その日、私は初めて一人になった。
きっかけは些細なことだった。唯一の家族である兄と口喧嘩になり、頭にきた私は部屋に戻り、リュックに荷物を詰め込んで家を飛び出した。
リュックの中身は一日分の着替えと財布くらいのもの。せめて今日一日くらいは、兄の顔を見たくないと思った。
勢いで飛び出してきたものの、一日泊めてほしいと頼めるような友達はいないことに気がついた。
昔から仲のいい友達はいる。今の友達は社会人か大学生、だけど今まで一度もお泊まり会などしたことがなかった。突然押しかけて一晩お世話になる、そんなことはとてもできそうにない。
せっかくなのだから、普段行かないようなところまで行ってみようか。頭に浮かんだのは、中学生のときまで住んでいた街だった。電車に乗る時間は長いが、乗り継ぎ自体はそう多くない。幸い、ICカードの残高は片道分くらいはありそうだった。
今住む地域よりは茹だるような暑さがないのは、県を一つ跨いだからだろうか。
駅から出た私の目は真っ先に駅前のビジネスホテルを捉えた。フロントに行って問い合わせてみると、幸いにも空室があったので一泊していくことにした。フロント横の自動清算機に受け取ったばかりのカードキーを入れ、一泊分の料金を投入する。チェックアウトは、同じように自動清算機にカードキーを入れるだけでいいらしい。面倒くさくなくて良い。
大浴場は夕方から夜中まで使用可で、何度でも入ることができるようだ。汗を流していくことにして、部屋に備え付けのバスタオルを手に浴場があるフロアへ向かう。
入浴可能な時間になったばかりだからか、浴場は誰もおらず貸し切りの状態だった。温泉が大好きというわけではないけど、広い浴槽に一人でのびのびと浸かる経験はあまりないから新鮮だった。
そもそも、部屋内のお風呂は三点ユニットバスになっているので、狭い浴槽では伸び伸びとくつろぐことはできない。むしろ後でお手洗いに行くときに、足が濡れないように気をつけなければいけないくらいだ。慣れてしまえばいいのだろうけど、そもそもこういうところに泊まる機会自体あまりなかった。
浴場を出たのは午後四時半。部屋に籠るにはまだ日が高いし、フリーWi-Fiを頼りに暇を潰そうとしても時間がありすぎる。それに夕食をどうにかしなければいけない。ついでに、お風呂上りに何か冷たくて甘い飲み物が飲みたい。財布とスマホ、カードキー以外の荷物は部屋に残し、散歩を兼ねて辺りを探検することにした。
ホテルを出て交差点を一つ渡るとコンビニがある。どんな知らない場所でも、コンビニがあれば大体何を家に忘れてきても大丈夫な気がする。何しろ近頃のコンビニは何でも売っている。
自信満々に入ったものの、アイスココアは売っていないようだった。完璧にアイスココアの気分だったし、コンビニに売っている自信しかなかったので、少しショックを受けた。何でもコンビニに売っている、これは間違いだ。売っていないものだってある。代わりに缶のカフェオレを買っていくことにした。
プルタブを押し上げ、中身を傾けながらまた歩き出す。日も傾き始め、涼しい風がふわりと吹き抜ける。出張先で、ホテルに戻って一杯お酒の缶を空けるという大人の気持ちが少しわかった気がする。今住んでいるところでお風呂上りに散歩でもしようものなら、日が暮れても蒸し暑さが残っているので気分はあまりよくない。場所が変わるだけでずいぶんと機嫌が良くなる。
さて、改めて夕飯をどうしようか。駅前にはコンビニ以外では居酒屋しかない。せっかく普段来ないような場所まで来たのだから、何かお店でご飯を食べたいなと思ったその時、後ろから声をかけられた。
「あれ? リリィさん?」
聞き覚えのある声だった。振り返ると、同世代くらいの黒髪に眼鏡の男性が立っていた。その姿を忘れるわけはなかった。中学時代に付き合っていたその相手は、戸惑った表情で私を見ていた。
「氷山くん、久しぶり」
「ええ。……戻ってきた、というわけではなさそうですね。それに、ずいぶん荷物が少ないように見えますが」
「え? ああ、そういえば家出中だった」
「家出? それはまた大変ですね。久しぶりですし、少し話もしたいので、今からお時間大丈夫ですか」
「余りまくってるから大丈夫だよ」
公園のブランコで隣同士お喋りするような歳ではないし、ベンチに座るよりも歩きながら話がしたかったので、特に行き先も決めずに二人で散歩することにした。私が久々に戻ってきたことに気を使ったのか、彼もいろいろな場所を見せたいと言うので彼の後ろに続いて歩き出す。
歩いている間に、軽い世間話と、高校以降の生活についてお互い話をした。高校卒業後、近場に就職したのは一緒らしい。職種は違ったけど、思っていた以上に社会人が大変なことを共感し笑った。
「学生のとき以上に、朝起きたくない気持ちが強くない? あと五分って昔はよく簡単に言ったけど、その五分って今ではすごくありがたいよね」
「わかります。仕事中は『帰ったらこれをやろう』と決めていても、家に帰ると眠気を優先してしまうんですよね。体力を担保に夜遅くまで起きるなんてとてもとても」
「二十代前半でこれだから、三十代以降はきっともっと大変なんだろうね。肉すら食べたくないってなってたりして」
「既にもう肉は赤身だけでいいような感じですよ、僕は」
「あー、わかるけどわかりたくないなあ、若くないことを認めるみたいでさ」
元恋人と久々の再会で何か変わるかと昔は思っていたけど、会ってしまえばお互い当たり障りの無い話をするだけで特に何も変わらない。好きだった感情が再燃してまた付き合う、なんていうのはフィクションの出来事だったんだなと思った。まあ、今でも好きじゃないかと言われれば違うのだけど、友達に対する好意のように好きの種類が少し違う。こうやって他人事のように思えてしまうのも、大人になったという証拠になるのだろうか。
互いに近況については踏み込まないうちに、遠目に海が見えてきた。海に近い街だったけど、私自身泳ぐことが苦手なため、誰とも海まで出かけることはなかった。恋人と海デートなんてなおさらだ。そもそも彼と二人で出かけた思い出自体少ない気がする。
「わあ、ここ崖になってるんだね。昔から海が好きじゃなかったから、こんなところまで来たことがなかったな」
「あ、それ以上前に進むと危ないですよ。声に誘われますから」
「声? 何それ」
「知りませんでした? ここ、人魚の歌に気をとられて崖から落ちる、なんて噂がある場所ですよ」
「怖っ! というか、そんなファンタジーな噂、あったの知らなかった」
「まあ、人魚なんて存在しませんけどね。でも本当に危ないのは事実ですから」
ガードレールがひどく歪んでいる場所があった。どんな噂があるにしろ、いろいろ危なそうな場所なのは本当らしかった。
「あのさ、家出してきたって言ったでしょ。日ごろの生活について、兄さんと言い争いになってね。それで飛び出してきたんだ」
「……それで、どうなんです?」
「まあ、ここまで来るのに時間はあったし、ちょっとは落ち着いた。あ、でも、昔の元彼に会ったなんて言ったらまた鬼になりそう。氷山くんと付き合ってるとき、あまりいい顔してなかったから」
兄は髪が長く、剣道をやっていたことがあって、和服に着替えれば武士っぽく見えることもある。そんな兄が鬼になる瞬間はあまり見たくない。鬼より怖い何かになりそう。
「ああ、あのお兄さんですか」
「そうそう。私のことなのに横からいちいち口を出してさ、うっとうしくなることもあるんだ。ちょっと仕事がうまくいかなくてへこんでて、放っておいてほしいのに何度も何度も話しかけてくるのが嫌になって、それで飛び出した」
「一人になっていろいろ考えたいですよね。それこそ、誰もいない場所に行けたらって、知人がいなさそうな場所に足が向かいますよね」
「そうそう。今の人間関係から少しでも逃れたいから、今の私と関わりが薄い場所に行きたくなるんだよね」
同じような境遇なのだろうか、彼は私の心に重なるような言葉をかけてくる。
「逃げるなら、僕と一緒にいきませんか」
「楽しそうだけど、今話を聞いてくれるだけで十分だよ」
「はは、振られちゃいましたか。きみの背中を押したかったんですがね」
「気持ちの整理はついたし、やっぱり誰かに話すだけでもすっきりするからさ。今日会えて良かったよ」
「そう言っていただけると嬉しいです。もう日が沈みますし、この辺りは街灯も少ないですよ」
「危なくなるね。じゃあ私、戻るわ」
「大通りまでは送っていきますよ」
「うん、ありがとう」
駅前で彼と別れ、夕食をとるつもりだったことを思い出す。どこかへ食べに行く気力は今はあまりない。コンビニは何でもあるわけではないけど、簡単に食事をとりたいときはすごく心強い。
自由で誰も私を制限しない状況を望んだのに、段々と寂しいような感じがしてくる。ホテルのフリーWi-Fiを使って動画サイトでも見ようかと思ったけど、電波の状況はいいはずなのになかなか動画を読み込まないスマホに苛立って、充電器に繋いだ状態でスリープモードにして、もう寝ることにした。
電気を消してもなかなか眠れない。そういえば、知っている人が身近にいない状況で一人きりで眠るのは初めてかもしれない。修学旅行では友達と一緒で、家では一人部屋でもリビングにいけば兄がいる。誰かが一緒に生活を共にしているのは、本当はすごくありがたかったんだ。ひとりじゃないと思えたから。今になって、いろいろ気にかけてくれる兄にすごく救われていたことに気がついた。
明日はどこに行こう。その予定はもう決まっている。チェックアウトしたら、真っ先に帰ろう。すごく怒られるだろうけど、兄に謝らなくちゃ。
「ただいま」
「どこに行ってたんだ! 連絡もとれないし、帰ってこないから心配してたんだぞ」
「あれ? 履歴残ってないけど」
「いやいや、ほら……本当だ。リリィのスマホ、圏外だったのか?」
「ううん、昔住んでたところに行ってた。Wi-Fiあるところにいたし、連絡に気がつかないなんてことはないはずなんだけどな」
「まったく……リリィ、すまなかった。リリィの気持ちも考えずに軽々しく口をはさむべきじゃなかったな」
「私こそごめん。お兄がいろいろ心配してくれてるの、すごく嬉しいから」
意外にもカミナリが落ちることはなく、兄はすぐに昼食を用意してくれた。トーストをかじる私に、兄は一日どこへ行っていたのかを聞いてきた。
「久々に帰ってみてどうだった?」
「まあまあ楽しかったよ。そんなに冒険はしてないけど……そういえば、人魚の声がするなんて噂あったんだね。私そういうの興味ないから知らなかったんだけど、お兄は知ってた?」
問いかけた私の言葉を聞いた瞬間、兄の表情が真っ青になった。
「ちょっと待て、崖へ行ったのか?」
「え、うん、氷山くんと一緒に」
「氷山?」
「あ、違う違う、偶々会っただけで別に変なことは」
「ニュース、見てないのか」
「え?」
本当に何も知らないんだな、と確かめるように呟いた後、兄はテレビの電源をつけてこの地域のニュース番組を再生した。
そこには、崖から転落して亡くなった人のニュースが放映されていた。示されている名前は、昨日確かに一緒に話していた彼のもので。
彼の遺体は昨日の朝発見されたらしい。そんな事故が起きたばかりなら、その現場に近づけるはずがないのに。
「あそこは、人魚の声がするんじゃない。死者に呼ばれているように飛び降りる人が多い崖なんだ」
学生時代から自身のあり方に苦しみ、中学生以降心の支えを失い、仕事がうまくいかないことが決定打だったと記された遺書が見つかったらしい。
「駅前で会った彼は、リリィが知っていた氷山くんじゃない」
いろいろな話をした。当たり障りのない話を、昔を懐かしむ話を。近況の人間関係に悩んでいることを。
彼は言っていた。僕と一緒にいきませんか、と。きみの背中を押したかったとも。
背筋が冷えるような感覚がした。彼の言葉に頷いていたら、いったいどこへ連れて行かれたんだろう。彼が私の背中を押したかったのは、希望の未来へか、それとも。
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のの
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そしていつも、1つの自転車に変わった乗り方で乗るカップルに追い越されていく。
友「不思議な乗り方してるよね。」
それは、特に興味もなさ...帰路
あんバター
あなたをさがしてる
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