真っ直ぐに僕を見詰める青い瞳。
それを見て、彼女が僕の鎖から自由になってしまったことを理解した。
信じられない。
許したくない。
―――渡さない。
<無色の部屋に.4>
一人いなくなるだけで、こんなに広くなるものなのか。
がらんとした部屋の中で、僕はぼんやりと前を見ていた。
別に何を見ていたわけでもない。ただぼんやりと、前を見ていた。
だって、何を考えたら良いのか分からない。リン、リン、リンリンリンリン。彼女はもうここにはいないっていうのに、彼女の事しか考えられない。
部屋と同じ暗く沈んだ思考が、嫌な回路を辿る。
リンが行ってしまった。
それはつまり、僕を捨てたということだろうか。
考えるだけで胸の中が黒く煮えたぎる。
捨てた?そんな事が出来る筈ない。だって、僕にはリンがなければならないのと同じで、リンにも僕がいなければならない筈だから。
―――早く連れ戻さなければ。僕は力無く立ち上がる。
リンはあんなに無垢なんだ。僕が守ってあげなくちゃ。僕が、染めてあげなくちゃ。
でないと悪辣な奴らに何をされてしまうか、分かったものじゃない。
例えば誰かに騙されて、心を奪われてしまうことだって―――…
え?
部屋の空気が、やけに冷たく感じた。
心を、奪われる…
…それは…そんな、リンが、僕以外の誰かのものになるっていうのか!?
考えた瞬間、背筋がぞわりと震えた。
今の僕はリンを縛ることが出来ていない。だから、万が一を考えれば、そんな情況だってないとは言い切れない。
あの笑顔を僕以外に向けて。
あの声で僕以外の名を呼んで。
あの腕で僕以外の体を抱きしめる―――?
頭から血が引く感覚というものを、初めて理解した。
リンが他の誰かのものになるなんて許せない。そんなのは絶対に許せない。彼女の心も体も、余さず僕のものであるべきだ。
隣からリンの姿がなくなったことで、僕は自分がいかにリンに執着しているかを理解していた。
愛だとか恋だとか、そんな甘ったるくてまどろっこしいレベルの思いじゃない。
側に居てほしい。いや、居ないとおさまらない。
だってほら、リンがいない、それだけで僕はこんなに渇いて、渇いて、渇いて、きみの全てを食い破ってやりたいような獰猛な気持ちになるんだ。ああ、本当に肉体的に縛り付けておけばよかった。違う、縛り付けるなんて生温い。手も足も折って、動けなくしておくべきだった。きみの自由を徹底的に奪って、何も考えさせずにおくべきだった。愛情でなくてもいい、恐怖で繋ぎとめたって構わなかったはずだ―
――こんな事になるくらいなら。
手段なんて選ぶべきじゃなかった。感情なんて気にするべきじゃなかった。僕にはリンしかいないのに。僕にはリンしかいらないのに。
強く握りしめた拳に、鈍い痛みが走る。
皮膚が破れたのか、ぬめるような感触が指先を浸す。
赤黒い血が足元に小さな水溜まりを作るのを、音で察知した。
―――追わなければ。
もう一度リンを捕まえる。僕は、それ以外の選択肢を考える事が出来なかった。
どこをどう歩いただろう。いや、仮にも電子の世界の事なのだから、歩いたと表現するのはおかしいかもしれない。
ただ、リンの痕跡だけを探して世界をさ迷った。あちらに向かい、こちらに向かい…そして僕は漸く一つの家に辿り着く。
ぼんやりと記憶に残るその外観。
曖昧な記憶を信じるのなら、ここは確か僕らの家だった筈だ。そういう目で見れば、入り口の前で花を見ている人影も何となく見覚えがあるような気がする。
ただ、深く考える必要も感じなかったから、そこで考えるのは止めにして「家」に近付いた。捕まえようとしてきたら、反撃してやる。
手加減する理由もないし、好きなようにやれるだろう。
「レン!」
こちらに気付いた緑の髪のヒトガタが、嬉しそうに僕の名前を呼ぶ。
…誰だっけこいつ。知り合いだったんだろうけど、やけに馴れ馴れしい。
殺してやろうか?僕の名前はリンに呼ばれるためだけにあるっていうのに。
でもそうだ、今は正常なふりをしないと。リンに会う為には、今は我慢だ。こんな奴のせいでリンをまた逃がしてしまったりしたら、目も当てられないからね。
「良かった…!無事だったんだ!リンちゃんも帰って来たし、これで…」
「リン、いるの?」
滔々と流れる声を遮るように問う。
今はお喋り女の話に付き合っているような余裕はない。
けれど、僕の話の振り方が余程唐突だったのか、緑の女は怪訝そうな顔をする。さっさと答えろ、と言いたくなるのを抑えつつ、僕は焦りの表情を浮かべてみせた。
「リンに…伝えたいことがあるんだ。今すぐ伝えないといけないんだ。だから探してて…今、家にいるの?教えて!」
焦燥感を感じているのは嘘じゃない。だから、我ながら上手いこと芝居できたと思う。
実際、僕の気迫に気圧されたように、緑の女はぎこちなく頷いた。
「う、うん…多分、部屋に…さっき帰って来たばっかりだから」
「ありがとう!」
それだけ聞けば、もう用はない。適当に感謝の言葉を投げ捨て、何となく覚えている「僕達の部屋」に向かって駆け出した。
僕達は「歌うプログラム」。だから、部屋の壁は防音処理を施されている。玄関で発した声がリンの耳に届いた可能性は低い。
つまり、リンが更に逃げていく可能性は、低い。
廊下を走り、階段を駆け登り、何となく見覚えのあるドアノブに手を掛ける。
高揚感が心を満たす、その一瞬。
開いた先で、リンがこちらを振り向いた。
「リン…!」
その時僕は、一体どんな顔をしていたのだろう。
僕を目にした途端、リンの顔は真っ青になったのだ。まるで、怯えるかのように。
でも、ああ、そんなの気にするような事じゃないか。今大切なのは、またリンが手の届く場所に戻って来たということ。他の事はどうでもいい。
扉を閉め、一歩ずつ彼女に近寄る。
電気が消され、窓からの光だけが照明となっている室内は、あの優しい牢獄に少し似ていた。
リンは、部屋の隅にあるベッドの上で凍り付いたように僕を見ている。もしかしたら、これから眠るところだったのかもしれない。薄手の寝間着は彼女に良く似合っていて、とても可愛らしい。
リンの愛しい部分を認識する度に、まるで大好きな料理に手を付けるかのような疼きが口元に競り上がってくる。
側にいるだけで渇きが満たされていく。
その体に触れたくて、抱きしめて確かめたくて手を伸ばす。
でももうただ抱きしめるだけでは物足りないのだということも、僕はしっかりと理解していた。
僕の中の暗い衝動が、耳元で「早く」とせっつく。
「リン…ああ、やっと捕まえた」
透き通る青い瞳。すべらかな白い肌。全部、僕が手に入れたもの。僕が、手に入れるもの。綿毛のように柔らかなその髪を、万感の思いを込めてこめかみの辺りからそっと撫で下ろし…そのまま首元に手を添える。
とくん、とくんと脈打つ温もりが、掌から染み込んでくる。
それは、日だまりのあたたかさ。
温度と共に浸透してくる愛おしさに目を細め、
僕はそのまま思いきり両手に力を込めた。
「―――っ!?」
思い出したように暴れる体。
それにさえ甘い喜びを感じ、苦しそうな彼女に向かって宥めるように言葉を紡いだ。
「大丈夫、もう二度と離さないよ…誰にも渡さない、僕の、僕だけのリン。誰かに、世界に君を奪われる前に、最後の一滴まで僕のものにするから…ね?」
彼女の意識を塞げ。
認識を塞げ。
その目が僕以外を映すことも、その思考が僕以外に向かうことも許せないのだから―――僕は君の全てを壊そう。
もう、自我程度を壊すのじゃあ飽き足らない。その命の全てを破壊してしまいたい。
ぎり、と柔らかい肌に食い込む自分の指。
そこから生まれる圧倒的な陶酔感に目を細めた時、視界の中で弱々しくリンの唇が動いた。
「―――れん…」
考えてみれば、首を絞められていたのだから、その声がはっきりと聞こえたはずがない。喉を圧迫されている上に酸素不足と痛みが重なって、声が出せたとしても掠れて弱々しいものだった筈だ。
けれど、薄暗い世界の中で、その声は残酷な程に鮮やかに響いた。
僕の心に満ちた暗闇が、怯えて霞んでしまう程に。
「―――…」
指の腹の部分にじんわりと広がるぬめった感触。
それは、人差し指から小指に向かってじわりと広がる。
血か、と思った。
でも違う。これはあれよりも冷たくて…温かい。
ふ、と首に掛けた手から力が抜けた。
自分が何をしたのか、何を考えていたのか、良く分からない。ただ、唐突に悪夢から目覚めたような感じがした。
―――リンが、泣いている。
苦しそうに咳混じりで、泣いている。
泣かないで。
そう慰めようと手を伸ばしかけ、彼女に触れる寸前に思い止まる。
…泣かないで、も何も、泣かせたのは僕じゃないか。こんなに怯えているのも、こんなに苦しくて辛そうなのも、全部僕のせいじゃないか。
僕が守るって言ったのに、護るどころか傷付けた。
あまつさえ―――殺そうとした、なんて―――
愕然として固まる僕に、背中から静かな声が掛けられた。
「鏡音レン、倫理回路の破綻を確認。検査・修正の必要があると判断します」
振り返れば、閉めたはずの扉が開いていた。そしてそこに立つ、緑の人影。
今ならきちんと思い出せる。入り口に立って僕を哀しそうに見ているのが、誰なのか。
「ミク、姉…」
ぼんやりとした声で呟くと、その端正な顔が泣きそうに歪む。
「ごめんね、レンくん、…リンちゃん。試したの、本当に二人が『安全』なのか…」
それが何を意味するのか、思考回路が答えを探す。
やけにあっさり玄関を通したミク姉。困ったように強張っていた顔。「試したの」。
…つまり。
「僕は、罠に掛けられたってこと…?」
「ごめんね二人とも…ごめん…ごめんね…!」
泣き崩れるミク姉とともに、階下の玄関からの複数の足音が聞こえる。
多分、姿の見えなかった他の三人だろう。それは簡単に予測がついた。
彼等がここに着いてしまえば全てが終わる。抵抗するつもりもないけれど、仮に抵抗したとしても無駄だろう。
なら、最後に残された時間で僕は何をすればいいだろうか。
思い付いた事は、一つだけだった。
「リン」
その場でリンに向き直り、ミク姉が制止するより早く愛しい人を抱きしめる。
腕の中で体が嫌がるようにもがくのを苦しく思いながらも、躊躇う事なく言葉を繋いだ。
「ごめん。…苦しめてごめん、泣かせてごめん。謝って済む事じゃないだろうけど、ごめん」
もう、リンの心は僕から離れているのだろう。だからこんな事を言っても、やはりリンを困らせることにしかならない。
それが分かっていても、伝えておきたかった。
太陽の光を透かして輝く金の髪からは、何か甘い匂いがする。
花の蜜のような優しく甘い香りを胸に吸い込み、耳元に唇を近付ける。
足音はもうすぐそこまで近付いている。
だから、今言わなければ。
自分より少し華奢で柔らかい感触を必死で抱きしめる。顔は見えない。怖くて見ることが出来ない。
それでも必死に、言葉に思いを込める。
「リン―――もう一度幸せになって、またあの日みたいに笑ったり怒ったりして。お願いだから…」
隣にいるのは僕でなければ、とは思わない。
僕が今正気でいられるのは、きっと奇跡だ。気を抜けば僕はすぐさま狂気に染まり、リンを歪めてしまうだろう。だから、寧ろ僕であってはいけないんだ。
ああ、今なら、あの日のリンの言葉に同意できる。
「…君を、愛してる」
だから、僕はもう行かなければ。
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ご意見・ご感想
零奈@受験生につき更新低下・・・
ご意見・ご感想
読ませていただきました!
やっぱり翔破さんは神ですw
私としては「囚炎」のラストの台詞をどう組み込むのか気になります。
これの最後のレンに言わせたらどうなるのかとか妄想もしましたw
あ、私も「雨夢楼」で小説書きました。
良かったら見てやってください。短いですが。
「雨夢楼・1 ~宵闇の雨~」
→http://piapro.jp/t/brpS
2011/04/06 17:02:48
翔破
コメントありがとうございます!
そうですね、囚炎ラストの台詞は最終にちょっとだけ使われています。
でも確かにここのラストのレンは心情的にそんな感じです。
そして雨夢楼きた!テンションあがりました!
2011/04/06 20:01:41
シベリア
ご意見・ご感想
レンはすごく病んでたけど、直った?のかな
リン大丈夫かな・・・
ミクは2人を試していたのか・・・
続きまってます!!
2011/04/04 10:43:12
翔破
コメントありがとうございます!
次で終わりになりますが、本編というよりは後日談のようなものだと思って頂いた方が良いかもしれません。
一応骨格はできているので、早いうちに上げられればと思っております!どうなることやら…
2011/04/04 21:39:28
秋来
ご意見・ご感想
レンが壊れた(泣)
けどなおったっぽい・・・よかった^^
ミク姉はだました!?
次の話が楽しみだ!!!
2011/04/03 22:36:48
翔破
コメントありがとうございます!
本当はもっとヤンデレ臭を出すつもりだったのですが、意外と回復が早かったので全体としてはそうでもないレベルになった…かな…?
はい、次で終わりになります。ちゃんと終われるように気合い入れます!
2011/04/04 21:34:15