄目になるきっかけだったって。だったら、わたしたちも……」
　リンはそんなことを言い出した。ユイか……なんかもう、記憶のかなたというか……。
「違うんだよ」
「レン君？」
「リンへの気持ちは、ユイの時とは全然違うんだ。ユイの時は、俺はもっと未熟で、恋愛って何なのかわかってなくて、軽い気持ちでつきあってた。一緒にいるのは楽しかったけど、でもなんていうか……リンみたいに、何がなんでも離したくないって気持ちにはならなかった」
　俺はポケットを探って、持ってきた小箱を取り出した。
「リン……すごく難しいお願いなのはわかっている。でも、俺のことを待っていてほしいんだ。俺が一人前になって、リンのことを迎えに来れるようになるのを」
　リンの目の前で、箱を開く。中を見たリンが、びっくりした様子で瞳を見開いた。
　箱の中に入っているのは、昨日買った指輪だ。あげるものって考えた時、月並みだけどこれが浮かんだ。アクセサリーのことはよくわからないから、姉貴にどんなのをあげたらいいのか相談して。
「そんなに高いものじゃないけど……いずれもっとちゃんとしたの、渡すから」
　今の俺に買えるものだから、高価なものじゃない。でも、この石がリンにはぴったりだと思ったんだ。
「綺麗……」
　指輪を見つめていたリンが呟く。そして、リンはおずおずと、右の手を俺に差し出した。
「待つわ……レン君のこと、待ってる。だから、はめてくれる？」
　俺は指輪を箱から出して、リンの薬指にはめた。リンが指輪を見つめ、静かに微笑む。
　わかってもらうことは、できた。安心すると同時に、淋しい気持ちになる。この時間が過ぎたら、リンとは長い間会えなくなってしまうんだ。もう一度、顔をしっかり見せてもらおう。
「レン君、わたし、今夜を特別にしたいの」
　不意に、リンがそう言った。うん？　既に充分特別じゃないのか？
「充分特別だと思うけど……」
　リンは俺の前で、頬を赤らめてもじもじしている。何だろう……と思った時だった。リンは突然俺の手をつかむと、自分の胸に押し付けた。え……えええっ！　一瞬、頭の中が真っ白になる。
　手の平から、なんともいえない柔らかい感触が伝わってくる。リンに触れた時「柔らかい」って良く思ったけど、今まで触れたどんな部分よりもずっと柔らかい。手にもっと力を込めてその感触を確かめてみた……って、何考えてんだっ！
「リ、リン……そういうことはしないでくれ」
　危うく、理性が完全に飛ぶところだった。
「……どうして？」
「どうしてって……俺にも我慢の限界というものが……」
　リンは俺の手を離すと、俺にしがみついてきた。思わず抱きとめる。視界に、リンの白い首筋が入った。着ているものが着ているもののせいか、ものすごく艶かしく見える。俺は必死で、唇を押し付けたいという気持ちを抑え込んだ。
「我慢しなくていいの……レン君に全部あげる」
　俺の耳元で、リンがそう囁いた。はっとして、リンを見る。リンは恥ずかしそうに微笑んでいた。
「リン……」
「レン君、お願い」
　リンはまた、俺の手を胸に押し付けた。さっきと同じ、柔らかい感触。えーと……。
「結婚前にそういうことをすると、幸せが逃げるんじゃなかったっけ？」
　我ながら、何言ってんだろう。
「こんな時にシェイクスピア？　今は十六世紀じゃないのよ」
　リンはくすっと笑った。そりゃ確かに、あの時代とは色々と違っているだろうけど……。
　俺はため息をつくと、リンの髪をそっとかきあげた。
「リン……一度始めてしまったら、途中でリンの気が変わっても、多分止めてあげられないよ。俺だって男なんだ」
　リンのことは大好きだし、俺たちはこの先長い間会えない。リンを抱きたくないなんて言ったら嘘になる。けど始めてしまったら、リンが怖がって泣き出したりしても、止まれないだろう。そんなのは嫌なんだ。
「わかってる。絶対に気を変えたりしないから、お願い」


　結論から言うと、リンにはかなり無理をさせてしまったと思う。できるかぎり優しくしてあげたかったけど、俺も経験があるわけじゃない。特に最後の方は無我夢中で、リンに配慮する余裕なんて無いに等しかった。例のものだけはちゃんと使ったけど。
　終わった後、リンはベッドに横たわってぐったりとしていた。後始末をして、リンの身体を拭っておく。これ……ゴミ箱に捨てちゃって大丈夫だろうか。とりあえず入れておいて、後でリンに確認しよう。
　汗ではりついた髪を額からそっとかきあげてやると、俺はそこに口づけた。リンの睫が振るえ、瞳が開く。
「リン、平気？」
「レン君……」
　リンが身体を起こそうとしたので、俺は慌ててそれを止めた。無理をさせてしまったわけだし、今はまだ横になっていた方がいい。
「しばらく寝ていた方がいい。疲れただろ」
　リンはこくんと頷くと、起こしかけた身体を元に戻した。俺はリンの隣に横になると、リンをそっと抱きしめる。リンが安心したように、息を吐いた。
　……このまま連れ去ってしまえたらいいのに。リンだって、こんな家にはもういたくないはずなんだ。
「ジュリエットも……こんな気持ちだったのかな」
　不意に、リンはぽつんとそう言った。ジュリエット？　ああ、ロミオがマンチュアに追放になる時のことを言っているのか。マンチュアへ行く前に、こっそりジュリエットの部屋に会いに来るんだ。
　リンは以前から、ジュリエットみたいな恋は嫌だって、言ってたよな。俺はリンの髪をまた軽くかきあげて、こめかみに唇を寄せた。
「そういうことは考えなくていいんだよ」
「でも……」
　リンはまだ不安そうだった。とりあえず『ロミオとジュリエット』のことは忘れよう。かといって、『ブレインデッド』はもっとまずい。リンにお父さんを殺せというのは無理がある。そもそもライオネルだって、母親がゾンビになってなけりゃ、殺すことはできなかっただろうし。
「パーディタでもミランダでも、シンデレラでも眠り姫でも、リンがなりたいって思うヒロインになれるよ。……きっとね」
　リンならベアトリスになりたいって言っても検討しよう。……ちょっと想像つかないけど。
　リンは少し身体を捻じって、俺の顔を見た。それから、手を伸ばして俺の頬に触れる。
「もう一度、キスしてくれる？」
　俺はリンを抱きしめて、唇を重ねた。いつか絶対、リンをここから連れ出すんだ。